木次線1

ついこの間倉吉線で盛り上がったばかりが、今度はどうやら木次線の同様兆しが察知されるので、「兵庫・鷹取工・高砂工・姫路」はひとまず中休みして木次線を。
倉吉線でも参加させて頂いたが、その前の日は木次線を撮影していたのである。1963年8月11日姫新線東觜崎でキハ04やC11牽引ローカル列車等を撮り、備後落合の名物駅長モンクマこと、門田熊太郎氏の宿舎にわらじならぬキャラバンシューズを脱ぐ。面識はなかったが、何かの関わりから泊って結構とのことで、一宿ニ飯に甘えさせて頂いた次第であった。業務用ダイヤを芸備線、木次線とも頂戴し、大いに助けられた。

木次線備後落合発車待ちのキハ024S

備後落合で発車待ちの432レキハ024

木次線発車待ちキハ024車内備後落合1973.8.12S

キハ024の室内 小生のキスリングが覗く

木次線オーバーヒートしたキハ042油木1973.8.12S

オーバーヒート寸前で機関士が薬缶で冷却水を補給 油木

木次線三井野原432レ1973.8.12S

三井野原の待合室 ここが一夜の仮宿になった

C56が5両のワム、ワフを牽いてきた

C56がワムワフを5輌牽引してきた

出雲横田以南のC56牽引旅客列車はオハユニ71が1両だけ

木次線の南端―備後落合は山間のジャンクションで、周囲にさして人家があるとも思えなかったが、ヤードも結構広く、機関車駐泊施設もある。乗降というか、芸備=木次線乗り継ぎは予想以上に多く、432レキハ024にも20人は乗っていたと記憶する。この時期国鉄が正しく唯一に近い移動手段だったのである。
キハ024の右側乗降口に覗くキスリングは小生のもので、やたら幅広は当時の流行である。この時は単独行で真夏だから寝袋もなく、荷物は小海線行きの半分か三分の一以下。荷物量に従って結果的に細長くなり、この時身長181cm、52kgの筆者が担ぐと、正しく十字架の趣があった。
33‰勾配を気息奄々と上り続けて機関がすぐオーバーヒート気味になり、やっとたどり着いた油木で、機関士が駅長から薬缶を借り、冷却水を補給してしばらくアイドリング。
次の三井野原は開拓部落で、冬場はスキー場があってにぎわう由だが駅員無配置。ここで下車して貨物やディーゼル準急「ちどり1号」等を撮る。
木次線貨物三井野原1973.8.12S
木次線上り列車三井野原1963.8.12S
木次線上り混合三井野原1963.8.12S
木次線油木18時30分発上り最終列車1963.8.12S
木次線三井野原上り最終440レ1963.8.12S
この三井野原でステホをする計画であった。最終列車は18時30分宍道行きで、木次線出雲横田以南のC56牽引旅客列車は、オハユニ71が1両だけである。それで十分な旅客しかないのだが、上り終列車とあって、部落内で作業をしていた大工さんやら電工さんやらが、およそ25人ほど駅に集まってきたのにはいささか驚かされた。みんな木次あたりから働きに来ていたわけで、この当時自前の自動車に道具を積んで、などの風景は一切なかった。再度記すが国鉄が唯一の足だったのである。
無人駅だから駅本屋がなく、プラットホーム上の待合室で寝ることにし、重澤旦那から借り受けたスエーデン製加圧式石油ラジゥスで飯を炊く。それがどこが悪かったか生煮えで、空腹だから我慢して食べるしかないが、おかずの缶詰ポークビーンズ(西部劇に出てくるヤツをわざわざ探し回った)と実に不思議なコラボ――我ながら不味い夕食ではあった。
することがないから早々と寝るが、下り439レが21時57分に到着。車掌は念のため電燈の消えた待合室を覗き、小生が盛大に拡げていた炊事道具を蹴飛ばしかけて、慌てて退散した。さらに夜中に野良犬か開拓部落の放し飼いか知らないが、犬奴が吠えくさったので、缶詰を投げて追っ払う。勿論その缶詰は翌朝回収した。

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