京津線80型

こと京阪電鉄京津線とあらば、この老人も黙ってはおられない。老人は1970年12月尼崎に引っ越すまで山科に住まいを致し、中学校、高校、予備校(というより映画館と木製客車のいるところ)、ドーヤンに通ったのである。しかしこの80型は卒業後の1971年8月、四ノ宮で見たのが最初。すなわちサラリーマン3か月の初年兵時代である。従って老人がこの電車に毎日のように乗ったわけではない。

関センセのたまうように、確かに京津線には「びわこ」3輌以外、パッとした車輌には乏しかった。55型の回生制動とても、こんな短線区用としても恐らくは歴史にも残るべき代物だったはずだが、お説の通り、車体はお世辞にもスマートとは申しかねた。その後の高床車とて、台車や電気部品はお古ばかりである。

で、突如1971年に、30型以来の新製車としてお目見えした80型だが、これまた確かに釣掛け車には違いないが、勾配をものともしない快速ぶりと、回生制動、裾を丸めたデザイン等々、恐らくは路面電車デザインとしても関西のみならず、日本的にも優れ、ベストテン入りは確実―かどうかはどれだけの人が知っているか、で決まるだろうが―入って然るべき車輌である。
京津81四宮1971.8.13S
京津81四宮S
京阪電鉄京津線81 四ノ宮1971年8月13日 本線並の日鋼式密着自連だが、この時点まだ20型等との連結に備え、ドロ-バーとも繋げるようになっており、まだ単行運転である 後2連貫通式に改造され、クーラーも付いた。そういえば、レトリバーなる代物も今では見ることがあるまい。
こんなに素晴らしい電車で、さして古くもないのに、どうして引き取り手がなかったのか。ひとえに回生制動に恐れをなしたとしか考えられない。

なお四宮車庫は長らく引込線が本線(東海道線)と直角だったが、この時点では並行に敷き直されている。

 

鳥羽快速と参宮線(下)

1964年12月30日、姫路発鳥羽行快速2442レは無事12時11分鳥羽に定時到着。ここで不思議なのは、鳥羽駅構内だけでなく、三重電気鉄道志摩線の写真も一切ないことである。51年前とあって記憶が全くないのだが、すぐ鳥羽から鳥羽港の入江、鞍部状峠を越えて浜辺浦をバックに、参宮線列車を撮ったとしか考えられない。なお近畿日本鉄道が宇治山田から五十鈴川、さらに鳥羽へと延伸するのは、1969年12月15日/1970年3月1日である。
参宮線列車鳥羽1969.12.30S
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鳥羽快速と参宮線(上)

鳥羽快速440レ1956.1.9山科S
山科大築堤を行く鳥羽快速440レ 本務機C57110 後補機C51101 1956.1.9
右端の古枕木柵は、花山地区住民が京津線御陵駅への日常交通路として、築堤犬走を歩行しているのを遮るためだが、効果は全くなく、すぐ別のバイパス?が作られた。左側直線部には架線支柱が建っている。C57110はC51101共この年10月15日参宮線六軒での大事故で大破するが、C57110はその後復旧した
鳥羽快速440レ山科1956.1.9S
上の440レ後尾から。直前に投身自殺があり、左側複数の人物はその処理班。当時人身事故での列車ダイヤ乱れは極少=ほぼ即時回復した

姫路-鳥羽間の快速列車1往復は、詳しく調べていないが昭和初期に設定され、列車番号は終始440、441。戦時中は恐らく伊勢神宮参拝客輻輳のため2往復に。戦局不利になった1943年12月15日訂補ダイヤでは、京都-鳥羽2往復になり、何故か宇野-鳥羽1往復がある。1952年9月1日訂補ダイヤでは京都-山田、京都-鳥羽各1往復、1953年11月11日改正では3440、3441レとして姫路-鳥羽1往復が復活している。 続きを読む

