D52 五稜郭機関区 (1)
太平洋戦争のさなか、“3年持てばよい”の考えのもと、徹底した戦時設計で建造されたのがD52でした。当時、最重要資源の石炭輸送は、鉄路だけでなく、航路もありましたが、攻撃の標的になることが多く、鉄路による重量物の輸送に変更され、急遽、当時の主力D51を上回る牽引能力を持った貨物用機が製造されることになり、昭和18年から300両近くが製造されました。計画ではさらに、増備の予定でしたが、終戦とともに中止、最終ナンバーは468号ですが、183両の欠番があり、実質の製造は285両となりました。しかし戦争末期の資材不足の約2年間で300両近くの大型機を製造したことは驚きに値します。その強力パワーで、東海道・山陽の二大幹線がその中心でしたが、昭和40年代にも、五稜郭機関区に10両のD52が配属されていました。▲夜の五稜郭機関区、扇形線に顔を揃えたD52136 D52468、昭和40年代、同区には最大15両のD52が配属され、函館~長万部~鷲別で、貨物列車、一部では旅客列車も牽いていた(昭和47年3月)
▲ D52 136 昭和19年に製造、稲沢、吹田、姫路第一区の配置後に昭和35年に五稜郭に来た。昭和43年に初渡道して、五稜郭区を訪問した時に写した第一号だった。廃車後は、沼津市の高沢公園に保存されている。(昭和43年8月)。
▲ D52 138 ふつう蒸機は、煙突とシリンダーの中心線が一致しているが、D52は重心を前に寄せるため、煙突がシリンダーより600mm前へ寄っている(昭和47年3月)。
▲D51と並ぶとその大きさが分かる。D52 202は昭和19年製造、稲沢、国府津、吹田、姫路一を経て昭和35年に五稜郭へ。昭和48年に門司港でイベント展示があって貸し出され、五稜郭の車籍のまま門司港に居着いて、昭和50年に廃車になった(昭和46年3月)。▲ 出区! 誘導掛の緑旗が振られてD52 202 がゆっくり給炭線から出る。▲ D52としては唯一デフを切り詰めたD52 204 入換時、誘導掛の乗降の安全確保のため、デフの切り詰めが9600、D51では施工されていたが、D52では、唯一の例となった。たたでさえ、前のめり感のあるD52だが、さらに前へ突き出た感じが強い(昭和47年3月)。▲D52の運転区間の東端となる鷲別機関区で憩うD52 235 前記の136号と同じような経緯で北海道へ来た。現在、相模原市の公園で保存されているが、ナンバーは235のレプリカプレートを付けているが、実態はD52138と言われている(昭和43年8月)。▲ D52 400 キリ番の400号 終戦の昭和20年製造、小郡、柳井、広島、岡山と山陽筋で働いたあと、五稜郭へ来た。昭和44年に廃車になっている(昭和43年9月)。▲夜の機関区で休むD52 414 ほかのD52と同様の経緯で五稜郭へ来た。ナンバープレートの取付け位置がやや高く、遠くからでも判別できた(昭和47年3月)。▲動輪径はD51と同じ1400mmだが、ボイラーが格段に太く、斜め後ろからの眺めは迫力あふれる(昭和47年3月)。▲テンダーに「**改悪阻止」のアジが書かれたD52 414 比較的キレイに整備されたD52も、末期には悪態の対象になってきた(昭和47年3月)。
総本家青信号特派員さま
懐かしと恨みのD52の登場ですね。青信号誌「北海道寒中見聞録」に書いた昭和44年2・3月の渡道では3週間に亘る旅行中、見ることはあってもついに1枚も撮れずに、無念の想いで帰京したものでした。ご一緒した同年夏の現地闘争(狂化合宿)参加時に、室蘭線の礼文に向けて大カーブを下る貨物を撮ったものの、下り列車のため無煙機をかろうじて撮っただけでした。結局卒業・就職後、47年のGWだったと記憶しますが、やっと赤井川と池田園及び植苗で8mmに収めました。やはりとにかく大きい!の一語に尽きますね。移動のための列車からは頻繁に目にするも、降りて撮ろうとするとなかなか来ない、というパターンに随分泣かされたものでした。
先のC55も懐かしく拝見させて頂きました。続編に期待しております。
1900生さま
いつもご覧いただき、ありがとうございます。また速攻コメント、恐れ入ります。1900生さんら三人で敢行された、昭和44年の冬の北海道は、なかば伝説化した苛酷を極めた旅行ですね。雪というのも、適度に降らないと、撮影はできません。その点、私は、冬と言っても3月ですから、極端な雪には遭遇していません。撮影には向いていましたが、今から思うと、一度はこんな経験をしてみたかったと、いつも思っています。
1900生さん
私は労せずして撮っています。もっともD52など山陽線でヘドが出るほど見ていますので“ついで撮り”でしたが、今となってはもったいないことをしました。何枚か見てください。
仁山信号所で「まりも」待ちで撮ったD52136の牽く貨物です。後部補機はD52138
仁山のD52は、準特急さんが勾配をうまく表現されて、いい写真を撮っておられ、雑誌にも発表されています。私の場合は、勾配緩和の藤城線が開通してからで、仁山はただの北海道の小駅になっていました。
それは米手さまの日ごろの行いが随分!良かったための神様からのご褒美だったのでしょうね。そうすると
K中・N村・小生の3人は普段の行いが良くなくて、神様のお眼鏡に叶わなかったようですね。
ところで現在の駅看板がどうなっているのか存じませんが、10年ほど前にDD51を撮りに降りた時点でもまだ「仁山【信号場】!」と掲げてありました。まあ実態は信号場ですが。
1900生さん
よくお分かりですね!
私は世間では言行に品があると言われているようです。ところで写真の右端に写っていたのがワラクロ屋社長であります。あ、思い出しました。京阪が信号所に突っ込んだ“ダルマ落とし事故”の年でした。
訂正
後部補機はD51217でした。
D52138はどこで撮ったか分かりませんので教えてください。
函館本線の車窓から撮影された、五稜郭機関区でしょうか?
五稜郭に扇形庫はなかったと記憶していたのですが、昭和44年に火災で焼失していたのですね。
紫の1863さん
昭和40年か41年の夏ですから焼失の直前と言うことですね。機関車は誘導されて後退中ですが、テンダーの上では機関区員がスコップで石炭をならしています。
はい、長万部か五稜郭か、いずれかと思いましたが、建屋の様式から五稜郭ですね。年表を見ますと、たしかに昭和44年に一部が焼失しています。このぜんごにも区へ行っているのですが、気がついていませんでした。
さて、紫の1863さんには、過日の京阪七条の写真展にもご来場いただき、ありがとうございました。本日、終了しました。また、開催の際はご案内いたします。