兵庫は和田岬線、それから分岐する兵庫港線、神戸市中央市場線への貨物を主体に、結構広いヤードが拡がっていた。これは神戸港も然りで、市街地に展開した貨物ヤードは梅田貨物駅が典型だが、貨物がコンテナに集約され、その基地が都心を少し離れた個所、神戸の場合は鷹取になり、無用と化したヤードは再開発された。
ついでに記すと、国鉄はポートアイランドのド真ん中にかなり広い土地を確保していて、恐らくは関西新空港がポートアイランド沖に建設されることを見込んでいたかと思われる。ところが当時の宮崎神戸市長は、革新系を標榜=社会党の支援を受けた2期目で、自民党候補と熾烈な戦いになり、社会党の主張でこの折角の神戸沖空港を拒否し、結果的に関西新空港は現在のところに。宮崎市長はその後伊丹空港が廃止になる前提で、自前の神戸空港をミニサイズで作り、神戸ワインと共に神戸市民終生のお荷物となるのだが。
話が脱線したが、兵庫のヤードはきれいに消えてキャナルタウンと称し再開発され、高層住宅が立ち並んでおり、地震後和田岬線は電化電車化された。朝夕のみの乗客の大方を占める三菱重工も縮小の一方で、今後どうなるんじゃろか。以前にも書いたが、国鉄-JRは、なんでこんな歴史だけはやたらと古い盲腸線に執着しているんだろうか。和田岬線が廃止されれば、三菱重工の職員は神戸市地下鉄海岸線を利用せざるを得ず、通勤費は当然高額になる。
梅田貨物駅や神戸港駅程ではないが、上の写真を見て、現在の兵庫駅南側=キャナルタウン一帯を想像するのは難しかろう。元来貨物を扱っていた鉄道とは、ともかく広い土地を必要としたから、当然地代が高いところに立地できず、梅田(埋め田)で分かるように、湿地やデルタ地のように、地価の極めて安いところに造成されたのである。それが貨物撤退で土一升金一升になったわけで、吹田の広大な敷地も然り。
小生が知っている和田岬線は、敗戦後の混乱が収まった1955年以降で、加古川線がDC化され、余剰=木製ではあるがマトモな客車が転入してきていた。それでも先回ご紹介したナハフ14070などの1形式1輌も健在だった。この播丹鉄道買収車は、中型の形式番号が与えられていたため、一時はオハ61系への台枠切り継ぎ用にリストアップされたことがあると聞いた。勿論雑型台枠のため不可だが、車体が新しいことにより、最終高砂工場の通勤車に使われて生涯を閉じた。なお木製客車の妻面の、丸で囲んだAからEまでの記号は車体の程度の5段階評価=Aが一番状態がいいことを示すのだが、我々が知る段階では、Cすら滅多に見られず、大方がDかEだった。
この和田岬線の機関車は、神戸港線と共に戦前からB50が使われ、その後8620になる。D50は地平ヤードから貨車を高架に牽き上げるための駐在で、いわば兵庫名物であった。神戸港線は蒸機とともに消滅したが、和田岬線は機回り線が無くなって両端にDE10を付していた。そののちキハ35系が入り、さらに電車になり、和田岬線ホームが半高架化されて今日に至る。地震復旧の際、兵庫-鷹取間のこの和田岬線専用線を、レール37kgのままで架線を張り、山陽線下り線に一時転用。そのあとついでに?兵庫-和田岬間も電化したのであった。
湯口先輩様、
念願のB50、ありがとうございます。
和田岬線は、いつも兵庫駅の山陽線から見ると、オハ61か60のベンチレーターが見えるだけで、結局、乗ることはおろか見ることも無く終わりました。
今回のご投稿、大変興味深く拝見いたしました。
湯口様
貴重な記録の数々、惜し気もなく公開いただき、ありがとうございます。1955年撮影と言えば、私はまだ生まれて6年間しか経っていないと言うのに、先輩は、もう浪人生活を満喫され?午前3時台の列車で丸一日を撮影に費やされていたとは、改めて年齢差を感じてしまいました。
一両一両の木造車の出自を興味深く読み、木目まできっちり写し込まれた撮影技法も驚きでしたが、私は兵庫駅にD50が居たことは、初めて知りました。和田岬線の蒸機はB50が有名ですが、D50は兵庫駅の入換に使われていたのでしょうか。完璧なD50ですね。