特急「ひびき」


山科での「特急ひびき」1959年1月?

山科の住人であったから、こんな写真も撮ってはいる。ただそれだけで思い入れ等はない。確か田口のキューさん(本名は啓己だが、余りにも趣味?の幅が広く、当時TVドラマの「何でも屋の久助」というキャラクターに倣って「キュースケ」と呼んでいた)は「特急いびき」と称していた。のちの「特急こだま」の代用時は「にせだま」と呼んでいた。

こんなもんが

「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。

甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。
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こんなもんも

諸兄のような「お宝」ではないが、半世紀以上前、京阪天満橋での800型3連である。京阪の木製車ではこの形式のみドアエンジンがついているから、3連でも車掌が施錠に走り回る必要はない。

撮影は1955年9月22日―老人浪人1年目で19歳誕生日の前日。

 

修学旅行電車

修学旅行電車は確かこの老人も撮っているはずと、探すと案外簡単に出てきたので、撮影後58年で初公開に及ぶ。実はこの時スプリングカメラのパールのピントが絶不調で、以後35mmに切り替えたのだが、そのネオパンSSが憎っくきネオパンシンドロームにやられてしまった。ところがブローニーフイルムは、多少銀が浮いてきてはいるが大丈夫。ピントの悪さは切支丹伴天連大魔術のPHOTOSHOPでアンシャープマスクを掛ければ、大きくプリントしない限り何とかなるのである。撮影は1959年というだけしか分からない。

老人は国電はモハ54ぐらいまでしか撮っていないが、これは例外中の例外である。ただ撮ったというだけで、コメントは別にない。というよりしようがない。現物を間近に見たのは、実は半世紀近く後に大宮鉄博の玄関前カット車体(前面から座席1つまで)が初めてだったのである。

阪急96、97

関センセお書きの通り、阪急96、97は半鋼製ボギー客車加越鉄道ナハフ101、102の改造である。加越鉄道は1929年に日車から購入し、設計認可は1929年9月20日、竣功届11月24日。定員104人、内座席72人、自重24.32噸。シルや側板裾のリベットがいささか古めかしい。

加越鉄道ナハフ101日車竣功写真 台車はTR11を短軸にしたもの

ところが不景気の最中で、加越鉄道も他社に倣い1931年ガソリンカーを採用。しかも翌年にはディーゼルカーを、先ずは江若キハ7、8と同型(ステップ構造違い、座席がロング)車を購入して使いこなし、1937年には120人乗り大型車2輌を追加。このため折角の客車も出番がなくなって、加越鉄道は小島栄次郎工業所に売却を依頼した。この時点非電化鉄道ではガソリンカーなら買うが、いくら出物でも客車はいらんというところばかり。しかしそこが小島栄次郎の才覚で、彼はこれを「電車に改造できまっせ、安おまっせ」(彼は和歌山出身だが東京暮らしが長く、関西弁は使わなかっただろうが)と、電鉄に売り込んだのである。手を上げたのが大手の阪急=阪神急行電鉄で、1940年8月購入。甲種輸送で到着した福知山線池田で標準軌間仮台車に履き替え、能勢電気軌道線を経て西宮北口に搬入。 続きを読む

伊那電気鉄道サハユニフ

関センセお書きの伊那電気鉄道サロハユニフだが、この電鉄は元来軌道でスタートし、辰野-伊那町間、伊那電車軌道と称していた。一方伊那町以南は鉄道で1913年以降に開業し、軌道区間も1923年鉄道に変更。社名は1919年に伊那電気鉄道に改称している。

2等は1937年に廃止していてサロハユニフの図はないが、その後のサハユニフをご覧に供する。監督局技術課件名簿には次のようにある。1924年3月10日設計認可、1925年9月4日自連取付認可、1926年4月23日空気制動機取付認可、1932年9月7日郵。便室入口引戸改造認可、1937年9月1日郵便積載量増加認可。中央扉右の仕切が、旧2、3等仕切であろう。なおサロハユニフ→サハユニフは100~102、最初から2等がないサハフ312→サハユニフ110もあった。

 