ほろ苦い「或る想い出」

先に「或る列車」を投稿したが、実はこれに関し、ややほろ苦い想い出がある。50年近く前だったか―記憶は定かでないが、ある時ある人(故人だから実名を出しても差し支えないか。確か茅ヶ崎在住だったかの松本一なる御仁)から、「或る列車」に関しての図や資料類の提供を頂けないかとの要望を受けた。どんなルートで、どこで知ったのか、手書きガリ版時代の「青信号」4号(号数は青信号特派員氏が先般教えて下さった)の小生の記事を見たらしい。他人では絶対になし得ない精密な模型を作りたいとの意気込みで、それはご奇特なと全面協力した。今だから話せるが、勤務中に業務用の4×5スピグラ(当時20万円したプレスカメラで前板だけだがあおりが利く。米国グラフレックス社製でボディは木製、レンズはコダック製エクター5吋=ピントの良さは抜群)で鉄道趣味26号「或る列車」公式写真を複写。その他昭和3年版の客車形式図下巻からの形式図コピーに、小生撮影や所蔵写真など、できる限りのものを揃えて差上げた。

初対面ではあったが真面目そうな人で、腕は確か=モデルマニアというより、職人という感じだった。実は彼は自分用ではなく、某大金持ち氏のお抱え職人であり、抱え主の趣味というか、要望で次々と大サイズの精密模型を作り続けていたのであった。もうお分かりかと思うが、某大金持ちとは、これも故人の原信太郎氏(コクヨ重役)である。

芦屋六麓荘の広大な原邸内に、ちょっとした体育館?ぐらいの別棟があり、ここに彼の口癖である「博物館」が展開していた。1番軌間の線路が敷き回され、2階やらあらゆるアングルでそれを見ることが出来る。電車は架線集電で、スパーギヤ1段駆動。直流モーターだから、手で押すと、モーターが発電機になり、その発生電流で、隣の線にいる別の電車も少しだが動く(事実だった)のがご自慢であり、車輌数は数知れず。彼の好みの電車等が山ほどあり、「或る列車」もそのコレクションの一環であったとは、これも遙か後日知ることになる。模型列車走行中、原氏(常に和服で白足袋姿であった)は、一人ハモンドオルガンを弾き、ご満悦であった。

松本氏は阪国の「金魚鉢」も作りたいというので、当時小生が住んでいた伊丹の中野=尼宝線沿線に好事家が保存しているのを教えた。彼は寸法を実測しに行き、その成果も原コレクションの一員になったのであろう。こんな実情を知ったのは、恐らく20年以上後だったか。別段騙されたというわけでもなく、まあお人好しにもホイホイと全資料を、熨斗を付けて呈上させて頂いただけの話だが、やはり何か少しほろ苦い想いも正直消し難い。

こんな個人的なことを今更思い出し、わざわざ記すのは、「或る列車」に関し先日デジアオにアップしたことに重なり、偶々だが、横浜の原鉄道模型博物館での「原信太郎世界の旅展」中に、「いま話題の『或る列車』模型を見てみよう」なるコーナーがあって、展示されていると漏れ聞いたからである。原氏の模型観は独特(模型観だけではないが)で、室内等にはあまりこだわらなかったようだから、職人松本氏も小生の(50年前)資料で十分だったのであろう。ついでながら、東武鉄道がオランダはマドローダムの有名な野外ジオラマ―やはり1番軌間ぐらいの模型鉄道が走りまくっている―の日本版コピーの如き庭園鉄道を展開しているが、その車輌全部が松本一製だそうな。彼は確かOJ軌間だったかで、津軽鉄道DC201のキットも発売したことがあったはず。

 

ブリル3軸台車

日本のボギー客車は当初台車共の輸入で、すぐ車体の国産化がなされたが、中には台枠だけの輸入もある。概ね1906年の私鉄国有化直前時点では、ボギー客車といえども台車とも国産化が通常だった。例外は九州鉄道が1907年7月1日の国有化前に発注した、連結器と車体幅以外100%米国スタイルの豪華5輌編成で、米国ブリル社からの輸入であった。到着したときは国有化後で、そのまま鉄道院の記号番号が付された。
「或る列車」鉄道趣味28号より
「或る列車」鉄道趣味28号から バッファーが独特な形状である 続きを読む

お入用の方あらば

1967年~85年ごろの、新聞、時事通信ファクシミリニュース(報道機関用)等のスクラップブックが3冊あります。小生の趣味として、経営不振私鉄廃止(頸城鉄道自動車、寿都鉄道、南部鉄道、阪神国道線等々)、江若鉄道廃止、国鉄赤字、第3セクター転換関連などです。神戸新聞に連載された「私鉄を走る」(片上、下津井、北丹、別府等)、日経連載「ローカル線」などなど。小生傘寿が目前(目出度いことなんぞなーんにもないが)ですので身辺整理の一環として、お引き取り下さる奇特なお方はいらっしゃいませんか。できることならば「着払い」でお願いしたいのですが。
尼港線

