瀬野八本松1959年3月

憎っきネオパンSSのヴィネガー・シンドロームに関してはTSURUKAME氏が総括して下さったのでスルーし、シコシコ修整できた(修整不能も何コマかある)「せのはち」画面をご笑覧賜りたい。この10km区間を短靴で歩いたのだが、上りの機関車が盛大に散布する砂で、全く以て歩きにくく、再々靴に入った砂を排出せにゃならんかったのが未だに記憶に残る。恐らくは保線区が時折砂を撤去していたんじゃないか。何しろ枕木が埋まっていたのだから。

上の地図は当時のもので、今では沿線に家が立ち並び、かつては山陽本線と完全に並行していた国道2号線は、八本松側に4km程バイパスができてショートカットされ、その区間は山陽線と少し離れている。
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ヴィネガー・シンドロームその後(1)

先ずはこの写真をご覧あれ。憎っきネオパンSSのヴィネガー・シンドロームにやられたうちでも、まだまだ、かなりマシなネガのストレートなスキャンである。これを見て、諸兄は修復しようという意欲が湧くか?

1950年代後半以降の35mmフイルムベースが化学分解して酢酸が抽出し、やがてネガそのものを破滅させるヴィネガー・シンドロームは、一旦発生すると止めようがなく、隣接あるいは同梱の健全なフイルムをも共連れにしてしまう。最初は強烈な酢酸匂発散から始まって、次第にフィルム自体がベットリし、こうなっては後の祭りで、早めにデジタル化する以外方策はない。
症状にもバリエーションがあり、さしてベトつきはしないけれど、ネガ自体が保存方法にもよろうが、あたかも丸い塗り箸か、ストローかのように直径数ミリ、縦に丸まってしまうケースもある。これは物理的に拡げる限界を通り越しており、一コマずつに切り離し、強引にスライドマウントに納めてホッチキスで止めてスキャンした奴もいるが、ネガはそれっきりになった。 続きを読む

札幌市路面ディーゼルカー

湖畔の老人氏から札幌市交通局路面ディーゼルカーの写真が出た。電車なら出る幕はないが、事ディーゼルカーとあらば、この須磨老人が黙っている訳には参るまい。この異端ともいうべき一連のディーゼルカーに関しては、意外に情報がない、或いは知られていない、という訳で勝手に力んで、鋭意以下講釈に及ぶ。

時は1958年―ほぼ60年前にさかのぼる。ともかく元気だった札幌市は、人口増加が激しいだけでなく意気盛んだった。1950年代後半以降急速な都市化―市域拡大で、特に札幌駅前から函館本線をオーバークロスし、北の琴似に向かう鉄北線が1952年から1964年にかけて新琴似駅前に延長され続けた。この延長区間を電化せず、ディーゼルカーを運行すれば、変電所の増備が不要で、架線も電柱もないから都市景観上も、いいことだらけとして発案されたのがこの路面ディーゼルカーであった。

1958年2月12日「工事方法変更」が申請され、従来の動力「電気」に「内燃機関」が付加された。ほぼ従前通りの車体床下に最大出力150PSの日野DS40を装着し、トルコン、逆転機を経て、片側台車の2軸を駆動する。空気ドラムブレーキ、空気バネ、暖房用にはウエバストを備える。

建設費での比較では、路線(複線)1km当たり、停留場5か所、車輌4輌として、ディーゼル動車は1輌1,000万円、電車950万円、架線750万円、変電所1,300万円が不要になる代わり、給油設備に15万円、車庫修理工場800万円、修理設備560万円を要す。ランニングコストでは電車1km当たり8円78銭、ディーゼルカー13円80銭と1.57倍、減価償却でも耐用年数が短いため電車に対し1.07倍である。何やかやでトータル電車1億2,000万円に対し、ディーゼルカーなら9,535万円で済む、初年度の収益および資本収支では、ディーゼルカーが2,639万1,000円有利との「皮算用」ではあった。

試作車D1001 1959年ごろ 西4丁目 榎 陽撮影 スカートが全長にある 続きを読む

阪急710系

このデジ青欄は、というより同人諸兄は躁鬱の傾向を抱えておるようで、投稿がやたら集中する時期と、何やらトンと寂しい時がある。どうやら昨今「鬱」の季節だったようで、さっぱりだったが、やっと準特急氏阪急710系の投稿があり、須磨でヤキモキしていた老人もホッとした。これで半年ぐらいは寿命が延びそうだ。

