仙石線 陸前富山~陸前大塚 (49-4-29) クハ79230
関 三平さんの「昭和の電車」は、長く続いた「モハ63形シリーズ」が6月25日の京成電鉄モハ109号で終了となり、改造連接車も終わって、今回から戦前の古豪シリーズが始まり、第1回目として近鉄南大阪線のモ6601形が紹介された。一方小生の超鈍足「モハ63形シリーズ」は第4回目の「クハ79」を解説する。
(Ⅰ)鋼体化改造グループ
昭和9年から17年にかけて、17mの木製車の車体を新製の半鋼製車体に乗せ換える、いわゆる鋼体化改造が施行され、モハ50形(後のクモハ11形400番代)132両、クハ65形(後のクハ16形400番代)221両、サハ75形(サハ17形300番代)21両が誕生した。翌18年には身延線用の2扉セミクロスのモハ62形(後のクモハ14形100番代)、クハ77形(後のクハ18形0番代)が各3両作られた。
戦時中の輸送力の増強のため、鋼体化改造車を17m3扉車から20m4扉車とすることになり、昭和19年に25両計画(当初の計画では33両)されたが、終戦までに完成したのは2、4、5、9、12、16、24、25の8両に留まり以降の改造は中止となった。また、5と9は戦災で焼失したため戦後まで残った車両は6両であった。
時節柄、造作は大幅に簡略化され、2、4、9以外は天井板がなくタル木がむき出し、ラストナンバーの25は最低で座席は12名分しかなく、内張りは戸袋部以外窓から下は省略されていた。沢柳健一氏が撮影された写真がよく趣味誌に掲載されているのでご覧になられた方も多いのではなかろうか。
台枠は最初の2、4、9は木製車のものを延長して使用したが、それ以降は新製された。台車は木製車時代のTR10、TR11を流用したが、戦後24以外はTR23に履き替えた。
当初は東京地区で使用されたが、昭和39年9月、何を勘違いしたのか4、12、16、24、25の5両がなんと明石区に転属して本線緩行に使用された。当時ピク誌の「車両の動き」欄でこの驚愕の事実を知り「何考えてんねん」と思った。
以下、写真と共に解説する。
79002/ (46-9-16) 放出
大正9年天野工場製のクハ15006を昭和19年5月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、26年11月淀川区に転属、29年3月宮原、32年9月高槻、35年10月淀川区と転属して、36年11月環状線101系化で東京に戻り下十条へ、45年12月再度関西入りして淀川区で片町線に使用。一度だけ乗ったが、とにかくボロボロであった。オレンジ色に塗り替えられることなく47年1月24日付で廃車になった。
79004/ 上(43-4-20) 大阪 下(50-2-2) 広島/呉線使用時
大正9年天野工場製のクハ15009を昭和19年6月大宮工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、44年10月東京に戻り中原区から12月に青梅区へ、翌年の45年6月呉線電化時に幡生工場でトイレを設置して広島区へ、47年1月には窓の2段アルミサッシ化が実施された。呉線新性能化後可部線で使用され、59年10月3日付で廃車になった。
79012/ (39-10-24) 京都
大正10年日本車輌製のクハ15039を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、48年9月18日付で廃車になった。
79016/ 画像なし
明治45年新橋工場製のクハ19043を昭和19年11月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、その後阪和線に転属して48年1月23日付で廃車になった。
79024/ 上(42-1-6) 下(41-8-25) 京都
大正14年日本車輌製のサハ17019を昭和20年9月大井工場で鋼体化改造。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ、42年6月15日付で廃車になった。
この車のみ台車がTR11のままで、フワフワした感じの乗り心地であった。吹田工場で運転台窓のHゴム化、球形通風器の取付けが行われたが、グループでは最も早く廃車になった。
79025/ (44-5-30) 京都
大正3年大宮工場製のモユニ2003を昭和20年1月大井工場で鋼体化改造。国電史上接客設備が最悪の車両であったが当初横須賀線で使用された。東京地区で使用後、39年9月明石区に転属、41年10月高槻へ。44年12月に東京に舞い戻り、武蔵中原から房総地区電化により津田沼に移動。50年4月14日付で廃車になった。
房総地区電化時、東京、関西から掻き集めた4扉車が使用され、乗客からヒンシュクを買ったが、113系に置換えられて面目を一新した。ところが近年113系老朽化により元京浜東北線の209系に置換えられ、また4扉車になった。唯、今回は両端がセミクロス車で編成中に必ずトイレ付車が連結されているので、73系の時よりいくらかマシである。
(2)63形グループ
モハ63形には、運転台機器はあるがモーターの無いクモハ63形(クハ代用)、運転台機器、モーターもなくサハ状態のサモハ63形(サハ代用)が存在したが、これらを整備の上、昭和27年から28年にかけて76両を正式にクハ79形として100~250(偶数のみ)を付番した。当然車両の向きはすべて偶数向きである。