 

1968.8.2鷹取工

1968年8月2日鷹取工場の廃車蒸機群を、大急ぎで撮影したネガが出てきたので、事のついでにご笑覧に供する。詳細は省略するが仕事で鷹取工を訪ね、辞去の寸前ほんの5分ほどの間に、行き掛けの駄賃として走り回ったのだが、カメラが取材用でワイドレンズ装着だったから、ご覧のように「ともかく撮った」というだけ。48年前である。回送時はメインロッドを外すのが常識で、煙室扉が開けっ放しだったり、デフレクターが無かったりと、いずれも解体待ちの見るからに索漠とした悲しい姿ではある。
68652解体前1968.8.2鷹取工S 続きを読む

客車の座席―ロングとクロス

カビの生えたような古い写真ばかりを列挙し続けて誠に申し訳ないが、事のついでに国鉄ボギー客車の等級と座席につき、一席ブツことをお許し頂きたい。但し本格的な座席論などではなく、ホンの上っ面だけの茶飲み話程度である。

現在の電車での長距離ないし観光路線、都市間では特に競争が激しい区間などに、乗客優遇=他社線との差別化を目的にクロスシート、特に転換クロス車が投入されている。国鉄→JRの客車(通勤用多客改造車以外)、新幹線は等級にかかわらずすべてクロスである。しかし古くはそうでなかった。以下のような観点からの論及は、不勉強で従前見たことがないが、勿論例外はあっても、三等がクロス、あるいは転換片クロスだったのは、けして乗客優遇などという「優しい心遣い」などではなく、限られた床面に如何に多数の三等乗客を押し込むか、が目的だったと小生は考えている。反面一、二等はゆったりとくつろげるという観点から、ごく少ない例を除き、奥行きの深いロングシートが常識というか、当たり前であった。
九州鉄道イロブ1車輌図
九州鉄道イロブ1形式図(九州鉄道株式会社車輛図)
一二等ともロングシートだが、一等は一人毎にアームレストがある。 続きを読む

兵庫・鷹取工・高砂工・姫路6

その6に入る前に謹んで前稿の訂正を。加古川で撮影した2軸の救援車の形式をエ790と記したが、現に車体にちゃんとエ749とあるではないか。まさしく80歳目前の耄碌ぶりをさらけ出し、お恥ずかしいやら落ち込むやら。何卒ご寛容ありたい。

2軸木製救援車は最終時点エ740、エ770、エ790の3形式にまとめられ、エ740には旧客車だけでなく貨車からの改造も含まれる。あとの2形式の種車は、手荷物車、郵便車を含めた客車で、妻面に屋根上ランプ着脱作業のためのステップと手摺が残っているものが結構多かった。救援車になってからでも、出動は極めてまれ(本来ない方がいい)だから、屋根石油ランプが生きているものすらあった。加古川のエ749は当然形式740である。お詫びして訂正させて頂きます。

高砂を後にして姫路に。姫新線と播但線にはまだまだ木製客車が健在であった。鷹取工、高砂工に行ったのは先述の通り1955年7月16日だが、姫路はその前後に何回か行っているので、その間に撮影した車輌も一緒にご覧頂くことにする。
ナハ23776室内転換クロス1955.6.2姫路S

ナハ23776大ヒメ姫路1955.6.6S

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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路5

木次線で盛り上がって、その間丸1か月空いてしまったが、その5を続ける。タイトルに従い高砂工場に行くためには加古川で高砂線への乗り換えが必要である。加古川には機関支区があり、当時まだ複線だった山陽本線鷹取以西は塩屋手前まで、国道2号線に沿い、海側に張り付いて走る。このため台風などの強風時は波をかぶるため電車の運行が止まり、加古川線のC12が客車共急遽出動して神戸―西明石間を臨時代行運転したものである。その後複々線化で海面を埋めて新たに2線分の敷地を確保し、防波堤ができてこのようなことはないし、第一近くに機関車や客車は一切ない。

その加古川に、何故かヒ=控車がいた。これは機関車が入れない可動桟橋などに客貨車を押し込む際、機関車との間の「控え」に使うのが本来だが、桟橋などあるわけない加古川ではどんな使い方をしていたのか、確かめなかった。ご存知の方のご教示をお待ちする。