で、この老人が生涯でたった1枚だけ撮った阪急が710系なのである。1954年5月頃だから63年半前。6×6のお蔭でヴィネガー・シンドロームにも侵されず、幸い今日ある。

1956年11月2日京都駅

米手作市氏から「あやしい秘蔵写真の出どころに関して」とのアップがあった。それによると1956年11月3日梅小路区での御召列車スタッフの記念写真を、コロナ写真館が出張撮影されたとあるではないか。その前日、確かにC59108牽引のお召列車が京都駅に到着し、それを若かりし日のこの老人が、なぜか撮影していたのである。

C59108
1956年11月19日東海道本線は全線電化されたから、これはその17日前―東海道本線としては、最後の蒸機牽引御召列車ということになるのであろう。
小生は元来お召列車とか、豪華列車などにはトンと興味も関心もないまま今日に至っているが、この時だけはなぜか京都駅に行き、2番線からお召列車を撮っている。恐らく東海道本線最後の蒸機牽引―C59108の御召列車だから撮る気になったのだと思う。1番線は特定の者しか停留できなかった。 続きを読む

誰でも撮った高倉陸橋

京都駅の高倉陸橋から下にたむろする蒸機を撮った人は多かろう。石炭ホッパーがあるため、機関車は常に数輌いるから、何時行っても、当然誰でも同じような写真が撮れる。東海道線電化の1956年11月19日以降は、C59やC62、C51が消え、奈良線C58に京都入換のC50ぐらいになってしまうが。まあ誰でも撮った写真だが、60年以上前というだけでご勘弁を。キャプションはいらないだろう。

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浜大津

たまたまこんなネガが出てきた。京阪電鉄大津線浜大津駅は何度も改修を重ねているが、その改装中―仮設ではあっても、まあひどいもんじゃありませんか。要は1本突っ込みである。

撮影は1957年2月15日。

塩江温泉鉄道

この我国唯一の非電化で軌間1435mm鉄道に関しては、デジ青でも何回か話題になった。たしかぶんしゅう氏の中国長春記事にもあった筈。で、再度か、再々度かの講釈を。標準軌間の琴平電鉄の仏生山から、塩江(しおのえ)温泉のある塩江まで16.1km、免許1927年12月15日、開業1929年11月12日。当初軌間1067mmで計画され、免許もそうだったが、1928年6月7日起業目論見書を変更し、標準軌間に変更した。これは高松から貨車を直通―仏生山までは琴平電鉄の電車に連結し、自社線ではガソリン機関車で牽引、旅客はガソリンカー、というものである。有蓋貨車、有蓋緩急車各1輌を備える計画であった。最急勾配は33‰ときつい。

1929年8月28日瓦斯倫自動客車設計認可。川崎車輌最初のガソリンカーで、両端を絞り、妻面は1枚窓、側面も変わっていて、窓2個セットが3組だが、セットの窓2個の間=通常なら間柱だが、その部分にもガラスが嵌め殺されている。足回りは片ボギーで、機関はブダDW-6。ともかくは旅客だけで開業したが、川崎車輛製車輌が大欠陥品で散々な幕開けであった。その期の営業報告書には次のようにある。

「不幸ニシテ車輌機械部分ニ不備ノ点アリ故障頻発製造者川崎車輌会社ノ熱心ナル修復アリシニモ拘ラス著シク運転状態ヲ乱シ大ニ人気ヲ阻害シタリ其ノ後11月下旬ニ至漸ク故障原因ヲ発見修繕ニ努メタル結果無事平常運転ニ復スルヲ得タルモ時既ニ閑散季ニ入リ予期ノ成績ヲ挙ケ得サリシハ誠ニ遺憾トスル処ナリ」

「車輌ニ関シテハ其ノ設計、製作、組立共全部神戸市川崎車輌会社ニ委託シ営業開始前入念試運転ヲ行ヒ其ノ完全ヲ図レリトモ納期稍遅延セル為長期ニ渉ル試練ヲ経サリシニ依リ開始後幾何ナラスシテ故障頻発セシハ甚タ遺憾トスル処ナリシモ鋭意故障ノ原因ヲ調査シ改良ヲ加ヘ今ヤ殆ト完成ノ域ニ達セシハ欣幸トスル処ナリ」

