初めにお断りしておくが、子供の頃のスクラップなので日付を記入していないものがある。そのためいつの記事か分からないものには『●年●月・・』と記入しているのでお分かりの方はコメントでお教えいただきたい。また、事件事故に関係する方、目撃者、解説できる方のコメントをお待ちしている。
では、最初は昭和35年、1960年から始めよう。
この頃からオリンピックへの建設工事が活発になってきたのに伴い、全国でダンプカーやトラックとの踏切事故が多発しだした事を念頭に置いて見てほしい。
⇧中学生の置き石事故とのこと。国鉄は6000万円を請求したとあるが、最近の飛び込み事故でも「人身事故」などと柔らかく表現しないでズバリ「飛び込み事故」と書いて損害金額を家族に請求すべきと私は考える。
⇧一畑の転落事故と創価学会の記事の日にちが分からない。➜1961年2月3日
ところで創価学会事件の記事の最後で金沢鉄道管理局長が言っていたコメントには驚く。
⇧この事故(京急)の日付が分からない。スクラップの位置からして1960年後半と推量する。➜1960年9月12日
⇧なんとも剛胆な事件ではあるが、記事の最後に書かれていることの方に驚く。ダイナマイトで線路が吹き飛ばされて重傷者が出た。その発生が二十二時二十九分。四時間後の二時四十分にはダイヤは平常に戻ったとある。今のJRならどうだろう?
⇧連結器が外れた事故への客車区のコメントも、その通りだが言い方があるだろうと思う。当時の国鉄の自信というか、利用者への態度がよく解る。
こう言う具合に勧めて参ります。(続く)
よくもまあこんなに事故ばかり。尾道の事故はよく覚えています。はじめは「バカなことを」と思いましたが、当時としては気の遠くなるような6千万円強の賠償金請求にはドギモを抜かれ、ちょっと可哀そうにも思えたものです。
暖房不調事件の局長の話は信じられませんね。やっぱり「乗せてやる」の時代背景がうかがえます。団体であれ運賃を収受する以上は設備をきちんと整えて供すべきでしょう。
鹿部の爆破事故は知りませんでした。ダイヤ収束に驚いておられますが、事故が砂原回りの上り線で起きたことや、当時のダイヤでは深夜の石狩、大雪の後の旅客列車が無かったことから、一般にダイヤを公表しない貨物レを言わなければ2時半には十分正常に戻ったと言えると考えられます。あとの記事にある「火吹きはつかり」はなんと56分で運転再開していて、これは現在の人身事故時の再開目安と同じですね。上下線が分かれていたことと運転本数が少ないことが幸い?したのだと思います。
沼津→糸崎、当時はそういう昼行長距離鈍行がありましたね。柳井→米原とか。減圧式ブレーキは列車が分離した場合に効くためのものですが、それにしても仰るようにもう少し表現の仕方があったように思います。
「はつかり」の初期故障は色々言われてましたがこんなにもヒドイものだとは知りませんでした。時期がわかるのが一つもありませんがお許し下さい。
引き続き面白いネタを期待しております。
1900生さん、
時は変われど事故の内容はあまり変わりません。
ですが記事の書き方はすごく変わっているのが分かります。やはり60年の歳月はそれなりの変化を生むのですね。
沼津発糸崎行の鈍行とは。京都発糸崎行にはよく乗りましたが。
これから有名な事故が出てきます。スキャンしながらですので気長にお付き合い下さい。
昭和36年6月号の時刻表によれば、沼津発糸崎行きは113レで、沼津発6:10,京都着15:20,糸崎着22:59となっています。更に111レは東京発14:40、京都着3:51、門司着20:15とロングランしています。他にも多くの長距離普通列車が走っていた時代ですね。
西村雅幸さん、
この当時は糸崎が山陽道の重要拠点だったのですね。糸崎機関区があり、呉線と山陽線の分岐点だったり。今の糸崎はどのようになっているのでしょうか?
米手作市さま
かなり前から駅員無配置のダダっ広い構内(元機関区跡の留置線)を持つ寂れた駅になっています。機関区も無くなり、寂れたとはいえまだ山陽筋の運転上の要衝であることに変わりはなく、2面4線のホームを有効に使って岡山方面の電車と広島方面とが折返して乗り継ぐ駅になっています。現在のブツ切りダイヤで糸崎を直通する列車は貨物レと岡山方面と三原を発着するレだけで、岡山~広島間を直通する227系はありません。
113,115系時代の異性能電車時代でも下関区の115系3000番代車が姫路まで運用されていましたが、同一車種になったらブツ切り乗換ダイヤになりました。新幹線こだまもほぼ1時間に1本ですから、三原あたりの乗客からよく苦情が出ないものと不思議に思っています。要は余り乗ってほしくないのではとすら思ますね。
米手様は、こんな新聞記事まで丹念に、取っておかれたのですね。敬服致します。ところでお尋ねの発生日不明の2件については、ちょっと調べ判明したので、お知らせしておきます。京急の追突事故は
、昭和35(1960)年9月12日。一畑の脱線転覆事故は、昭和36(1961)年2月3日です。日本鉄道運転協会が発行した「重大運転事故記録・資料」に拠ります。
宮崎繁幹さん、
いつも助けていただきありがとうございます。
子供の頃からのズボラ症で、あとで記入しようと切るだけ切っておいて、そのままという次第です。
早速訂正致しました。
また宜しくお願い致します。
1900生さん、
ありがとうございます。
昔は糸崎と聞くと遙か彼方の異境のイメージがありました。大型機関車が黒煙を上げて、客車や貨物で混雑している活気ある重要拠点だと感じる事が出来たのです。
いちど書きたいと思っていたのですが最近のJRはする事なす事全て客のことなどかけらも気に掛けず、ひたすら会社の利益のみを考え、サービスは限界まで切り下げて交通事業者にとって最大の使命と言える輸送力・定時性・速達性を無視しているのは許せないと感じています。
民営化は大失敗だった!
米手様、1900生様
糸崎駅の様子をお知らせします。6年前の撮影ではありますが、中央にある山陽白色セメント工場が廃業し、2本の大煙突が解体された他は大きな変化はありません。
西村さん、
JRは糸崎、三原あたりの市民に対して対応が冷たいですね。糸崎が無人駅とは!
私が参照した、鉄道事故の概要を知るのに便利な本を2冊紹介しておきます。先ず「重大運転事故記録・資料」があります。これは(社)日本鉄道運転協会の発行で、かって昭和61年度まで収録されたものが刊行されました。私が持っているのは、それを復刻し、更にその後の記録を追加したものです。平成18年度までを追加したもので、平成21年6月10日の発行です。最近更にアップデートし平成23年3月までの記録を追加したものが、発行されています。国鉄の分は、日本国有鉄道運転局保安課が纏めたもので、地方鉄道・軌道は運輸省の纏めです。重大運転事故の定義は、両者で若干異なります。国鉄では:①乗客が死亡、②乗客であるかないかを問わず、10人以上の死傷者、③20両以上が脱線、④その他特に重大と認められるもの、何れかに該当する場合。地方鉄道・軌道は:①10名以上の死傷者、②10両以上が脱線、 ③その他特に重大と認められるもの、の何れかに該当するものです。
2番目は沖田祐作さんの労作、「三代事故録・鉄道事故年表」です。本としては、沖田さんの自費出版で平成7年に出版されたのが最後と思うが、後にネコパブから「機関車表」がCDで出版された際、一緒に含まれていました。
宮崎繁幹さん、
こんな本があるのですか。
お手数ですが本日投稿の事件・事故編2にも時期不明があります。お助け下さい。