両数が多いので代表的な車両のみ紹介する。
79100 (48-4-30) 仙石線下馬
昭和19年8月川崎車輌でサモハ63002として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して51年5月20日付で廃車。
79104 (48-7-1) 鳳
昭和19年11月川崎車輌でサモハ63006として新製。27年11月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、42年9月阪和線に転属して49年10月1日付で廃車。
79132 (47-1-9) 鳳
昭和21年10月汽車会社でサモハ63234として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、43年3月阪和線に転属して47年4月28日付で廃車。
79136 (49-5-27) 大阪
昭和21年4月近畿車両でサモハ63296として新製。28年3月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、46年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後51年1月29日付で廃車。大阪緩行としては比較的遅くまで残った。(最終運行日は51年2月26日)
79152 (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63314として新製。28年1月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して54年10月22日付で廃車。
79154 (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年6月近畿車輌でサモハ63316として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年11月15日付で廃車。
79160 (50-3-23) 南武線稲城長沼
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63330として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は南武線中原区で53年1月17日付で廃車。
79166 (48-2-2) 青梅
昭和21年7月近畿車輌でサモハ63336として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用後、最後は青梅区で51年12月21日付で廃車。
79172 (51-2-25) 上越線群馬総社
昭和21年8月近畿車輌でサモハ63344として新製。28年2月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、新前橋区に転属して高崎~水上間、高崎~桐生簡で使用後51年3月15日付で廃車。
79190 (43-9-7) 東神奈川
昭和21年9月川崎車輌でサモハ63378として新製。27年8月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は横浜線で52年11月30日付で廃車。
79202 (47-2-17) 鶴見線浅野
昭和21年10月川崎車輌でサモハ63438として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で51年1月29日付で廃車。
79204 (48-4-30) 仙石線下馬
昭和21年11月川崎車輌でサモハ63442として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、仙石線に転属して55年3月11日付で廃車。
79216 (50-1-6) 京都
昭和19年11月田中車輛でサモハ63009として新製。27年9月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、40年2月明石に転属、44年12月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年7月25日付で廃車。
79222 (48-7-14) 大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63075として新製。28年5月大宮工場で改造して現車号に。東京地区で使用後、41年4月明石に転属、45年1月高槻に転属して大阪緩行で使用後50年6月20日付で廃車。
79224 (47-2-17) 鶴見線浅野~新芝浦
昭和21年8月日本車輛でサモハ63071として新製。28年6月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年6月20日付で廃車。
79238 (47-2-20) 大阪
昭和21年8月日本車輛でサモハ63083として新製。28年7月大宮工場で改造して現車号に。東京地区各線で使用され、最後は鶴見線で50年3月22日付で廃車。
写真は関西地区から東京地区に転属する車両の受け取りに来た時のものである。撮影時の所属は南浦和区であった。
引続きモハ72形についても時期を見て解説する。