ヒ104加古川1955.4.22S

ここの救援車は2軸車の形式エ790で、この形式には前身が客車と貨車と2種があり、これは残念だが有蓋貨車の改造である。客車の成れの果てなら板バネが長い。 続きを読む

車体幅狭比べ

乙訓ご老人から名指しがあったからには、この世捨て人とて何ぞ申さねばならん。で、車体幅の狭い比べだが、諸兄もし拙著「花巻電鉄(上中下)」RM LIBRARY176~178をお買い求めいただいておるならば、上巻(176号)23頁をお開き下され。「主要狭幅車輌数値比較表」があって、幅福島交通軌道線(信達軌道←大日本軌道福島支社を改軌電化)の車体幅最大5呎6吋(1,676.4mm)とある。

この電気軌道は動力変更、3呎6吋改軌は鉄道聯隊の演習として実施したのだが、道路横断定規を改定しなかった=できなかったとは、道路の拡幅がなされなかったことに尽きる。軌道での車体幅は、併用する道路の「残り幅」で車体最大幅が決まるから、「へっつい」機関車が牽引していた客車の幅を、電車になっても拡げられなかったのである。

拙著表から福島より狭いものを探すと、沖縄馬車軌道1,440mm、日本硫黄(沼尻=旧耶麻軌道)の最も古い客車1~3が4呎10吋(1,473.2mm)、現在の富士急行が1067mmで開業する以前の冨士電気軌道(軌間2呎6吋)、それに笠間稲荷軌道(軌間2呎)が5呎(1,524mm)、花巻電気の軌道線4、5が5呎3吋(1,600.2mm)とある。動力が人間様の人車軌道では、4呎(1,219mm)程度もザラである。もっとも初期の車輌寸法は呎吋ではなく、尺寸が多いが。

現在でもバリバリ営業中の黒部峡谷鉄道だが、恐らく今では使っていない無蓋貨車改造の開放客車が1,640mm、三井鉱山神岡鉄道(軌間2呎)が1,650mmであった。これらを比較すると、福島交通の1,676mmとは、「3呎6吋の電車」としては著しく狭かったことが分かる。なお明治期―それも早い時点で開業した路面電車は、京都電気鉄道を含め6呎(1,828mm)が多かった。なお常識的な「軽便」では、車輌最大幅=車輌定規最大幅は7呎(2,133.6mm)が大方で、これは地方鉄道建設規程が定めている車輌定規の寸法だからだが、例えば1067mm改軌前での小坂鉄道ディーゼル機関車DC3、4は、勿論特別設計許可を得ていたが2,430mmもあった。

b

ところで、日本硫黄沼尻鉄道の無蓋貨車の写真があるので、ご愛嬌にご披露申し上げる。要は40輌あった沼尻名物の硫黄運搬用三枚側無蓋貨車セタなのだが、その最大幅1,540mm、実幅1,4656mm、内法1,390mmを実感頂くだけの目的である。だからなぜか貨車に乗車している若者3名はどうでもいいわけで、その名はプライバシーとして特に秘しておく=詮索も無用である。左の1名が手を下に伸ばしているのは、マイクで録音中なのである。撮影は1964年1月2日であった。

出雲坂根の周辺案内板

小生の投稿で、「クリック拡大してご覧あれ」と記しながら、その実拡大できないではないかとのご苦情が。自分でやってみたら確かにそうだ。要はデジ青掲載に際し、ファイルを小さくし過ぎたことによるドジである。よって再度案内板だけご覧に入れ直す。
木次線出雲坂根周辺図1973.8.13
真中辺、「近道」とあるのが件の「旧道」=「湯口徹氏受難之地」である。県道4kmを40分とあるが、若い時でも1km10分はかなりきつい。かつて街中でも歩いていて抜かれかけると、張り合ったものだが、今では「お急ぎですねえ、どうぞお先に」という心境。
「平家」跡というのは、平家落武者が住み着いたところだろうが、これも鉄道が敷かれる前は文字通りの山間僻地であった証左であろう。

 

木次線2

さて三井野原でのステホは暑からず寒からず、気持ちよく寝させていただいたが、何やら周囲がおかしく、むっくり起き上がって一驚。このさして広からぬ三井野原無人駅のプラットホームが、何と夏休みラジオ体操会場と化し、開拓部落の子供たちと、世話役の大人が20人ばかり、体操をしていた。その真ん中の待合室で若者が一人、炊事道具をおっ拡げて安眠をむさぼっていたのだから、皆の衆気が散って体操に身が入らない。これには恐縮し、世話役さんに会釈して早々に荷物と、我ながら美味ならざる夕食(の食い残し)を片付け、リュックを担いで撮影に。先ずは上り初発の備後落合6時42分発416D出雲横田行き、キハ025で、乗客はそれでも数人あった。木次線上り一番列車416D 三井野原 続きを読む