要は川崎車輛がガソリンカー第一作なのに技術を過信して、軽量化を図り過ぎたようで、輪心が車軸から抜け出すという、聞いたことのない不始末が連続した。価格も5輌5万円ときわめて高価だったが、後々まで4,000円の支払残があり、支払拒否であろう。

貨物の方はトラックの隆盛に勝ち目がなく1931年貨物運輸は起業廃止断念した。このため1435mでのガソリンカーという珍物になったのである。1933年5月1日琴平電鉄に合併し、1941年5月11日廃止。車体を生かし、足回りをブリル2軸台車に代え、当時満州国の首都であった新京(敗戦後長春)の路面電車に化けた。

なお先述のように車体両端が絞ってある為、正面からの写真ではとんでもなく車体幅が狭く見え、従前「標準軌間の軽便」とか「車体幅と軌間がほぼ同じ」などと無責任極まる記述が大手を振って横行し、かつ引き写された。しかし車体実幅は2,250mmである。

この老人も

EF52だ、やれ14だとかで、突然?国鉄電機で盛り上がったので、この老人も確か天王寺で何か1枚だけ撮っていたと、限りなく薄れゆく記憶をたどってネガを探すが、何時ごろかもわからず断念。プリントを探すと手札版があったので、枯れ木も山とばかりご笑覧に供する次第である。

大阪駅100式鉄道牽引車その2

どですかでん氏から鋭い突っ込みが。元来鉄道聯隊では、100式車は鉄路上で97式貨車を5輌牽引して時速30~40kmで走行できるとしていた。そのためピンリンク連結器が装着されていたが、大阪駅の100式は、保線区が使うため固定連結器が装着されている。これはあちこちに山ほどいた貨車移動機が装着していた、相手が自連でないと連結できない、肘が動かない代物である。なおトロッコ牽引の為、その下部に通常連結器を持たない路面電車が、故障や回送時牽引するための簡易なピンと両端を平たく潰して穴をあけた鋼棒=連結棒と同様なもので連結できるように改造していた。

大阪駅の100式鉄道牽引車

乙訓ご老人が、大阪駅北西にEF52が常に1輌待機していたことを記しておられる。お待ちなされ、そのそばに旧鉄道聯隊の100式鉄道牽引車もいたのをご記憶であろう。それともそんな代物に興味はなかった?

この車輌は陸軍が将来対ソ聯戦に備え、1524mmから1435、1067、1000mm各軌間に対応する、今でいう「軌陸車」として、通常の軍用貨物自動車(陸軍では「貨車」と称した)をベースに設計したものである。路面を走行する時は荷台サイドのゴムタイヤを鉄輪の外側に装着し、鉄路上では路面用タイヤより直径の小さい鉄輪で走行する。その着脱時は車端4か所にあるジャッキで車体を持ち上げるのだが、それが油圧かと思いきや、何と手回しウォームギヤなので、陸路⇔鉄路の切り替え(「転路」という)は、踏切を利用しても優に30分以上要したとは、かつて鉄道聯隊に居られた故田中鎈市氏から教わった。蛇足だが現在自衛隊が保管している100式鉄道牽引車の説明板には、数分で転路可能とある由だが、とんでもない。

なおこの車輌はいすゞ空冷ディーゼル機関搭載で、陸軍では戦車が全部空冷だった。満州や北支では寒冷時の始動に苦労し、待機時オイルパンの下で練炭や木炭を焚き続けたそうだが、この100式の現実の活躍は、皮肉にも大方が1000mm軌間のマレーシアやタイで、逆に機関のオーバーヒートに悩まされたと聞いた。

敗戦後国鉄の保線区や機械軌道区に何輌かが再起し、大阪もその内である。敗戦時のドサクサに横領されたものも少なからずあり、西武農業鉄道や菊池電気軌道(変電所が空襲で焼失し、陸軍が放棄していた100式車を4~5輌?横領して緊急避難的に旅客輸送に充当。後上熊本線建設にも)などが知られているが、常磐線沿線の炭鉱でも要員輸送車に使っていて、ファン撮影の写真が残る。正式に譲り受けたわけでない「横領」だから、かような車輌は設計認可が受けられないのである。事のついでに記せば「100式」とは皇紀2600年(1940年)に制式化されたことの陸軍式表示で、同じ年でも海軍ならゼロ戦の如く「零式」となる。

