旧型電車を追って(73系)

大阪環状線から最後に残った103系一編成が姿を消すという。しかも103系にちなんで10月3日で。大阪駅で当たり前の景色のようだった103系だが、正直よくここまで生き永らえた、という感じもする。首都圏では103系の活躍はもっと以前の話で、今やE233系、山手線ではE235系も投入されている。時代は移り変わる。103系だけでなく広く標準的な車体規格の20メートル4ドアロングシート車体も源流を辿れば古くは73系(モハ63)に行き着く。103系でなじみの前面10度の傾斜角を持たせた窓も、クハ79の300番台の昭和29年製まで遡る。私自身は1985年度生で、その年の3月には富山港線の73系が引退。その前年10月には可部線の73系が引退しており、DRFC入会時点で残存している営業線上の旧型国電は鶴見線大川支線のクモハ12と小野田線雀田支線のクモハ42だけだった。旧型国電を撮影するには、私は完全に遅れてきた青年であった。東海道緩行の旧型国電は小学生の時に引退しているので少し覚えているが、京浜東北線や横浜線など首都圏での活躍は想像の世界となる。73系については、既に多くの書物が刊行されており、インターネット上でも充実した内容の掲出が多くある。偶然であるが、ピクトリアル最新刊も72系旧型国電。なぜ今73系なのかとも感じるが、その最末期、可部線と富山港線で撮影することが出来たので、既出の内容ばかりで恐縮だが、自分自身の振り返りとして、主に実際に見た車両に焦点をあてて投稿させていただく。

1.可部線

昭和59年10月に105系に置き換えられるまでクモハ73とクハ79が10両ずつ在籍した。車体色こそウグイス色で前面警戒色と、オリジナルのぶどう色2号でなく派手だったが、車体は多彩で、元祖三段窓、2段窓改造車、ニス塗半鋼車など興味深かった。モハ63型時代のグループでは、クモハ73001は昭和35年吹田工場で全金属改造されたもの。クハ79004は戦中の昭和19年製造で平軸受台車を履いた最古の部類。クモハ73313は昭和23年製で最初は蒲田配属だった。これはウイングバネのDT14台車を履いていたのが珍しかったが、乗り心地の記憶はない。客車では、明らかに戦前型からのTR23より、TR47のスハ43型の方が乗り心地がよかったので、電車でもそうなのかと想像するがどうだったのだろう。昭和27年から製造されたクハ79300番台、モハ72500番台のグループでは、可部線はアルミサッシ改造車が多い中、昭和28年製のクハ79326と昭和31年製のクハ79466は、いずれも三段窓で残っていた。昭和31年時点で、木製窓ニス塗内装と古めかしいが、同年、全金属車体のクハ79920番台の試作も始まっている。

クモハ73061(左)とクハ73001(右) 昭和56年3月 可部駅

クモハ73061(左)とクモハ73001(右) 昭和56年3月 可部

 

クモハ73061 昭和56年3月 横川

クモハ73313 昭和56年3月 横川駅

クモハ73313 昭和56年3月 横川

クハ79466 昭和56年3月 可部

クハ79466車内

クハ79326 昭和56年3月 横川

2.富山港線

昭和60年3月に475系に置き換えられるまでクモハ73とクハ79が5両ずつ在籍した。車体色は青22号、東海道緩行線で見られた103系と同色で親しみが持てた。富山港線のクハ79は全て全金属車体920番台。クモハ73も全金属車体で全てノーシルノーヘッダーの新性能電車なみの車両ばかりだった。クハ79は雨どいを内側に隠すなど80系や70系の300番台、10系客車にも通じるシンプルなデザインで、シルヘッダーリベット付きの重厚な車体とは異なる魅力を感じさせたものだ。

クハ79920 昭和57年8月 岩瀬浜駅

クハ79920 昭和57年8月 岩瀬浜

クハ79920車内

クモハ73195以下2連 昭和59年2月 城川原

3.番外編

旧型国電の中で、73系は全金属化施工や車体載せ換えなど最も車体の近代化が図られた系列であろう。中でもクハ79600番台、モハ72970番台は、昭和50~51年に当時の103系高運転台車同様の車体に載せ換えたグループで、昭和60年3月に仙石線から引退したが、車体はまだまだ新しいということで新性能化、103系3000番台として川越線で平成15年まで活躍した。私鉄では、小田急4000、近鉄1000などが、旧性能車の機器流用で車体新製し、後年新性能化した同様の事例がある。

クモハ102-3002 平成11年 川越

昭和49年には、72系の機器を流用して、113系の車体を載せたクハ66、モハ62が身延線で運用されたが、こちらは新性能化されることなく昭和59年に引退した。

クハ66以下四連 昭和56年7月 身延

昭和63年には、JR西日本が、クモヤ90を旅客車に復活させたクモハ84が3両登場した。クモヤ90そのままに近い車体で、轟音をたてて高架の茶屋町駅を発車していく様には度肝をぬかれた。私自身、90年代はじめは鉄道趣味停滞期に入り、一度しか乗ることなく平成8年までに引退してしまった。今ならもっと撮っていただろうと悔やまれる。

