中国旅日記であんなことあるのかと怖くなり、また、日々デジカメとパソコンで悩んでいる超アナログ人間が今日は失礼して割り込まさせてもらいます。
近鉄大阪線長谷寺~榛原と言えば超有名な撮影場所。もうかれこれ5年くらい前のことであるが、近鉄特急の著者、総本家青信号特派員、新京阪沿線在住の元電車少年各氏と行った時のことである。元電車がふともらした言葉。「あんなー、電車ちゅうもんやなー、4両くらいが丁度ええんや」
この含蓄のある言葉。小生なりに4両ならMT半々が多く、パンタの位置も対称的で横から撮るにはいいのかなとか考えてみた。しかし、待てよ。ローカルムードは単行がいいし、長編成の方が堂々としてカッコいいとも思う。これは人それぞれのような気がする。
そして、やはり、各人それぞれが通勤通学などで毎日乗ったり、眺めたり、つまり、最も接触度の高い電車が好みとなるのではないか。それが、4両の特急であったり、10両の急行であったりするのであろう。撮影地などで鉄道少年に好みを訊くと殆んどが、JRのブルートレイン、特急電車と自分の住む近くの私鉄をあげる。多分、好みの電車は地域と時代が影響するのであろうと言うのが小生なりの結論である。勿論、そうでないという人も居られることは承知している。
ところで、京都の趣味の世界の大御所高橋弘さんの「関西の鉄道、その懐かしき時代」と言う交友社発行の写真集がある。お持ちの方も多いと思うが、この本は昭和20年代後半から昭和30年代のまさしく4両編成全盛期と言っても過言ではない時代の作品集である。戦前の古豪と各社競って発表した初期の高性能車が競演したこの時代は趣味的にも最も面白い時代であったような気がする。元電車少年の「電車は4両くらいがええ」と言うのはこの地域のこの時代を言われており、もっと言うなら、最近の暖かみの無い人間運搬車と化したステンレス長編成電車に対してうんざりされての発言ではないかと言う気もする。断っておくが、元電車少年はベースは地元関西であると思うが、日本全国くまなく行脚され、路面電車に至ってはドイツを制覇されたことを申し上げておく。
小生はそのような諸先輩から10年遅れて趣味の世界に入った。最初は蒸機で出発したが、DRFCの会員となった時、授業をサボって連日行われた伝統(?)の京阪・阪急論戦に巻き込まれ、次第に大手私鉄にも趣味の対象が拡がっていった。しかし、私鉄撮影を始めた頃には戦前の古豪はローカル運用中心で、初期の高性能車も阪神3011系や京阪1800系のように3ドア化されたり、ロングシート化されたりして原型を留めていなかった。それでも凡そ40年前の記録なのでフィルムに古傷の多い毎度の拙作ではあるが、数点披露したい。
①阪急900、920(1967.6.6 宝塚南口~宝塚武庫川橋梁 宝塚行き)
4両と言えば、阪急神戸線の900、920の特急を思い出す。赤い円形には白地で大きく特急、その両側に大阪、神戸と書かれていた。猛スピードで阪神間を往復していたが、気づいた時の920系は6~7連の各停運用。後年、今津線で写した4連に特急時代を重ね合わせた。
②阪急1000~1003(1969.3.4今津線仁川~甲東園 宝塚行き)
阪急初の高性能車。戦前の阪急スタイル920を踏襲して製造された戦後製の710、810の直ぐ後にデビュー。そのスタイルは大きく変化して次の時代の阪急スタイルとなった。そのスムーズな加速と静かな音は小学生には驚きで、2連で今津線に入線した時はわざわざ折り返して来るのを待って乗った思い出がある。
③阪急107・1529・105・1525(1969.1.30西向日町~長岡天神 天神橋行き)
関西3名車の一つP6が幌枠付きで4連で特急、急行で走る姿が最高。その姿には間に合わなかったが、それでも学生時代は各停3連と急行6連が結構見られた。撮影メモを見ると1968年頃から京都本線の各停には4連が登場していた。この独特の風貌を持つP6の最盛期は戦前の新京阪時代の2連あたりであったのかもしれないが、晩年の6~7連の線路が傷むほどの走行ぶりも魅力的であった。この電車に乗りたくて下宿を京都郊外に構えたほどである。
④近鉄2205・3011・2233・2304(1968.9.9赤目口 上本町行き急行)
近鉄特急の著者から、学生時代に当時旧2200で2ドアの原型が2両残っていることを教えられ、時々、大阪線、名古屋線を覗いて見た。急行は5~6連が主体であったが、4連も見られ、2ドアの片目スタイルが先頭で来た時はやったと思った。