犬見鉱山での加悦C160

限りなく薄れゆく記憶だが、高校1年の時、3人で京都-舞鶴-敦賀-米原-京都と一周したことがある。1953年1月7日=天気が極めて悪く、おまけに当時写真で売っている得体のしれない35mmフイルム(太秦の映画会社カメラマンが半端に残った「残尺」を写真屋に売って飲み代にする)だったので、散々だが、1人はセミ版カメラで、彼がこの写真を撮っていたのを想い出した。紛れもなく加悦鉄道C160である。ここは高井薫平『小型蒸気機関車全記録』にも掲載がない。今回の総本家青信号特派員氏の投稿で、俄かに64年前の記憶が蘇った次第である。一昨日の夕食のオカズ(というより晩酌のアテ)は思い出せないが。

1958年2月神戸

まさか神戸に就職し、はては神戸の住人になるなど露想像もしていなかった学生時代―59年前に、何思ったか神戸に撮影に来たことがあった。綺麗に忘却の彼方であったネガが、家人からの「終活」圧力が原因で見つかり、今回ご披露申し上げる。ネガが傷だらけで、従前プリントしようという気も起こさなかったが、デジタルのお蔭で、まあデジアオでご笑覧戴けるぐらいにはなった。撮影は1958年2月27日である。

現在の山陽本線は複々線で、この写真でなら防波堤の海側を埋め立てて上下複線を貼り付けたものである。写真でD6214牽引上り貨物が走る線と、その左側は現在列車線で、新快速とコンテナ貨物列車、特急が走っている。なおこの当時台風等で海が荒れると、しぶきが防波堤を越し電車は須磨で打ち切りになり、以西明石(地平駅だった)までは加古川線からC11と客車が応援に入って往復していた。 続きを読む

オハ30の話

当会には客車ファンも多いが、このオハ30なる形式を見た人は少ないだろう。1937年12月27日、鹿児島発門司行準急12レが小倉付近で3両目から出火し、3両の客車が全焼する事故があった。乗客が車内に持ち込んでいたセルロイドの玩具材料に、タバコの火が引火したのが原因という。

このとき焼失したのはナハ22985、23049、ナハフ25029で、1940年7月小倉工場で旧台枠、台車を再用し、半鋼車体を新製。各オハ31980、38981、オハフ34180を経て、オハ301、302、オハフ311となったものである。

窓配置は旧木製車時代を彷彿させる3個セットで、どうせなら台湾のように広窓にすりゃよさそうなものだが、窓高はスハ32並。特筆すべきはノーシル・ノーヘッダーで、オハ35にもノーシル・ヘッダー車が、しかも長柱(張り上げ屋根)車もあったが。

国鉄オハ302 1955.3.18吉塚 高校卒業直後(2浪開始)の撮影である。

国鉄は17m級木製省電を鋼体化した電車を大量に送り出していたから、恐らくは木製客車の半鋼化テストだったと思われる。現実に客車の半鋼化(20m化)は敗戦後のご存じオハ60、61系であり、当初はやはり窓が3個セットだった。

この17mノーシル・ヘッダー車は終始北九州を出なかったはずである。序に記せば、やはり半鋼製17mのオハフ361なる、一形式一両の客車が田川線にいた。これは産業セメント鉄道が1932年12月田中車輌で新製したホハフ1で、1943年7月1日買収により、買収客車では唯一制式車の仲間入りして、オハフ361となったもの。この車輌については、小生が鉄道友の会会誌「RAILFAN」にシコシコ―その余りといえば余りの長い連載に顰蹙を買っている「私鉄のボギー客車」でいずれ紹介に及ぶ。

なお本稿は先人(渡辺俊夫氏)が、関西鉄道同好会会誌「CLUB CAR」6号(1947年4月)に書いておられるものを参考にしている。

大井川でのSL+DL


異形式連結やら、電蒸やら、SL+ELやらと、盛り上がっているので須磨老人からもご愛嬌をおひとつ。撮影は1984年3月25日。この頃大井川鉄道は蒸機―それも本線ではなく、小型機を井川線に走らせて客寄せに頑張っていた。この日は旧一畑のコッペル1号機(とはいっても改装激しく原型ではないが)に火を入れた。しかし牽引力思わしからず、後尾にDLを連結し、実際はこれが推進していたのと同然なのは、1号機の煙の具合が至って気楽でまるで気迫に欠け、暢気な焚火のような状態から察知できるが。 続きを読む