「北海道寒中見聞録」に大いに期待

「半世紀前の旅物語」が始まった。誰しも何回かは北海道に行っているはずだから、各人夫々の「旅物語」があって、期待すること極めて大である。それにしても3人旅とは羨ましい。小生の場合ドド田舎の簡易軌道やら、軽便やら、炭礦鉄道やらとあって、付き合ってくれる仲間などなく(誘ってもいないが)、九州などごく僅かな3人、2人旅があっただけ。佐竹先輩や、故羽村兄と1回、故高橋弘氏とは2回ごく短期間の旅を、卒業後重澤旦那とはそれこそ数えられない程同行したが。

長ずるに及んでというより、定年間近あるいは定年後のヨーロッパ軽便めぐりには、幸い好伴侶(辞書通り単なる「道連れ」だから、くれぐれも誤解のないように。この点に関し小生は断じて吉谷先輩の仲間ではない)が得られたのだが。

ところで「半世紀の旅物語」第1号車に、北海道均一周遊券が添えられている。金額が1万円を超えているではないか。学割2割引で9,680円であろう。正直絶句したが、ただ我々の時は特急は愚か急行、準急(なんて列車があった)には、当然ながら別途特急、急行、準急券が必要であった。ただ、急行しかない、などというケースはなく、夜行を含め急行が走る線には必ず各停列車もあったから、急行に乗らずとも旅はできたのである。特急に言及がないとお思いなら、小生が同ヤン生になった1957年現在、特急とは、つばめ、はと、かもめ、あさかぜ、さちかぜ=東海道、山陽、鹿児島本線と、さちかぜが長崎まで走っていた5本だけ―東京以北に特急はなかった。

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京阪800型


我々の年代が知っている京阪800型とは、パンタを付し京阪本線ローカルや、支線に働く姿である。小生がお預かりしている故西尾克三郎氏アルバムに、谷川義春氏撮影の名刺版プリントがあったので、諸兄のご高覧に供するが、ポールに換えられてはいるが、まだ石坂線に働く姿で、カウキャッチャースタイルの排障器がいいねぇ。関センセお書きの通り、800型はその後全部が本線及び支線に引き上げられた。小生は1950年代半ばごろだったか、天満橋で800型3連を見た記憶がある。

小松島のニ5000廃車体

西村雅幸氏に悪乗りし、1957年3月3日現在小松島に残存していたニ5000型3輌の廃車体写真をご高覧に供する。記憶は限りなく薄れているが、確か大昔?のデジ青が、まだ写真も1回3~5コマぐらいしかアップできなかった頃に、一度ご覧頂いたような気もしないでもない。ただ大方の諸兄はお忘れだろうし、小生も80歳の申し分のない爺ィに成り果てて、昔の事は忘れたよ、と開き直って、再度かもしれんがご覧頂く。耄碌も時としてかなり便利=重宝なものではある。

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三呉線とキハニ5000

西村雅幸氏お説の通り、キハニ5000は鉄道省工作局のエリート技師(大方が東大か京大機械科卒)が、お山の大将=世間知らず=苦労して先行した私鉄ガソリンカーに学ぶことを全くせず、それでいて外形だけは直近完成のドイツ国鉄2軸ディーゼルカーVT801の真似をした車輌でした。

何から何まで国産品を使う(点火栓だけは国産品がなく米国製ボッシュ)という意気込みは、それなりに評価すべきですが、国産では海軍内火艇(内燃機関動力小型舟艇)用しか床下装着できるものがなく、致命的に出力不足でした。またエリート技師はコロ軸受を使った経験がなく、高価でもあったので、通常のメタル軸受とした反面、内装=椅子や網棚、照明器具、窓などを客車と共通にするという、過度の標準化思想に囚われて、車体断面を狭めるという発想は100%欠落していたのです。

それでもある程度の軽量化配慮もしてはいたのですが、自重が15噸以上になり、その上欠陥が山ほどあったのに、使用側の研修も十分にせず、いきなり機関庫に配属するという、致命的な失敗が重なりました。運転局側は配置に対し独自の判断をし、故障してもその影響が本線に及ばない、また機関庫が近くでエンコしてもすぐ救援に行けるローカル盲腸線を主体に配備しました。

このため例えば正明市-仙崎、徳島-小松島、大垣-美濃赤坂(西濃鉄道)、長町-仙台‐岩切‐塩釜、東室蘭-室蘭などの盲腸線、先端が未開業で短い区間のみの部分開業しかしていない実質盲腸線の姫路-播磨新宮、西村氏が記された三呉線を含む糸崎-三原-須波、などに投入されたのでした。

