こんなもんが

「こんなもんありまっせ」というより、「こんなとこにも行ってましたで」という古い写真をいくつか。先ずはこの名刺をご覧あれ。

甲斐大泉駅前とあるからには、小海線甲斐大泉駅前、それもどんな誇大広告でもせいぜい10分以内であろうとは、だれしも思うだろう。処がそうじゃないから世の中は難解である。大泉駅前なら必ず電話番号が書かれているはず。話は1962年にさかのぼり、この年1月重澤旦那と小生のコンビが真冬の小海線で野宿し、凍死こそしなかったが零下30度以下でひどい目にあった?話は以前にした。

その年5月の連休に、やはり清里駅待合室でステホをした。念場原で撮影していて、白樺の素朴な立て札=川俣鉱泉流泉荘の道標を見つけた。ここに行ってみようと衆議一決し、小海線が隧道を伴って完全に馬蹄形に川俣の谷を迂回する、その谷底に細い道が繋がっており、それを降りきったところに流泉荘があった。ここを称して「甲斐大泉駅前」とは。いかに悪徳不動産業者といえども、これにはシャッポを脱ぐだろう。

ここは電気もないランプの、素朴も極まった山小屋(に泊まった経験はないが)同然の宿であった。電気がないだけでなく道もなく、小海線から谷を降りるしかない。名刺はこの時貰ったもので、河口巻之助氏が一人で守っている。飯炊きから風呂(鉱泉=当時は冷泉と言っていた)焚き、掃除すべて一人でこなすだけでない。昼間は客が飲み干したビールや酒の空き瓶を背負って谷を上り、小海線の犬走を歩んで甲斐大泉の集落に。ここで米やら肉やら、酒やら、灯油やらを仕込んでまたかついで谷を降りるのである。この建物の材木や瓦、畳、建具などはどうした運んだのだろう。恐らくは国鉄にあった「途中積み下ろし」制度を使い、最寄りのところでおろし、後は人力でかついで下したのであろう。

2人ともカミノケが黒々=何分とも55年前である。

まあ鳥取県の三徳山三佛寺投入堂(国宝になったというのは驚きだが)ほどでもないが、建築はかなり大変だったはずである。

この宿がすっかり気に入って、その後何度か利用した。何しろ電話がなく、予約などしようがないからともかく谷を20分ばかり降りるしかない。上りは30分以上を要し、目の前で1日何本もない臨時野菜貨物列車を撮り逃がしたこともある。幸い満員で断られた経験はない。馬蹄形大カーブのいわば焦点に当たるから、喘ぎあえぎ33パーミル勾配を上るC56の音は15分ぐらい聞こえる。

この年の9月には、はるばる富山県は福岡から、若かりし乙訓老人も参加して同宿した。

湯船は素人の工作と思しきセメント造りで、背中が痒いとこすりつければ癒される便利な構造。右端のおじさんは単なる同宿者。

これでも「流泉荘」なる扁額が掲げてある。
とまあ、こんな素朴というか粗末でスパルタンな旅籠だったのだが、庭先に米軍ジープの廃物が1台あった。この時道はなかったから、無理やりこの谷奥までたどり着いてそれっきりになったのであろう。

その後確か、現在は琵琶湖のほとりに庵を結び清純に!お暮しある某氏ともご同宿願った記憶もあるが、桐朋学園なる裕福な学校法人がこの宿に目を付け、買い取って寮にしてしまった。先ずは道を建設し、バスでも行けるようになったとか聞いた。勿論電気電話も備えているだろうし、建物はすっかり建て直したのであろう。ネットで調べて見たが、この川俣谷は全くの白地のまんまで、何も建物の類は書き込まれていない。

 

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