高島町駅の模型、細かい所までよく表現されており、感心して拝見しております。江若鉄道OBの方がご覧になれば泣いて喜ばれるのではないかと思います。
江若バスの写真は、鉄道廃止後も東京に引越しするまで、関係者の方とお付き合いさせていただいた関係で、ボンネット車、リヤエンジン車を含めていっぱいあり、ボンネット廃車時のイベント時のお手伝いをさせていただいたりしておりました。ボンネット車の最後の1両がいよいよ廃車になる時、会社の方に半分冗談のつもりで「以前走っていた栗原線と和邇~途中線に走らせたら」と提案したところ、その方から「運用を変更したから」と電話がありました。最終日に栗原バス停で、集落の人達がバスと一緒に記念撮影されているのを見て「よかった」と思いました。
滋2い1074(昭和41年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、堅田の名鉄マリーナホテルで送迎用として使用されていたが、現在は近江鉄道の所有となり、彦根市内で「ご城下巡回バス」として使用中。
滋2い1082(昭和42年式BXD30) 昭和56年2月12日付廃車/廃車後、濃飛自動車に譲渡され、観光路線で使用中。ボンネット部分が古いものと取り替えられたり、扉の移設が行われためスタイルは変化している。
滋2い1081(昭和42年式BXD30) 昭和57年2月16日付廃車/最後まで残ったボンネットバスであるが、廃車後の動向は不明。多分どこかに残っていると思われるが営業用ではないのは事実である。
和邇・途中線の栗原道~下竜華間を走行する滋2い1074
栗原線の栗原道~栗原間を走行する滋2い1074
白髭神社前(右側は江若鉄道の線路跡) 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時
朽木学校前の車庫 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時
町居付近 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時/走行している道路は、京都と小浜を結ぶ通称「鯖街道」国道367号線であるが、今もこんなに狭いのだろうか。
坊村 昭和57年1月17日、お別れイベント走行時
藤本哲男様
早速の投稿を頂き感激です。数多くの写真で色と塗りわけが判り 申しぶんのないものです。有難うございます。塗り替えが済めば またお披露目致します。それにしても直ちに写真が出てくるのは 余程しっかりと撮影データ、写真データが整理されているのだろうと感心しています。今後ともよろしくお願い致します。
これは懐かしい。堅田にまだ駅舎が残っていた頃ですし、実際に付近の曲がり角で
ボンネットバスに出くわし興奮して、その後日に数名で写真を撮りに行きました。
それから関西の方で自費出版でボンネットバスの写真集を出された人がいて
松本模型で実物を見てお金も無いのに(行為に感動して)買ってしまいました。
「走れボンネットバス」だったでしょうか。
モデラーズ・アイというのか、視点、視線がよくわかります。西村さんの模型
世界も復活されているようで楽しみです。
しかしこの頃はまだ滋賀県南部でもこんなに冬は寒かった。それから途中越えの
国道はすっかり変わっています。白髭付近も広い国道になりました。
バスの写真を撮るような「小さき細きものへの」哀感はすっかりありません。
それはこの国が施した、きれいで明るい社会の実現なのでしょうが、皮肉な
ことに田舎はすっかり魅力が無くなったような….
藤本哲男様
いつも貴重なご投稿、楽しみに拝見いたしております。
(実は私も京阪沿線の私立中高に通っておりました)
安曇川から朽木を経て途中峠を越え、大原・八瀬へ抜ける鯖街道は、
免許を取った三十数年前から、春や秋にはよくドライブしましたし、
夏は水泳客で渋滞する161号線の抜け道として、しょっちゅう利用しておりました。
ところがある夏、埼玉から遊びに来た従姉に琵琶湖を見せるべく、安曇川の白浜まで
行った帰り、国道は大渋滞! ついに小松キャンパス辺りで完全ストップ。
前の車のお兄さん連は、折り畳みテーブルを出して、何と麻雀を始める始末・・・
こりゃイカンと大分たって少し動いたチャンスに安曇川めがけてUターン!
ところが鯖街道はさらに酷く、100メートル歩いて10分休憩の状態・・・
これを幾度となく繰り返し、いつになったら京都に帰れるのか、
晩夏の夕暮れはこの谷合ではなお早く、不安はさらに募ります。
すると前方のカーブの陰から、制帽をかぶったオッサンが、旗と懐中電灯を持って
走って来ました。
何かと思って見ていますと、何と江若バスのボンネットが!
その後、地獄のような渋滞が一気に解消されたのはいうまでもありません。
現在ではルートの大半で、拡幅と急カーブの付替えが施工され、
対向車との離合にストレスを感じる箇所はないでしょう。
今でも自宅(山科)からはこの方面に頻繁にドライブしますが、
江若バスの色は昔のままです!