[2904]ぶんしゅう旅日記で伊予鉄道の鉄道線が出た。つい先頃路面電車の写真をこれでもかとばかりに並べ、多分に顰蹙を買ったばかりだが、横河原線ときては黙っておれない。で、また懲りずに40年以上前の写真を探し、いそいそとスキャンする事に。撮影は1965年7月12日と1966年4月29日。
周知の通り伊予鉄道は四国最初の鉄道(私設鉄道)であり、762mm軌間は我国最初である。機関車始め2軸客車は当初ドイツから輸入され、連結器は螺旋連環式だが、通常左右にあるバッファーが中央にユニコンのような1本のみ。
1911年以降路面電車が加わり、軌間762mmの主要線区は1067mm軌間に拡幅改築し電化。非電化の線区も次々と1067mmに改軌されたのは、単に貨車を直通させるためで、車体も連結器も元のまま。単に軌間を1フィート拡幅したのみで、予讃線が松山に達した以後も貨車の相互直通はなかった。
空襲でかなりの被害があったが、敗戦後1950年に郡中線が電車化したのち、非電化で残った横河原、森松線は1954年蒸気機関車を廃止しディーゼル機関車に。客車、貨車は全部2軸車だったが、客車2両をつなぎ、旧軸箱守を生かしてTR23タイプ?のボギー台車(メタル軸箱とコロ軸受とがあった)をはいたボギー客車に改造。DL1両がボギー客車3両(型式ハフ550+ハ500+ハニフ570)を牽引するのが基本で、ラッシュには重連DLがボギー客車6両を牽く列車もあった。森松線は1965年12月1日廃止。横河原線は松山市-平井が1967年6月10日、平井-横河原が10月1日、それぞれ改築・電化されて今日に到っている。
横河原駅を裏から見る
横河原駅
横河原線の列車
退校時の見奈良駅 駅員はラッシュ時以外無配置
横河原駅の本屋内部の写真がなく、現在の姿と照合できないのが残念だが、森松は撮っており、恐らく雰囲気に大差はないと思われるので、代用させていただく。改札口上部の発車時刻表ではおおむね60分毎の発車で、発駅の松山市では30分毎に横河原、森松行が交互に発車。だから両線が分岐する伊予立花では、上下DL牽引列車が1時間計4本=15分毎に行き交っていたことになる。
森松駅改札口と出札口 7、1019時台以外は1時間1本しか列車はない
森松駅 結構駅員がいるのは当時どこでも同じ 手小荷物も扱っていた
伊予立花駅 上下DL牽引列車が15分毎に行違う プラットホームが低い
入鋏式車内補充券は通常丸穴パンチだが、伊予鉄道では駅改札口で使うパンチを車掌も使っていたのが極めて珍しく、他例を知らない。
素晴らしい情景をみせていただき、感激している。非電化線については、1955年の記憶はいま一つ不鮮明で、1957年の時は松山市構内にSL,DL、PCがずらりと並んでいる片隅を横河原行きが通り過ぎたように思う。四国地区担当になり、高知~松山間は特急バスで山越えをした。途中、峠を前にバスは一服(トイレ休憩)するが、ここで一杯やるのが楽しみであった。砥部の狭い街路を抜け九十九折を下ったところが森松で、バスは伊予鉄・駅前に停車した。何度か下車して乗り換え、市内へ。そして道後温泉の定宿へ向かった。
森松線廃止は1965年11月30日。その数日前に「さよなら乗車」をしている。
この特急バスのルートはいつの間にか消えてしまった。なぜか土佐から伊予への方向しか利用していない。座席指定で、峠を超えて伊予側に入ると紅葉が素晴らしかった。1957年は須崎からの急行バスがあり、夜行便もあった。それで山越えしようと思っていたら台風来襲で欠便となり、土讃線で善通寺へ向かった。
昔は、こうなっていたのかと、何度も見ても、感動しております。ありがとうございます。
横河原駅は、先日行って見た感じ、そのものです。森松駅を見ていますと、よく似ているのが、分かります。
さすが、伊予立花駅の面影は、まったくなくなっていますが、今の路線跡の交通状況を考えますと、分岐していた森松線は残して、伊予立花駅~松山市駅を複線化したら、良かったのにと、思います。
最近、BS_AのTV番組で、『レールのあった街』を、欠かさず見ています。その度に、将来必要となる鉄路が、モーターリーゼーションのために、なくなっていったのを、悔しく悲しくなります。もう少しの先見のメイがあれば・・・・。環境保護が叫ばれる今、復活して欲しいと思うのは、私一人だけとは、思いませんが・・・・・。
60歳になりますが、子供のころは横河原駅から松山に伊予鉄ででかけました。その頃の駅舎や列車の写真を見ることができて、大変懐かしく思い出しました。横河原から田窪あたりは、沿線にクヌギ林が広がり、初夏になると緑のトンネルを通つているようでした。
私は、ディーゼル機関車しか知りませんが、蒸気機関車は、いつ頃まで運用されていたのでしょうか?