詳細は拙著『日本の内燃動車』成山堂交通ブックス121に詳述していますので、そちらをご覧頂きたいのですが、要は自重に対する機関出力の致命的不足で勾配線には全く使えず、平坦線ばかり。絶対に自分たちの失敗を認めない工作局エリート技師たちにしては極めて珍しい事例ですが、キハニ5000に関して(のみ)は、失敗を認めています。これが私鉄なら、例えばGMF13に換装して2軸客車を1輌牽引さすところでしょうが、国鉄はせいぜいが重連使用ぐらいで、当然機関士が2名いりますから、経済的の筈のガソリンカーが、かえって無駄遣いになった例も少なくないのです。

1957年3月小生は小松島周辺でニ5000の車体を複数撮っているのは、はるか以前デジ青でも紹介しました。全12輌中機関を下してニ5000と、手荷物車になったのが8輌、3輌が救援車ヤ5010からさらにその内2輌がエ810に。1輌(キハニ5008)は1933年11月22日事故で廃車になっています。キハニ5005→ヤ5012は幸い復元され、苗穂工場に保存されていますが、復元に当たり外見だけの機関複製に苦労した由です。

なおこれは蛇足ですが、内燃機関の出力は「通常」最大出力で表示します。しかし国鉄はなぜか「標準」出力でした。従ってキハニ5000の43馬力とは、1,200回転時の出力で、最大は1,500回転時の45馬力です。この場合は大して変わりはないですが、現在の自動車用機関は4,000~5,000回転時での最大馬力表示で、標準=1,500回転程度ならぐっと落ちます。キハニ5000が致命的に出力不足は間違いなくも、現時の自動車との単純な比較は不適でしょう。

1コマだけの山陽電軌

TSURUKAME氏の山陽電軌を見て、確かこの老人も1コマだけ撮っているはずと、ネガを探すと602があった。撮影場所も記憶がないが、長門鉄道を大急ぎで撮り、一刻も早く九州にと気が急いていたことだけは覚えている。1955年3月18日であった。

私鉄の御料車

関センセの名古屋鉄道御料車が出たが、蒸気動力私鉄でも、天皇行幸の際御料車を作った例が幾つかあり、京阪16号など関西大手電鉄のものは照会済である。今回はひとつ、芸備鉄道のトク1をご披露申し上げる。

これは元来が南満州鉄道での一般客車(1904年新橋工場製)だったが、標準軌間改軌で日本に戻り、芸備鉄道が1914年1月9日購入認可を得た。1915年4月19日認可で車体のみ梅鉢工場で新製し、特別車としたのである。上の組立図は改造時点の姿で、こんな短い車輌にランプが5個(内1個は便所用)もある。下の竣功図は1918年6月6日設計変更認可=電燈化、さらに1924年8月30日設計変更認可により、自連換装の姿である。扉が外開きである。

芸備に限らず、かような車輌は一度使った後の始末にはホトホト困るもので、そう簡単に一般に格下げ、或いは廃車にしにくい。使うアテもないのについつい残存する、というのがこれまた一般的である。小生は別段かような貴賓客車の類に興味を持つわけでなく(どちらかというと、全く庶民用通常客車―例えばホハ12000とか、ナハ12500とか)の方が好きなのだが、偶々図があるので、お目にかける、というだけである。なおお召列車を詳述した本も複数あるが、大抵は国鉄の御料車や供奉車しか資料がないから、かような私鉄車までは筆が及んでい居ないのも通常である。両備鉄道(762mm軌間)が日車で製造した木製ボギー御料車は以前に紹介している。

これもタトラ?

