当会には客車ファンも多いが、このオハ30なる形式を見た人は少ないだろう。1937年12月27日、鹿児島発門司行準急12レが小倉付近で3両目から出火し、3両の客車が全焼する事故があった。乗客が車内に持ち込んでいたセルロイドの玩具材料に、タバコの火が引火したのが原因という。
このとき焼失したのはナハ22985、23049、ナハフ25029で、1940年7月小倉工場で旧台枠、台車を再用し、半鋼車体を新製。各オハ31980、38981、オハフ34180を経て、オハ301、302、オハフ311となったものである。
窓配置は旧木製車時代を彷彿させる3個セットで、どうせなら台湾のように広窓にすりゃよさそうなものだが、窓高はスハ32並。特筆すべきはノーシル・ノーヘッダーで、オハ35にもノーシル・ヘッダー車が、しかも長柱(張り上げ屋根)車もあったが。
国鉄オハ302 1955.3.18吉塚 高校卒業直後(2浪開始)の撮影である。
国鉄は17m級木製省電を鋼体化した電車を大量に送り出していたから、恐らくは木製客車の半鋼化テストだったと思われる。現実に客車の半鋼化(20m化)は敗戦後のご存じオハ60、61系であり、当初はやはり窓が3個セットだった。
この17mノーシル・ヘッダー車は終始北九州を出なかったはずである。序に記せば、やはり半鋼製17mのオハフ361なる、一形式一両の客車が田川線にいた。これは産業セメント鉄道が1932年12月田中車輌で新製したホハフ1で、1943年7月1日買収により、買収客車では唯一制式車の仲間入りして、オハフ361となったもの。この車輌については、小生が鉄道友の会会誌「RAILFAN」にシコシコ―その余りといえば余りの長い連載に顰蹙を買っている「私鉄のボギー客車」でいずれ紹介に及ぶ。
なお本稿は先人(渡辺俊夫氏)が、関西鉄道同好会会誌「CLUB CAR」6号(1947年4月)に書いておられるものを参考にしている。
湯口先輩様
珍しいモノをありがとうございます。
この車両はいつ頃まで運用されていたのでしょうか?
湯口先輩様
珍しい写真をありがとうございます。
オハ30、オハフ31は鉄道模型趣味(TMS)の「陸蒸気からひかりまで」のペン画で紹介された鉄道模型界では有名な客車で 北千住のKSモデルから16番のキットも発売されています。いつかは作りたいと思っている客車です。きれいな写真は初めて見させていただきました。ありがとうございます。
また「私鉄のボギー客車」の連載記事は時々とある模型店で興味を持って見せていただいていますが貴重な内容で単行本でまとまればと期待しています。
さすがに産業セメント鉄道から来た、客車のことまで言及されていて感服しました。
九州の客車は、小倉工の仕様と思いますが、更新後はデッキ戸の窓が高く、側面窓とツライチになっていませんが、オハ30一統はどうだったのでしょう。
消息が消えたのはS39年から43年くらいの間かと想像しています。筑豊には場末で無い雑多感があり、それが炭鉱景気と鉄道の輝きに通じていたと推測します。
KH生様、
そうですか、昭和39年から43年頃ですか。私が大学にいたのとかぶります。あのときに行っておけば見られたのですね。横を何度も通っていたのに残念です。