⑤近鉄908(1968.4.20東生駒 上本町行き特急)
大型化された奈良線で無料の通勤タイプの特急が4または6連で走っていた。中には白色も残っていた。ネガを見ると800等小型高性能車も写っている。昨年、兵庫県で近鉄車両を撮ったので、今度は奈良県で阪神電車を撮りたい。
⑥南海2017・2818・2024・サハ4801(1969.3新今宮 難波行き特急)
南海2000も大出力の古豪電車。客車を牽く姿であるが、新宮発の客車は和服のおばさんの影になってしまった。これも4連電車である。
⑦京阪1804~1805(八幡町~淀 淀屋橋行き急行)
京阪の初期の高性能車。後に続く1810系とは車長が1メートルほど短いことは最近知った。この時期はまだ、特急色で2ドアの姿であったが、ロングシート化され、主に急行運用に入っていた。当時のネガを見ると他の急行も5~6連が多く、4連の急行はこの時期にはなかったのではないかと思われる。
⑧小田急1159~1059(2009.10.4富水 箱根湯本行き)
最近デジカメで撮った4連のうち二つ披露する。箱根登山カラーと言おうか、スイスカラーと言おうか、新松田~湯本間に毎日見られるもの。
⑨富士急1101~1205(2009.9.13 寿~三つ峠 大月行き)
元京王5000の2連+2連の4連。最近、富士急では客寄せでレトロカラーなどを復活させており、その都度、訪問せざるを得なくなった。
以上4連を中心にした古いネガを出してみた。 ご笑覧下され。
面白く読ませていただきました。
関西人なら戦前のモハ52流電のサロハを挟んだ編成なども
引き合いにしたい所でしょう。
国鉄電車80系も関西の急電は4連でしたでしょうか。
私が育った北九州地区でも421系は4連が基本でTc+M+M’+Tcでした。
私鉄吊り掛け時代のMc+T+T+Mcなんていうのは本でしか見たことがなく
結構憧れたものです。
一般気動車は片運設計が基本で3連でも5連でも何でもありで
フリージャズのような楽しみ方がありました。
客レの先頭に立つカマは単機が基本で補機がつくと興奮、それでも全体の
編成美で見るものでしょうね。
こうやって考えると電車の4連はシンメトリーの美学が基本でしょう。
破調が好みの向きは地方私鉄、屋根の高さ凸凹、小さなトレーラー牽引等々。
模型ファンにはこういうのが好きっていう人も多いですね。
経済、統計学的には4連で仮に定員400人とすると計算がしやすく
輸送人員と経営効率で朝夕は倍の8連にすると1時間あたりの列車本数が
何本要るとか、経営側が5連や7連では、というような計算をするより
楽ではと思われます。
あとは車庫や側線の長さをいくつに設計するか、という場合でも
4両基本にすると納まりが良さそうに思えます。無駄な線路長も取らずに
済みそうですし。
都市の人口増で電車の連結両数が増える一方だった高度経済成長期以降
でしたが21世紀以降は様相が違ってきています。
4両くらいがちょうどいい、そんな時代がまた来るかもしれないし
それ以下の衰退にならないで欲しいと思います。
興味あるコメントありがとうございます。
歴史的に見て吊り掛け電車は短編成が多い中で、80系湘南電車は長編成でないとみっともない代表でした。中距離運転を意識した室内は客車構造であり、みかん色の塗り分けと相俟って、戦後の復興と電車時代突入を感じさせてくれたものでした。モハ、サハ、サロが組み込まれて設計された80系電車の編成は当然5~6両以上になり、中には15~6連などもあったようです。晩年の飯田線、身延線、中央西線などの80系4連は湘南電車のイメージからして惨めな感じがしたものです。特にかまぼこスタイルの先頭車に改造された姿等にはがっかりしたものです。しかし、これはこれで車両のバリエーションが増えて面白いと言う人が結構居ることも承知しております。三ノ宮から1回だけ乗車したことがあります昭和30年前後の関西の80系急行電車はそれはまた、魅力的な4連でした。関西向けにオリジナルカラーで製作した復興期の明るい存在であったと思います。
H.K.生さんの地元北九州は蒸機の宝庫でした。フィルム代が勿体ないと考えた時代で、ED72、ED73、421系電車にまで手がまわりませんでした。ただ、今はなき「雑餉隈」という行き先を大きく入れた421系撮影が思い出です。