水没橋修整

#84524西村雅幸氏「三重。岐阜の旅(3)」に出てきた可動橋に関し、80.6歳老人が禿筆を以ってコメントしたギリシャの水没橋が、メーターゲージの鉄道橋と記したのは全くの記憶違いで、単なるケチな道路橋でありました。TVアナではないが、「謹んでお詫びし訂正致します」。

ギリシャは間違いなくヨーロッパ大陸だが、その南部ペロポネソス半島は、6キロ足らずだけでつながっているため、コリントス運河が掘削され、東のミルトア海と、西のイオニア海を結んでいる。上の写真のように切り立った崖で有名で、これだけ掘り下げるのは大変だったろうが、メーターゲージの国鉄線がこの鉄橋を渡り、国道と高速自動車道路がそのすぐ横で渡っている。運河の幅はさして広くないから、当然通過できる船もそう大きくはない。
この運河の西端は全くの平地で、シケた地方道がその河口(運河だから河口とは言わないか。要は西口)を渡っているのだが、その橋の中央桁を船の通行時水没させるのである。

これが完全水没直前の件の橋桁。



その通過時間中―詳しくは忘れたたが、1時間以上待たされたか。何しろここで渡らないと、国道まで戻らなければならないし、結構面白かった記憶がある。
何分河口?だから、ここだけ運河底を掘り下げたと思われるが、確かに安上がり工法ではあろう。しかしあんまり他では見られない景色であった。
という訳で、鉄道とは全く関係ない橋でスンマヘン。

スイスのカートレイン

この老人も我が家の実力者(ヨメ様)のお供で、スイスツアーに参加し、行程にカートレイン乗車があるのがウリの一つだった。団体旅行だから勿論大型バスで、サイドミラーを畳み、そのまま貨車に乗り込むだけでなく、連結した貨車を何両も走り続けるのは結構迫力があった。時は2002年8月で、もう15年前になる。

これは貨車に乗る入口。やっぱりランプというのかな

これは下車する車。こに1枚だけ色補正を誤り、乞うご容赦


別段貨車の内側サイドにプロテクターの類はなく、幅は標準軌間とはいえぎりぎりで、よく車体を擦らないもんだと、運転手の技量に感心した記憶がある。下の写真では、当方のバスは下車するが、左側にこれから乗り込む乗用車が列をなしている。

またまた山科

また山科でっかいな、ええ加減にしなはらんかいな、との「うんざり」声が少なからず?聞こえそうだが、今回はひと味違った山科である、と最初に言い訳しておこう。東海道本線は1956年11月19日全線電化が成り、当然に蒸機の姿が消えた。しばらくは特急やらモハ80系、貨物のEH10なども珍しかったが、そのうち見飽き?て大築堤にも上らなくなった。

しかし待てよ、ここに住んでいる以上、誰にも撮れない写真が撮れないか。折角カメラのレンズがf2なのだから、夕景あるいは未明の写真が撮ってみようじゃないの、と考えたのである。

今のデジタルカメラなら、感度がいくらでも挙げられ、多少画面は荒れたとしても知れているだけでなく、感度を上げることによって画面コントラストが上がらない。既に京都駅未明に足を運ばれ、ご苦労なさった写真も紹介されている。

アナログ写真では、当時ネオパンSSSが感度200で、現像により800ぐらい。無理すれば1600までは上げられても、粒子の荒れとコントラストのきつさが不可避。つまり列車写真では空が完全に飛んでしまうのである。それを感度はさほど上げずに、普段滅多に使うことのない開放絞り=f2で撮ってみようという訳だ。

以上が前置きで、早速やってみた。先ずは夕刻ヘッドライト点燈後を狙う。焦点深度が浅いし、シャッター速度もせいぜい1/125ぐらい、貨物なら1/60でもいけるか。あんまり寄れないのが残念だが、先ずは撮ってみるしかない。

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特急ひびきの先頭クロ

ある友人から写真を頼まれ、限りなく忘却の彼方とあって空しく探し回っていたら、肝心のものは見つからず、こんなどうでもいい写真があった。本来なら一顧だにしないところだが、偶々「ひびき」だの「クロ」だのと、タイミングが合致したのでご高覧に供する。モハ63系と70系ならバッチリ?見分けられる小生は、かような電車に全く興味がなく、先頭車がもし「クロ」なら、その旨ご教示を賜りたい。ネガは憎っくきヴィネガー・シンドロームにコテンパンにやられ、見る気もしないが、幸いキャビネにプリントしていた。撮影は確かでないが1959年頃か。