木次線1

ついこの間倉吉線で盛り上がったばかりが、今度はどうやら木次線の同様兆しが察知されるので、「兵庫・鷹取工・高砂工・姫路」はひとまず中休みして木次線を。
倉吉線でも参加させて頂いたが、その前の日は木次線を撮影していたのである。1963年8月11日姫新線東觜崎でキハ04やC11牽引ローカル列車等を撮り、備後落合の名物駅長モンクマこと、門田熊太郎氏の宿舎にわらじならぬキャラバンシューズを脱ぐ。面識はなかったが、何かの関わりから泊って結構とのことで、一宿ニ飯に甘えさせて頂いた次第であった。業務用ダイヤを芸備線、木次線とも頂戴し、大いに助けられた。

木次線備後落合発車待ちのキハ024S

備後落合で発車待ちの432レキハ024

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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路4

鷹取工場の構内に放置されている車輌の内には、阿波鉄道買収のコッペル機を技能者養成所が研修のため改修し近代化した「若鷹号」、7号「へっつい」機がある。後者は熱海線(現東海道本線)建設=丹奈隧道掘削ズリ出しのため、大日本軌道小田原支社線を「極めて高額で買収」し、即日熱海軌道組合に貸出して運行させたのだが、関東大震災で壊滅。国鉄建設局の所管になっていたこの「へっつい」機は各地で建設に従事したことにより、幸いにも残存した。鷹取工場では教習用標本機として右側ボイラー、シリンダ等を切開していた。戦後でも小規模博覧会などに貸し出され、当OB会諸氏も八瀬で撮影しておられるのが紹介された。

鷹取工7号標本機1960.5.20S

鷹養標本機7 旧大日本軌道小田原支社7号で越中島鉄工所製

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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路3

兵庫の次は鷹取である。兵庫-鷹取間には1954年4月1日新長田駅が新設されたが、この当時では兵庫の次が鷹取である。ここには機関区だけでなく貨車区、それに鷹取工場があり、先ずは工場へ。看板は復元なった義経号で、目立つところに鎮座しているだけでなく、博覧会の類にも貸し出されていた。確か事前に文書で見学を申し入れていたと記憶するが、たった1人の学生(その実受験生)にも助役がつききりで案内してくれる。正直言うとこっちは早く機関車や救援車を撮りたいのだが、そこは礼儀正しくご案内に従う。ブレーキシューの自動鋳物システムが面白かったと記憶する。
義経鷹取工場1955.37.16S
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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路2

兵庫は和田岬線、それから分岐する兵庫港線、神戸市中央市場線への貨物を主体に、結構広いヤードが拡がっていた。これは神戸港も然りで、市街地に展開した貨物ヤードは梅田貨物駅が典型だが、貨物がコンテナに集約され、その基地が都心を少し離れた個所、神戸の場合は鷹取になり、無用と化したヤードは再開発された。
ついでに記すと、国鉄はポートアイランドのド真ん中にかなり広い土地を確保していて、恐らくは関西新空港がポートアイランド沖に建設されることを見込んでいたかと思われる。ところが当時の宮崎神戸市長は、革新系を標榜=社会党の支援を受けた2期目で、自民党候補と熾烈な戦いになり、社会党の主張でこの折角の神戸沖空港を拒否し、結果的に関西新空港は現在のところに。宮崎市長はその後伊丹空港が廃止になる前提で、自前の神戸空港をミニサイズで作り、神戸ワインと共に神戸市民終生のお荷物となるのだが。

話が脱線したが、兵庫のヤードはきれいに消えてキャナルタウンと称し再開発され、高層住宅が立ち並んでおり、地震後和田岬線は電化電車化された。朝夕のみの乗客の大方を占める三菱重工も縮小の一方で、今後どうなるんじゃろか。以前にも書いたが、国鉄-JRは、なんでこんな歴史だけはやたらと古い盲腸線に執着しているんだろうか。和田岬線が廃止されれば、三菱重工の職員は神戸市地下鉄海岸線を利用せざるを得ず、通勤費は当然高額になる。

