こんなもんも 投稿日時: 2017年5月5日 投稿者: 湯口 徹 諸兄のような「お宝」ではないが、半世紀以上前、京阪天満橋での800型3連である。京阪の木製車ではこの形式のみドアエンジンがついているから、3連でも車掌が施錠に走り回る必要はない。 撮影は1955年9月22日―老人浪人1年目で19歳誕生日の前日。 この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 京阪電車 現代版「標準化編成」 守口の廃車体 ほか1点
湯口 徹様 秘宝を供出いただき有難うございます。スタイルのいい木造電車ですね。先輩が受験勉強と趣味活動を天秤にかけて頑張っておられた頃私は小学生でしたので大阪や神戸に出かけるのは1年に1回あるかないかで、ましてや天満橋旧駅は見たことがありません。800型も終に見ることがありませんでした。車両と共に気になるのは駅の丸い形の照明でおそらく白熱灯と思われますが、何時の時期か蛍光灯にかわったのでしょう。因みに高橋弘さんの「関西の私鉄懐かしき時代」の1957年12月に撮影された四条駅は蛍光灯照明のようです。また、同系(?)の阪急嵐山駅は観光地であるためなのか昔から凝った照明器具が使われています。この時代は車内の照明も白熱灯が多く、オハ61などはその配置がえらいとんでいて薄暗くて本でも読もうなら目が悪くなるのが必至の車両でした。一方、阪急の300だったか310は白熱灯のカバーがシャデリア風で車内インテリアにも気を使っていたように思います。ドアエンジン付きの近代的木造車から脱線しましたが、またDRFC-OB伝統の「こんなもんも」戦に参戦していただくと嬉しいです。 返信 ↓
600V線でMGのない電車は、お説のように暗くて困ったことが多いです。ましてや変電所容量が貧弱だと、電圧降下が凄まじい。京津線などその代表で、「びわこ」がノッチを入れるとドカンと暗くなり、それも反対側の電車にまで影響し、えらく暗くなったなと思っていると、反対側で「びわこ」が力走していたのです。恐らく本来の600Vが半分か、もっと下がっていたんじゃないですか。 返信 ↓
京阪の運転台には伝統的に電圧計が設置されていなかったので、運転士には不評だったようです。車両部曰く、60%まで(つまり360Vまで)なら運転に支障することはなく大丈夫との見解でした。電灯の暗さは別として、それ以下になるとコンプレやMGなどの補機が機能しなくなり、従って運転できなくなるとのことでした。そうはいっても加速は悪く車内も暗いとあっては快適な電車とは言い難いですね。 返信 ↓
京阪馬鹿と称していた老人も懐かしい姿を見せていただき昔の事を思い出しました。3両連結の中間車が808号であったことを。12両あった800型は終戦後、昭和21年8月1日に寝屋川鉄橋で脱線転覆した807号車を廃車したため相棒の808号は3両編成の中間車となっていました。前後は811、812号車で、専ら枚方市以南で各駅停車で使用されていました。スーパーカー増備で交野線のラッシュ時も3連化することになり、800型は交野線専用となり本線から姿を消しました。 返信 ↓
行き先板についてお尋ねいたします。 写真で見る限り[大阪 萱野]としか読めないのですが、その通りですか?萱島の間違いですか?あるいは当時、萱島を萱野と言っていたとか。また、大阪とは天満橋のことでしょうか? 教えて!京阪マニヤの方々! 返信 ↓
米手作市様 これは[大阪 萱野]ではありません。[大阪 豊野]です。寝屋川市駅と香里園駅の間に豊野駅がありました。今は地図で調べると大阪府警寝屋川待機宿舎が4棟立っています。私が高校生の時はホーム跡が残っていました。このあたりの地名は寝屋川市豊野町となっています。 返信 ↓
どですかさんの仰るとおり行先は「豊野」だと思われます。場所もご説明のあった通りです。かつての京阪線の退避駅は数が少なく、大阪からの場合守口で複々線が終わると豊野までありませんでした。その後特急やラッシュ時の増発に対応するため中間の大和田にも待避線が設けられました。写真の当時はまだ寝屋川車庫もなく、したがって萱島は単なる停留場で折返しは出来なかったため、「萱島」行という行先はありませんでした。なお豊野駅は一つ京都寄りの香里園駅が香里団地造成に伴って大改良された際に、折返しし易い配線にして豊野行を延長したことで寝屋川駅と近いこともあって廃止されました。 また「大阪」表記ですが当時は天満橋が大ターミナルで、京橋は城東線への乗り換え駅にすぎませんでしたから、大阪といえば天満橋と理解されていたと思われます。 「大阪」表記が淀屋橋などの具体的な駅名になったのは昭和45年の京橋~天満橋間が高架複々線になり、ラッシュ時に「天満橋」行が設定されてからでした。因みに淀屋橋延長後も上記時点までは「大阪」表記でした。 返信 ↓
