昭和の電車 改訂版(99)ー東急玉川線デハ200型ー 投稿日時: 2020年8月12日 投稿者: 米手作市 最晩年の200型に乗ったことがあります。三軒茶屋にあった友人の下宿で洗面器を使って(鍋がなかったため)すき焼きをしました。でも電車の乗り心地は覚えていません。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 昭和の電車 改訂版(130)ー札幌市電A830型ー 昭和の電車 改訂版(122)ー営団地下鉄6000系ー 昭和の電車 改訂版(87)ー淡路交通モハニ2007ー 昭和の電車 改訂版(66)ー京福電鉄ホサハ61型ー 昭和の電車 改訂版(64)ー南海電鉄モハ1501型ー 昭和の電車 改訂版(60)ー高松琴平電鉄62号ー 昭和の電車 改訂版(39)ー近鉄ラビットカー6800系ー 昭和の電車 信濃鉄道デハユニ1
米手作市様 洗面器を使ってつくるすき焼きはいかがでしたか。その三軒茶屋からは少し離れた澁谷道玄坂のあたりの上通という停留所付近で1966年3月頃に撮った201の後ろ姿です。性能や使い勝手はよくわかりませんが、丸っこい車両は好きでした。 返信 ↓
米手作市様 お久しぶりです。 洗面器でスキ焼ですか! なるほど下宿仲間とは良く有りそうな話ですネ。 ところで、このタルゴ、小生も渋谷周辺で撮っておりますが、手元にあるのは『取り敢えず』と押したシャッターが逆光線だった物が1枚のみ。 タルゴはピク誌等で見厭きていた?感もあって、それよりも添付の車輛の方に独特感を感じた記憶があります。 返信 ↓
河 昭一郎様、 ご無沙汰しております。 玉電は、乗り心地など使用感を話してくれる方が意外と少ないのはどうしてでしょう? 乙訓の長老様の思い出写真にこの電車が出てきました。私が「赤塚不二夫画伯描くところのレレレのおじさん」と書いたのを覚えております。 返信 ↓
米手作市様 玉電の乗り心地、使用感を話せる人は今では少ないと思います。玉電は三軒茶屋ー下高井戸間の世田谷線を残して1969年5月に廃止されています。乙訓の老人さんクラスあるいは現在お休み中の方を除いてわざわざ撮影に行った人も殆どいないと思います。ただ、70、80形は世田谷線でも残っていましたし、江ノ電に行った車両もありました。個人の感想ですが特に印象に残る乗り心地ではなかったように思います。200形は独特のスタイルでいろいろと技術的にトライした車両ですが、乗ったことはありません。道路渋滞で乗り心地どころではなかった1969年3月31日大橋付近の風景です。ひょっとして東男の宮崎さんがご存じかもしれません。 返信 ↓
ぶんしゅうさん お久しぶりです。 これ、最終日ですか?いまならカメラを持った連中が押すな押すなと集まり、涙を流しながら「無くなるのはさみしい。ありがとうと言ってあげたい!」などと乗ったこともないのに言うのでしょうね。 すばらしい最終日です。 返信 ↓
準特急さまから声を掛けて頂いたのに、ダンマリはできません。小生は、小学校から高校まで、玉電を横切って通学して居りました。でも小学校のときはバス、中・高校は自転車だったので、残念ながら玉電での通学ではありませんでした。しかし十年以上も毎日見て居りましたので、思い出はいっぱいあります。しかし廃止からもう、50年以上が経つとは、月並みながら光陰矢のごとしですね。写真もたくさん撮りましたが、当然末期のものですから、ここではGordon Davis氏の昭和30年頃、200形デビュー直後のものをお目に掛けましょう。とは言っても、外観は廃止された頃と殆ど変りません。正面に「連結2人乗り」の標識が付いたのと、行先札が中折れで、捲るようになっていたのが、1枚もので差替えるようになったくらいです。驚くのは交通量です。Davisさんの写真では、自動車は2台しか写っていません。この玉川通り、今では頭上に高速道路まで通り、自動車の洪水です。乗車したことはありますが、乗り心地は正直記憶にないです。しかし、低床で子供には優しかったですね。以前の80形など、中央扉は外部に可動ステップはあるが、ほんの申し訳で、子供には崖から降りる位の感じがしたものでした。 返信 ↓
宮崎繁幹様、準特急さん ありがとうございます。玉電は車輌より沿線の風景の方に思い出が多いようですね。なるほど電車は変わり映えしませんが沿線は隔世の感、というよりは別世界のようですね。これが昭和30年頃と言うことですが、最初にある準特急さんの写真は昭和41年ですから交通量が激増したのは40年代に入ってからで、それ以前はあまり変化はなかったのでしょう。 返信 ↓
米手作市様
洗面器を使ってつくるすき焼きはいかがでしたか。その三軒茶屋からは少し離れた澁谷道玄坂のあたりの上通という停留所付近で1966年3月頃に撮った201の後ろ姿です。性能や使い勝手はよくわかりませんが、丸っこい車両は好きでした。
準特急さん、
お久しぶりです。
すき焼きはシャボンの香りがしました!
