京阪3000系が走りだすと共に元近鉄特急車であった1編成は、外部塗色を元の特急色に戻すことになった。1996年訪問時、新金谷工場は塗装下地作業に追われていた。翌1997年関西の電車ファンの一部で話題となっていた近鉄南大阪線の特急車が、大井川鐡道に到着したとの報を得て老人が訪ねたのは8月13日午後であった。岳南鉄道に京王3000系が入線したとの情報も得ており、新幹線新富士経由で吉原へ、そこで金谷へ急いだ。先ず近鉄特急の留置先を運転手に聞いて直行だ。千頭駅ではお馴染みとなった留置線に出向いて【びっくり!】した。
先頭車16001号の特急標識の上には貼り札がある。それを見た時「日本制輪子工業所有車」の文字にびっくりしたのだ。阪急2800系が廃車になったとき、どこやらのブレーキシューメーカーが【阪急と富山地鉄】との橋渡しをしたらしいが、阪急京都線特急は高速で酷使されており車体に緩みが生じており、京阪3000系に変更になったそうだ、との噂話を耳にしていた。その時は部品メーカーが廃車物件に手を出すなんて信じられない話で、終戦直後の喉から手が出るほどに車両不足の時代なら分かるとして、経済成長時代では「あほかいな」と一笑に付される話が本当にあるのかと、わが目を疑ったものだ。その後、伏木あたりのスクラップ(リサイクル)業者がJR車両の解体をしているのをテレビで見たが、こうした業者が一枚噛んだのかな? それで使用済みのブレーキシューの後始末屋の出番となったのかな? 真相はわからない。どんな背景を担いで近鉄特急がやって来たのか、だれか教えて下さーい!
乙訓の長老様
大井川の近鉄特急の写真を見て、思い出したことがあります。テレビドラマを見ている時に、どこか田舎の駅から電車に乗るシーンがあったのですが、その電車が近鉄特急でした。その駅は山間の単線の駅で交換ができるようになっていました。いい雰囲気の駅であったので近鉄吉野線にこのような駅があったのかと思い、写真を撮るのにいいから行ってみようと思っていました。しかし、よく考えてみるとそれは大井川鉄道のようでした。長老様の雑木林をくぐる電車と鉄橋を渡る電車の写真は吉野線で撮ったと言われるとそうかと思ってしまいます。ところで、来年の秋に阿部野橋から吉野へ豪華ブルートレインが走るようでちょっと気になります。それが通勤電車の6200系の改造ということでどのようになるのかもちょっと興味深いです。
どですかでんさん、何を引き合いにだすかと青春時代の吉野線に的を当てました。吉野口やったか下市口やったか忘れましたが駅を出たところで大きな鉄橋があったぞ、と思い出し、キャプションに使いました。この年は川の浚渫をしたところで、1997年訪問時から腰にゴム草履をぶら下げており、翌年の本線デビューに間に合いました。とてもきれいな白砂で、吉野川もこうであろうと勝手に決め付けました。沿線風景を合わせてやろうとあっちこっちで試みるのですが、うまくいかない場合が殆んどです。吉野線は2度乗っているのですが、2度目も社会人になって15年目ぐらいで、それも花見で橿原神宮乗り換え後チビリチビリの時代でしたから、よく覚えていません。本年77歳になりましたが、ー37とすれば40年吉野路に無縁となります。
乙訓の長老様
『デジ青』での活発な話題提供に『よそ者』の小生も毎回感激しながら読ませて頂いております。
連載?の大井川鉄道も楽しく読ませて頂いており、特に岳南鉄道と絡めた記事には親近感があります。
と言うのは小生にも岳南鉄道にまつわる思い出があるからで、かつて現役時代に左遷に遭って?2年近くの間、横浜市内~日産前片道2時間半の通勤で毎日世話になったからです。
当時は所謂『赤ガエル』が2連で走っていましたが、台所事情のためかメンテが行き届いておらず、雨天の日はチョットした雨でも2~3の窓から雨が染み出て、その部分のシートがベタベタに濡れる状況でした。
一方長老の本題、大井川鉄道は有り得なかった関西私鉄の競演が実現していて興味津々です。
南海、京阪、近鉄の他、阪急、阪神も欲しいところですね。
日本制輪子工業は、ひょっとして購入資金不足で大井川鉄道からスポンサー依頼し、イベント運用を大井川鉄道が行うための苦肉の策?だったと考えるのは考え過ぎでしょうか?