湯口 徹様
秘宝を供出いただき有難うございます。スタイルのいい木造電車ですね。先輩が受験勉強と趣味活動を天秤にかけて頑張っておられた頃私は小学生でしたので大阪や神戸に出かけるのは1年に1回あるかないかで、ましてや天満橋旧駅は見たことがありません。800型も終に見ることがありませんでした。車両と共に気になるのは駅の丸い形の照明でおそらく白熱灯と思われますが、何時の時期か蛍光灯にかわったのでしょう。因みに高橋弘さんの「関西の私鉄懐かしき時代」の1957年12月に撮影された四条駅は蛍光灯照明のようです。また、同系(?)の阪急嵐山駅は観光地であるためなのか昔から凝った照明器具が使われています。この時代は車内の照明も白熱灯が多く、オハ61などはその配置がえらいとんでいて薄暗くて本でも読もうなら目が悪くなるのが必至の車両でした。一方、阪急の300だったか310は白熱灯のカバーがシャデリア風で車内インテリアにも気を使っていたように思います。ドアエンジン付きの近代的木造車から脱線しましたが、またDRFC-OB伝統の「こんなもんも」戦に参戦していただくと嬉しいです。
須磨秘宝館に期待しましょう。
大阪通信員さんもお宝写真はたくさん持っているはずや、との声が出ていたことをご報告しておきます。
600V線でMGのない電車は、お説のように暗くて困ったことが多いです。ましてや変電所容量が貧弱だと、電圧降下が凄まじい。京津線などその代表で、「びわこ」がノッチを入れるとドカンと暗くなり、それも反対側の電車にまで影響し、えらく暗くなったなと思っていると、反対側で「びわこ」が力走していたのです。恐らく本来の600Vが半分か、もっと下がっていたんじゃないですか。
京阪の運転台には伝統的に電圧計が設置されていなかったので、運転士には不評だったようです。車両部曰く、60%まで(つまり360Vまで)なら運転に支障することはなく大丈夫との見解でした。電灯の暗さは別として、それ以下になるとコンプレやMGなどの補機が機能しなくなり、従って運転できなくなるとのことでした。そうはいっても加速は悪く車内も暗いとあっては快適な電車とは言い難いですね。
京阪馬鹿と称していた老人も懐かしい姿を見せていただき昔の事を思い出しました。3両連結の中間車が808号であったことを。12両あった800型は終戦後、昭和21年8月1日に寝屋川鉄橋で脱線転覆した807号車を廃車したため相棒の808号は3両編成の中間車となっていました。前後は811、812号車で、専ら枚方市以南で各駅停車で使用されていました。スーパーカー増備で交野線のラッシュ時も3連化することになり、800型は交野線専用となり本線から姿を消しました。
行き先板についてお尋ねいたします。
写真で見る限り[大阪 萱野]としか読めないのですが、その通りですか?萱島の間違いですか?あるいは当時、萱島を萱野と言っていたとか。また、大阪とは天満橋のことでしょうか?
教えて!京阪マニヤの方々!
米手作市様 これは[大阪 萱野]ではありません。[大阪 豊野]です。寝屋川市駅と香里園駅の間に豊野駅がありました。今は地図で調べると大阪府警寝屋川待機宿舎が4棟立っています。私が高校生の時はホーム跡が残っていました。このあたりの地名は寝屋川市豊野町となっています。
どですかさんの仰るとおり行先は「豊野」だと思われます。場所もご説明のあった通りです。かつての京阪線の退避駅は数が少なく、大阪からの場合守口で複々線が終わると豊野までありませんでした。その後特急やラッシュ時の増発に対応するため中間の大和田にも待避線が設けられました。写真の当時はまだ寝屋川車庫もなく、したがって萱島は単なる停留場で折返しは出来なかったため、「萱島」行という行先はありませんでした。なお豊野駅は一つ京都寄りの香里園駅が香里団地造成に伴って大改良された際に、折返しし易い配線にして豊野行を延長したことで寝屋川駅と近いこともあって廃止されました。
また「大阪」表記ですが当時は天満橋が大ターミナルで、京橋は城東線への乗り換え駅にすぎませんでしたから、大阪といえば天満橋と理解されていたと思われます。
「大阪」表記が淀屋橋などの具体的な駅名になったのは昭和45年の京橋~天満橋間が高架複々線になり、ラッシュ時に「天満橋」行が設定されてからでした。因みに淀屋橋延長後も上記時点までは「大阪」表記でした。
どですかでん様、1900生様、
誠にありがとうございます。そんな駅があったことも昭和45年まで淀屋橋を大阪と呼称していたとは知りませんでした。勉強させて頂きました。
これで夜ねむれます。