D52 室蘭本線を行く
最後のD52に参ります。実際、私もこれだけのD52を撮っていたとは、今回記事を書くまで分かりませんでした。北海道は、われわれの時代、どうしてもC62に引っ張られて、その後の思い起こしもC62が占めることになり、ほかの機が疎かになっていたことを痛感しました。しかし、山科の人間国宝さんは、ことあるごとに「いちばん好きな蒸機はデゴニです」と言っておられるように、私もD52が蒸機本来の魅力である力強さにあふれた蒸機であること、改めて思いました。今回は、そのD52が本領を発揮した、長万部~鷲別の室蘭本線での活躍です。まるで、かつての東海道・山陽本線を見るような、スケールの大きな舞台でした。
▲北海道へ渡って3日目、Kさんと快適な長万部ステーションホテルに泊り一番列車で静狩へ向かった。今日も快晴で、停車中のD51は全身に浴びて、光り輝いていた。安全弁の気忙しい音が、朝の冷気を伝って響き渡り、今にも発車しようとするなか、彼方から室蘭本線の雄、D52の牽く貨物がゆっくり姿を現した(「青信号」23号鉄道写真展作品集のコメントを再録) 右:252レ D52 136。(昭和44年9月)
▲朝の静狩、ゆっくり下り貨物が通過して行った。静狩~小幌(信) 昭和44年9月▲室蘭本線の最初の見どころは、長万部を出て最初の駅、静狩から、小幌(信)寄りにある大カーブ、複線の築堤がR400のカーブで続いていて、まさに“北海道の山科”のような雰囲気。(昭和46年3月)▲さすが北海道のメインライン、貨物列車は続々と通る。牽引は、D51、D52が半々ぐらいだったが、昭和44年10月改正でDD51が投入されて、次第に数を減らしてきた。静狩~小幌(信) (昭和44年9月)▲大カーブは、ほぼ90度曲がって海岸沿いのトンネルに向かっている。朝の上り貨物は半逆光になって、カーブを曲がるごとに光線の微妙な変化が楽しめた(昭和44年9月)。
▲大きな機体がゆっくり近づいて来る。この静狩には、かつて山手に金山があって、最大で2000人の従業員がいたが、戦時中に閉山になったと言う。長万部に鉄道資料館があって、数年前に訪問すると、そのなかに静狩金山を紹介するコーナーがあって、寒村にこんな歴史があったことを初めて知った(昭和44年9月)。
▲雪の季節の静狩の大カーブを行く、D52 56の牽く上り貨物列車(昭和46年3月)。▲静狩を出て、海岸沿いをトンネルの連続で抜け、秘境駅として有名になった小幌(当時は信号場)を過ぎると、つぎの駅は礼文となる。ここにも、大カーブがあるが、さらに、次駅の大岸寄りに歩くと、岩礁が続く礼文華海岸に出て、写真のような風景となる。場所が限定されて、誰が撮っても同じ写真になるが、いかにも“室蘭本線を行くデゴニ”が撮れたものだ(昭和46年3月)。
北海道で活躍したD52の足跡を、楽しませていただきました。
機関区に憩う姿、駅ですれ違うシーン、そして長い貨物列車の先頭に立って力闘するシーン等々…。総本家様の素晴らしい写真と、情感あふれる文章を拝見し、まるで自分がその場にいたような気になります。私はD52に間に合いませんでしたが、令和の今になって追体験させていただきました。
D52が活躍した区間は北海道のメインラインと書いておられますが、まさにその通りですね。数十両の貨車を連ねた長い列車が行き交う物流の大動脈だったこと、残念ながら当時の私は知りませんでした。
当時の列車ダイヤと運用表、ウェブ地図などを見て妄想にふけるのも楽しいものです。奇岩が連続する礼文華の海岸も、今では新線に切り替わって車窓から望むことができませんが、一部は道路になって当時の景観を見ることができるようですね。景色の良い鉄道路線は赤字路線で、しかも難所が多いと何かの本で読んだ覚えがありますが、礼文華もまさにその通りだと感じました。
コメント、ありがとうございます。D52の牽く貨物、重量感あふれる編成で、大動脈であったこと、ひしひしと感じます。試しに貨車の両数を数えますと、44、45両あって、これは、その昔、自転車で行った高倉陸橋から、貨物が通るたびに数えた両数と一致しますから、東海道線に匹敵する輸送量があったわけですね。
礼文華の海岸、私もGoogle地図で見ますと、すっかり変わっていたのに驚きました。線路と道路の位置が逆になり、線路は複線で山手側を行き、道路は拡幅されて海岸沿いに移設されていました。
総本家青信号特派員様
数回に亘り北海道でのD52の雄姿を堪能させていただき、ありがとうございました。定番の撮影名所である大沼や礼文華海岸以外にもさまざまな場所や角度からの写真を撮っておられたのですね。特に趣味誌上ではほとんど紹介されていない客車列車を牽く姿や、もと吹一区の142号機(他機に比べ煙突が短めに見えるのは、吹一区当時装備されていた集煙装置が外されたためでしょうか?)など、貴重な記録と言えます。
また貨車群に目を移すと、黒いワムやワラに混じって、レム5000やレ12000など、白い車体の冷蔵車が結構見られます。高速道路網がまだ不充分な当時、北海道の新鮮な魚類や肉類、乳製品などを本州の大都市圏に送る手段として、国鉄の存在は現在は考えられないほど大きかったのでしょう。
まほろばの鉄趣味住人さま
いつも見ていただき、ありがとうございます。たしかにD52の牽く客車列車は、あまり雑誌などでも見ない気がします。私も訪問した昭和47年3月の一度切りです。機関車配置表を改めてみますと、昭和47年度にDD51は15両と、前年より5両増備されていますから、昭和46年度末期の短期間だけ見られたのかもしれません。大沼、礼文華は、たしかに定番の撮影地でしたが、私の好んだ静狩の大カーブはあまり発表されていませんね。事前の撮影地ガイドは何もなく、持参の五万分の一地図を見て、思わず下車したことを覚えています。貨物列車は、冷蔵車も含めて、有蓋車ばかり45両前後を牽いていました。生活手段を満載していたのでしょう、旅客以上に、貨物輸送の活発な時代でした。