C58③ 最果ての根室本線を行く
釧路区C58のもうひとつの舞台が、根室本線釧路~根室の客貨列車の牽引でした。釧網本線の車窓と似た風景ですが、海岸線を走る区間があるのが特徴です。人口はさらに希薄で、駅周辺だけにわずかな生活があって、ほかは全くの原野・湿原が広がり、さらに最果て感が増してきます。さらに、釧路~根室には、通しの普通列車6本のうち1本だけがC58の牽く客貨混合列車で、あとはDC列車でした。貨物列車も走っているとは言え、駅間距離は10キロ前後のところが多く、釧網本線に比べると、アプローチの難度は高いと言えるでしょう。
▲太平洋に切り立った海岸段丘のうえを行く釧路発根室行き447レ、釧路~根室で唯一の客貨列車だった。吹き下ろす風が強く、黒煙が編成を隠してしまった。いまや水平線まで望めるとして著名な撮影地となったが、懇切丁寧なガイドもない時代、車窓からの印象だけ頼りに、駅を降りて闇雲に雪原を歩いて到着した。別当賀~落石 (昭和47年3月)
この区間の様子は、「蒸機の時代」にも発表しています。同誌から原稿をリライトして転載しました。〔以下「蒸機の時代」から〕
“根室本線の蒸機”と言えば、先達にとっては狩勝峠の力闘が、忘れられないシーンとして残るだろうが、狩勝峠に間に合わなかった世代にとっては、最東端の釧路~根室で、混合列車、貨物列車を牽く姿が記憶のなかに残る。牽引するのは、C58と言う凡庸な中型機ではあるが、最果て感あふれる風景は、それを補って余りあるものとなる。
最果てイメージと言えば、宗谷本線のC55が筆頭だろうが、根室本線の場合は、太平洋岸に並行して走り、スケールの大きな海岸線、大規模な海岸段丘に沿って、随所で大自然の造形美に出会って、撮影意欲を高めてくれたものだ。とは言うものの、同区間でのC58の牽く列車は、貨車を連結した混合列車が1往復、貨物列車を加えても、一日に僅かな本数で、ここでは撮影に専念するより、最果ての旅情を身体いっぱいに感じて、開放感に浸りながら、各駅で途中下車を楽しんだものだ。
実際、彼の地は、関西に住む身にとっては、文字どおりの最果ての地だった。均一周遊券を使い倒しても、二晩を要して、やっと釧路に着いた。結局、大した写真は残せなかったが、重い荷物を背負って一人で線路端を歩いた日々が、ただただ懐かしい。
▲初秋の厚岸湾、海岸沿いを行く446レ C58 385〔釧〕+客車3両にポツンと冷蔵車がつながれていた。この時が初めての根室線の訪問だった。厚岸~糸魚沢 (昭和44年9月)
▲厚岸湾を向こうにして下り貨物列車を撮る。海をバックに撮れるのも、この区間の魅力。当時は、こんな長大編成の貨物列車が運転されていた。湿原を所構わず歩き回って、足回りがずぶ濡れになってしまった。 厚岸~糸魚沢 (昭和44年9月)
▲初めて来た、最果ての根室、隣駅がない駅名標に感慨を覚えた まだ旧駅舎の時代で、根室駅前は未舗装だった。 (昭和44年9月)
▲雪原を滑るように走り去る。446レは日中のいい時間帯を走る列車だった。戦後型C58の特徴である船底型テンダーがよく分かる。別当賀~落石 (昭和47年3月)
▲雪の季節、沿線は白樺や灌木が続く、どこまでも白い世界。下り貨物列車 C58 409〔釧〕 糸魚沢~茶内 (昭和46年3月)
▲緩やかな丘陵地帯をSカーブの連続で越えて行く。C58 385〔釧〕には、当時、特異な後藤工場式デフが取り付けられていた。 446レ 糸魚沢~茶内 (昭和46年3月)
▲駅前から簡易軌道が分岐していた茶内は、街としての機能を持っていて、ホーム上にも、多くの乗降があった。同行のT君らも入れて、到着する60系客車改造のキハ09を撮影する。 茶内 (昭和46年3月)▲寂寥感があふれる丘陵地帯を越えて行く。道路からも離れて、静寂だけが支配していた。車窓から見た、上尾幌付近の風景が忘れられず、ただ一本のC58を写すため、同行した西村さん、T君らと、もう一度、札幌から夜行に乗って訪れ、雪原を汗びっしょりになりながら歩いて写し、再び夜行列車で札幌方面に戻って行った。446レ C58 385〔釧〕 別保-上尾幌 (昭和46年3月)
▲アメリカンスタイルの給水塔の向こうに、陽が落ちていく。 厚床 (昭和47年3月) ▲▲途中の小さな駅にも駅員がいて、乗降も見られた。 落石 (昭和47年3月)▲青空いっぱいの雪原を走る。3月ともなれば、最果ての鉄路も春の様相になった。この日はダイヤ改正の日で、446レは、番号が変わり444レとなった。 C58 119〔釧〕 姉別~厚床▲まだ15時過ぎと言うのに、もう傾いた太陽が雪紋を描き始めた。自分の三脚姿までが雪原に映ってしまったのも良き思い出。下り貨物列車 厚床~初田牛 (昭和47年3月)
総本家青信号特派員様
両数や線区による改造の違いもありますが、今でもC57の何番はどのような機関車であったか覚えています。C58は戦後製船底テンダーは好きでしたがC58の何番はどうだっか、そういうことは覚えていません。魅力的な写真で有名でした先輩の故天野克正さんは「形式や番号なんかどうでもええんや!」と言われたことを思い出します。要するに自分の思い通りの写真が撮れればそれが一番いいのだと言うことだと思います。しかし、未だに凡人の私は形式や番号に執着するところがあり上手くはなりません。さて、そういう中で、今回の総本家さんの最僻地で苦労された作品は見事です。私の好みから申し上げますと別当賀~落石及び別保~上尾幌のそれぞれサイドビュー、煙は少ないですが糸魚沢~茶内のSカーブ等です。姉別~厚床の順光カーブもいいですね。私は釧路~根室間は札幌赴任中に納沙布岬へ行き北方領土歯舞諸島を見に行った時だけの乗車です。古い話ですが、ソ連はブレジネフ書記長時代でした。
準特急さま
コメント、ありがとうございます。はい、私も今回で初めてC58のナンバーを意識して書きました。C57に比べて、両数も多いうえに、個体差も少ないですから、たしかに意識することはありませんでした。天野さんの言葉、聞いたことがあります。番号を気にしない分、撮影に集中できるかもしれません。今回の根室線のC58、Hさんのお蔭で本にも載せていただき、本欄にも載せることができました。