200型の乗り心地はどうだったのでしょうね?
乗って通勤通学した人はいないのでしょうか?
米手作市様
お久しぶりです。
洗面器でスキ焼ですか! なるほど下宿仲間とは良く有りそうな話ですネ。
ところで、このタルゴ、小生も渋谷周辺で撮っておりますが、手元にあるのは『取り敢えず』と押したシャッターが逆光線だった物が1枚のみ。
タルゴはピク誌等で見厭きていた?感もあって、それよりも添付の車輛の方に独特感を感じた記憶があります。
河 昭一郎様、
ご無沙汰しております。
玉電は、乗り心地など使用感を話してくれる方が意外と少ないのはどうしてでしょう?
乙訓の長老様の思い出写真にこの電車が出てきました。私が「赤塚不二夫画伯描くところのレレレのおじさん」と書いたのを覚えております。
レレレのおじさん
米手作市様
玉電の乗り心地、使用感を話せる人は今では少ないと思います。玉電は三軒茶屋ー下高井戸間の世田谷線を残して1969年5月に廃止されています。乙訓の老人さんクラスあるいは現在お休み中の方を除いてわざわざ撮影に行った人も殆どいないと思います。ただ、70、80形は世田谷線でも残っていましたし、江ノ電に行った車両もありました。個人の感想ですが特に印象に残る乗り心地ではなかったように思います。200形は独特のスタイルでいろいろと技術的にトライした車両ですが、乗ったことはありません。道路渋滞で乗り心地どころではなかった1969年3月31日大橋付近の風景です。ひょっとして東男の宮崎さんがご存じかもしれません。
1969年5月10日玉電最後の日はたまたま旅の途中で東京に居りましたので早朝から撮影に挑みました。今と違って撮影者は少なく夕刻近くまで全線で撮りました。
こちらは花電車です。
ぶんしゅうさん
お久しぶりです。
これ、最終日ですか?いまならカメラを持った連中が押すな押すなと集まり、涙を流しながら「無くなるのはさみしい。ありがとうと言ってあげたい!」などと乗ったこともないのに言うのでしょうね。
すばらしい最終日です。
準特急さまから声を掛けて頂いたのに、ダンマリはできません。小生は、小学校から高校まで、玉電を横切って通学して居りました。でも小学校のときはバス、中・高校は自転車だったので、残念ながら玉電での通学ではありませんでした。しかし十年以上も毎日見て居りましたので、思い出はいっぱいあります。しかし廃止からもう、50年以上が経つとは、月並みながら光陰矢のごとしですね。写真もたくさん撮りましたが、当然末期のものですから、ここではGordon Davis氏の昭和30年頃、200形デビュー直後のものをお目に掛けましょう。とは言っても、外観は廃止された頃と殆ど変りません。正面に「連結2人乗り」の標識が付いたのと、行先札が中折れで、捲るようになっていたのが、1枚もので差替えるようになったくらいです。驚くのは交通量です。Davisさんの写真では、自動車は2台しか写っていません。この玉川通り、今では頭上に高速道路まで通り、自動車の洪水です。乗車したことはありますが、乗り心地は正直記憶にないです。しかし、低床で子供には優しかったですね。以前の80形など、中央扉は外部に可動ステップはあるが、ほんの申し訳で、子供には崖から降りる位の感じがしたものでした。
失礼しました。画像ファイルが、大きすぎたようです。小さくして貼り直します。
申し訳ない。未だ大きすぎたようです。
もう1回だけトライしてみます。
宮崎繁幹様、準特急さん
ありがとうございます。玉電は車輌より沿線の風景の方に思い出が多いようですね。なるほど電車は変わり映えしませんが沿線は隔世の感、というよりは別世界のようですね。これが昭和30年頃と言うことですが、最初にある準特急さんの写真は昭和41年ですから交通量が激増したのは40年代に入ってからで、それ以前はあまり変化はなかったのでしょう。