兵庫木製客車6連1955.4.22S

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兵庫・鷹取工・高砂工・姫路1

浪人1年目の1955年、どうしても勉強は手につかず、予備校に行くと称して家は出るものの、若い大学院生教官の日本史—―といってもほぼ試験には出ることもない明治・大正・昭和期の講義を除き、専ら映画館に入りびたり、あるいは木製客車をせっせと撮っていた。この時点日帰りで木製客車が撮れるのは、放出、梅田、神戸港用品庫の配給車、機関区、客貨車区の救援車以外の営業用客車といえば、兵庫=和田岬線、姫路=播丹線/姫新線ぐらい。やはり事業用車より営業車のほうがいい。

で、ある夏の1日、山科を3時51分に発する111レに乗った。この列車は東京を前日14時25分発、終着は門司22時03分=勿論普通列車で、6時25分兵庫で下車。和田岬線(正式には山陽本線の一部)の通勤用に「一山」客車が居り、全部木製車である。この線は三菱重工の通勤用であり、神戸市中央市場への貨物、川崎車輌からの甲種輸送が主で、かつては鐘紡も工場があったが、この時点では競輪場(その後神戸市電和田車庫から交通公園、サッカー場)になっている。旅客列車は朝夕通勤用3往復、計6往復。

その木製客車が多種多彩で、戦時中優等車を格下げしてサイドに引戸2か所を設けた形式ナハ13500がもっともふさわしいのだが、やはり格下げで形式ナハ10000にぶち込まれたものも居る。中でも異色は木製ながら丸屋根の、播丹鉄道ホハフ500買収のハフ14070である。これは沿線に陸軍の演習場や戦車聯隊、病院等が山ほどあった播丹鉄道が、代燃ガソリンカーだけでは足らず、国鉄ナユニ5672(←ホユニ8682←ユボフ14、神戸工場1909年製)の台枠、台車に鷹取工機部で中型並の木製車体を新製したもの。両端がロングシート、中央部が6組のクロス、定員105(内座席75)人、便所洗面所はない。

ナハ13511大タカ1955.7.16兵庫S
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233号機

233加古川1955.7.16a今日オープンした京都鉄道博物館に、ピカピカになった233号機(形式230)が展示されている。この機関車は戦後高砂工場に同型機2輌と共に働いていた。時は1955年7月16日、浪人1年目の若者は親の目を盗み、山科3時51分発下り111レに乗車。これは東京を前日14時25分発、京都着4時ちょうど、20分発で、兵庫6時23分着。ここで下車して和田岬線の木製客車群と号B50を撮り、電車で鷹取へ。鷹取工場で木製救援車、義経、旧大日本軌道小田原支社の7号「へっつい」機、田野城前会長が以前この欄に記された若鷹号、エトセトラを撮り、高砂工場へ。乗換の加古川で、貨物列車に233号機が回送で連結されていたのに遭遇した。恐らく鷹取に入場途上だと思う。高砂工場は高砂線高砂からかなり離れており、山陽電車に乗ればいいのだが、何分貧乏受験生で、10円だったか15円だったかをを惜しんで真夏汗をふきふき2キロぐらい歩いたか。ここでも木製救援車と、同展望車(試験車)、それにたまたま居合わせたサハ6400(旧キサハ43100)を撮った。キサハに改造のため入場していたのであった。
浪人中だというのにこんなことばかりしていて、もう1年浪人を重ねる羽目になったのは、正しく身から出た錆だが、61年前を懐かしんで投稿する気になった。

丹波橋での近鉄奈良電

京阪三条から奈良電が発着し、奈良電京都で近鉄電車が見られたのは何時までだったか。関センセの第200回目を見て、この老人もネガを探す気になったが、根気が続かず3コマ、それも丹波橋での写真だけで。ドアエンジンのない木製3扉車3輌連結では、車掌が駅ごとに8か所(前頭だけは運転手がする)の扉を施錠して回らねばならない。雨の日など見ていて気の毒だったが、何か特別な(天候)手当でもあったのだろうか。京阪でも木製車3連は天満橋で見た記憶があるが、三条口ではなかったと思う。まあのんびりした時代ではあった。撮影は1955年11月6日である。その後奈良電気鉄道は完全に近鉄に吸収されて近畿日本鉄道京都線になり、丹波橋の連絡線が絶たれ、駅自体も別の場所になった。
奈良電気鉄道1020丹波橋1955.11.6a
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