老い先短い老人も、同じような電車を撮った記憶がほのかにあって、ネガを探した。1993年7月22日、ドレスデン中央駅前での撮影である。東ドイツ崩壊3年半後、この時点では豪壮な駅舎は文字通り悲惨な状態だった。トイレを借りに立ち寄ったのだが、薄暗い裸電灯、便所の扉は釘付け―東ドイツ時代の末期、全くメンテが及んでいなかったのである。
ところでこの電車、今話題?のタトラではないのだろうか。西村氏の写真は扉のある側、こっちはない側だと思うのだが。恐れ入りますが先達のコメントを。なお小生にとっては、ラーデボイルオストから発する蒸気軽便を撮りに行った時の、単なる「行き掛けの」副産物である。
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懲りずにヨーロッパ市電

乙訓ご老人の人脈で、この老人のチョロスナ(土門拳の造語でチョロッコイ―いい加減で全く根性の入っていないスナップ写真)に高岡センセの解説が付された。これに気をよくした後期高齢者は、すぐさま同類の代物を探し出し、いそいそとスキャンに及んだのである。撮影者同様に色あせ果てた写真などを見せられる方の迷惑など一切無視し、以下1994年9月のチョロスナを何枚か。先ずはオランダはハーグ。
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北欧の市電

ヘルシンキ市電と前後したカラーネガフイルムを、ついでにスキャンした「鉄もの」を、この際なんでも「ついで」として、ご要望などあるわけもなかろうがご覧に供する。小生ご存じの通り軌間1067mmを超える車輌には一切知識を持ち合わせないので、そのおつもりで。いずれも何の工夫も考えもなく、ただ目の前にいたから安易に撮っただけである。先ずはフィンランド国鉄ヘルシンキ中央駅で。
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20年前のヘルシンキ

世界狭しと駆け巡るぶんしゅう氏のエネルギーも凄いが、資金力も凄い。当方など指をくわえて眺め入るだけであるが、しかし待てよ、この老人もそれほど老い込んでいない前に、確かヘルシンキに行ったことがあると思い出した。ただ撮影行などでは毛頭なく、単に旅行社の単純な団体ツアーで、我が家の実力者かつ指導者(ヨメ様)のお供をして、ツアコンに従ってバス旅行をしただけである。何かのはずみで僅かな自由時間が生じ、かつそれが中央駅前だったりすれば、必ず路面電車がいるから、それをチョコッと撮った、というだけである。しかし20年の歳月は歴然で、ぶんしゅう氏撮影とは完全にひと世代か、それ以上古い電車であるのは確かではあろう。撮影は1996年9月。

で、齢80を越した老人に、外国の電車の説明などできるわけもない。乙訓ご老人にお願いしたいのだが、いかがかな。
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架線メッセンジャーは石造りの建物の壁にアンカーを打って止めてあるから、写真の画面には電柱は1本も写り込んでいない。 続きを読む

南海1900西尾写真

関センセの南海1900が出たのを機会に、故西尾克三郎氏のキャビネ組立写真を紹介させて頂く。小生故あって西尾克三郎氏のアルバム何冊かの保管を命じられて今日に至るが、小生自身が余命を数えるのに、片手の指だけでも余ることになった。以下説明は不要であろうから、ただただ写真をご覧あれ。
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静岡鉄道クハ5

乙訓ご老人投稿#77497「東海道の電車を楽しむ―その3―」中、最初から15枚目、最後から6枚目のクハ5に関し、誠に失礼ながらこれは須磨老人の縄張り?車輌である。すなわち戦災車ではない。
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静岡鉄道クハ5 1954年8月12日鷹匠町 吉川文夫撮影
何はともあれ、妻面下部の斜めになった部分をしっかとご記憶ありたい。で、次の写真を。 続きを読む

釧路・根室の簡易軌道企画展と講演会

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#76929で事務局からご紹介があった釧路市立博物館創立80周年記念企画の一環だが、何分釧路であり、まさかお越しになる方もおられまいが、折角なので一応この欄をお借りし、内容を記しておく。なお入場無料で申し込みも不要とある。

この企画展は明日10月29日から始まり、関連行事も実施されるが、11月26日(土)の午後に、小生が「植民軌道/簡易軌道」と題して、一席お喋りをさせて頂くことになっている。地域遺産をどう生かすかの、名取紀之ネコ社編集局長のスピーチもある。

で、小生は目下90分の受け持ちをどうやって凌ぐか。先月傘寿に達した老い先短い老人は、60年近く前の記憶を必死に絞りだすなど、目下大いに苦労中なのである。

京阪2代目16号室内写真

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京阪2代目16号の室内写真が確かあった筈と、日々限りなく薄れゆく記憶を駆使して3コマ見つけた。上は御座所であろう。
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これは侍従の控室であろう。テーブルの下に古めかしい電話機があり、この時期無線電話はあるまいから、電鉄側の添乗責任者への連絡用か。