クモハ84001 平成元年3月 茶屋町駅

クモハ84001 平成元年3月 茶屋町

 

昭和21年の製造銘板がモハ63由来を物語る

昭和21年の製造銘板がモハ63由来を物語る

クモハ84001車内

そして、現在、保存されている73系だが、JR東海がクモヤ90005を復元したモハ63638が、名古屋のリニア・鉄道館に一両ある。あと、可部線で活躍していたクモハ73383の前頭部が、岡山の柵原ふれあい鉱山公園にある。他にはクモヤ90の保存もあるようだが、自分自身で見たことがないので割愛する。1500両近く量産され、戦後の首都圏、関西圏の大量輸送を支えた73系電車はもっと保存されていても、と思うがそれも大衆とともにあったゲタ電73系にふさわしいのかも知れない。73系電車を通勤、通学等でなじんでおられた先輩諸氏のコメントを頂戴できれば望外の喜びである。

リニア・鉄道館のモハ63638

6 thoughts on “旧型電車を追って(73系)

  1. ブギウギ様

    20以上も若年の貴殿が旧形国電に理解が有るのは大変心強く感じ、思わずキ―を叩いております。

    小生の如く、旧形国電にドップリ漬かった身には、実は当時73系は軽視するに過ぎない存在でした。
    特に、首都圏をお払い箱になった連中が大挙放出され、西下した際の落胆は今でもトラウマです。
    それは、取りも直さず関西旧国の本家である51系(若番車は東京生まれではありましたが)を追いだす憎っくきヤツだったからです。
    合わせて、今では東京帰化人となってしまった小生も、『ヤドガエ』で関東に来た時、どっちを向いてもこれ等の輩が我が物顔で走っているのに辟易したものです。

    小生の青春時代は51系と共に有り、この『郊外電車』(と、敢えて私一人が言っている)で京阪神間を快走した記憶は、後期高齢者となった今でも死ぬまで(笑)決して忘れないでしょう。

    と言いながら、実は時が下った或る時以降、歓迎では無いにしても『記録しておかなきゃ』と改心して、結構カメラに収めたものです。
    しかし、それは貴殿が記録しておられる写真の直前の一時代で、就職後の身動きならない頃の我が空白期間を埋めてくれる貴殿の写真には思わず見入りました。

    • 河 昭一郎様
      コメントありがとうございます。クモハ51系など戦前型は、飯田線などで撮影できただけでしたが、落ち着いた魅力がありました。73系は、後年、改造車続出で実に多様な車体が現れましたが、今、西日本では、103系、115系が73系ばりに改造、長寿命化が図られています。まさに、歴史は繰り返す、だと感じています。

  2. ブギウギ様
    デカンショまつり号です。興味深く投稿拝見しました。大学入学前から精力的に活躍されていたのですね。わたしも旧型国電に目覚めたときは、すでに、身延・大糸・鶴見・中央西・福塩・宇部・小野田線から引退直前の1980年で、73系は、鶴見と富山港、可部線しか撮影できませんでした。中でも可部線は、63型を髣髴させるクモハ73041や大鉄形試作更新車のクモハ73001など正面顔がバラエティに富んでおり、まさに一両一両個性を持った車両が配置されていましたね。逆に、車齢の若い全金車クハ79920番台が配置されていなかったのが不思議でした。ところで、記事中に「昭和63年には、JR西日本が、クモヤ90を旅客車に復活させたクモハ84が3両登場した。」とありますが、クモヤ90を復活させたのではなく、大鉄局管内で数少ない電車による荷物輸送を行っていたクモニ83が荷物輸送廃止により余剰となり、それを改造したのがクモハ84です。旅客車→荷物車→旅客車となった数少ない車両です。同じような時期の登場したクモハ123も国鉄末期の財政状況を反映して、そのような出自のものもいますが・・・・

    • デカンショまつり号様
       ご指摘ありがとうございます。荷物車のつもりでクモヤ90と書いてしまってました。書いたものはよく見直さないといけません。そもそもクモヤ90なら側面も前面もぜんぜん違いますね。

  3. ブギウギ様
    1970年から当時の国鉄に乗って京都に通学していましたが、大津からですので通学で乗るのは113系のオレンジと緑の電車ばかり、後に女房となる彼女が千里丘にいましたのでこの時に乗るのが51系と73系でした。当時はあまり形式が気にならず、ドアから入ったところに握り棒があったのとないのがあったのを覚えています。握り棒のあるのが51系でないのが73系ではなかったかと思っていたのですが、投稿されたクハ79の車内写真では握り棒のあるものとないものがありますね。このあたりないろんなバリエーションがあったのでしょうか。

    • 大津の86様
      コメントを頂戴しありがとうございます。ドア近く、袖仕切りの棒は、全金920番台以降の車体からではなかったでしょうか。昭和31年以前の半鋼車体の時代は、通路真ん中のスタンションポールが定番だったように思います。

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