河 昭一郎 さま、お元気な様子は先日のピク誌で拝見いたしました。デジ青を何時も愛読して下さり有難う御座います。時々「ちょんぼ」致しますが、倍返しルールがないので助かっております。また若いころのちょんぼは「そうやったかいな?」と、とぼけられますが、てっちゃん復帰(1986・昭和61年6月以降)以後となるとごまかせば笑いものになるので慎重に構えているはずですが、やってしまったのが大好きな京阪3000となりました。先にフィルムで確認しておけばよいのに、ピク誌で見つけた年月が頭にこびりついていたのです。この3000系は故人となった元社員が大好きで真鍮板を細工してHOサイズで走らせて居りました。3000系は京阪百貨店が仕入れて大井川で走らせたとの話を京阪馬鹿(乙訓の老人)の耳元で今回ささやいた元社員が現れました。何処で何が有るのか、関西では阪急はえらいと思っています。それは京阪が作ったデイを走行可能で保存していることです。JRもモハ80(湘南型)をMTc編成で走行できる姿で残すぐらいの度量があってほしいですね。モハ115の3連の話などないですか?写真取るだけでなく、残す運動も今のてっちゃんに求められないのでしょうか。産業発達史の一環となりますね。
乙訓の長老様
確かに『書く』と言う事は神経をつかいますネ。
特に長老様も仰せの記憶違いが曲者で、書いた後で裏を取る事にしているのですが、それが又小生の場合は不注意で困ったものです。
以前にもお話したかも知れませんが、その典型が『N電の走る四条通り部分の架線が四条線と北野線夫々引かれていてダブルになっていた』と、或る記事に結果としてウソを書いてしまった事です。
記事に貼付された『筆者撮影』の写真を良く見ると、合流部の短い区間以外は一本線になっていて共用していた事が歴然なのにです。
車両を残す話ではJR西に少なからず不満があります。
後生大事に東京の湘南形を抱え込んで、かのクモハ51を始め2枚窓で関西急電色のクハ86を残していない事です。
由緒あるクモハ52についてもJR東海のリニア館が有名ですし。
ついでに、大阪駅、京都駅の前衛的な姿も『商売本位』時代だとは言え、嘆かわしい限りです。
特に京都駅は『もうちょっと何とかならんかったんやろか?』と夢にまで?出ます。(笑)
河 さん、おっしゃる通りですね。復活以後、海外鉄研、路電同好会に入会したときのことですが、例会会場を弁天町鉄道科学館としていました。その時はJR西日本出向の方にお世話になったなったのですが、湘南型初期車が裏展示場に有るのに気が付きました。そこでお世話頂いている方に関西と縁がなく、岡山地区で僅かの間の運用したものを何故保存しているのか、との質問をぶつけたのですが、「分からない、とにかく残っていたものを据えたのではないでしょうか」との返事でした。大国鉄時代なら共に融通しあったでしょうが、分割後は行き当たりばったとなったようですね。その点、梅小路は時期がよかったと思います。意識的に残したものを1ヶ所に集めたのですからJR西は儲けたと思います。ならば現存のクハ85をJR関東に譲るのが本筋だと思います。モハ52は梅小路にあるD51 1と東海と交換、更にモハ1は大宮のクハ181と交換、米原の交流試作車もうまく配分してほしいですね。JR全社で額を集め考えてほしいですね。梅小路には御料車が1両ほしいですね。京都御所が有ります。
訳の分からぬ話となりました。ベルリンにはとにかく各地の保存車を集めたといわれている博物間に鹿島雅美さんに連れて行ってもらいました。ターンテーブル2台、車種の豊かさは各世代のものをとにかく集約したものだそうで、圧倒されました。写真取るだけでなく、雑巾で汚れ取りする喜びをてっちゃんに与えてほしいですね。でも喜寿ともなると腰痛でもう駄目でしょうね。これから整形外科へリハビリに出かけます。6月中旬から週3回通っています。