連絡票

69941「阪急かぶりつきツアー」で、鉄鈍爺氏とマルーン氏が、乙訓ご老人に阪急の小駅で扱わない企画乗車券入用の時は、駅員に申し出れば扱い駅までの無料乗車証「連絡票」をくれる、と書き込まれた。これに関しては須磨の後期高齢老人に苦い思い出がある。

時は47年前になる。当時伊丹のド田舎に住んでいたが、ヨメさまが2度目の出産で小生の両親に近い塚口病院に入院。そのため亭主は従前の武庫之荘経由通勤を、一時的に伊丹、塚口経由に換えるべく、定期券を求めに伊丹駅に。そしたら駅員が抜かすには、伊丹では定期券発売を取りやめた。梅田まで行け、と。

助役を呼び出して質すと、伊丹駅に新たに自働改札機を導入し、新様式の定期券しか使えない。発券機は一番近いのが梅田で、今申し込むと、伊丹でのお渡しは明日になる、とのご説明である。いやこっちは今日、今入用である。梅田まで行かねばならないというなら、百歩譲っても伊丹―梅田の乗車券なり、乗車証なりを出すのが当然だろう。第一伊丹はれっきとした駅で、そこからの、当日から有効な定期券が発売できないこと自体、根本的におかしかろう。そんなことが運送約款にあるのなら見せろ、と「穏やかに」申上げた。

しかしテキは、かかる事態は予想していなかったらしく、その様なお取り計らいはできません。そんなら誰か梅田まで行って発券して伊丹まで持ち帰ったらどうだ。こっちはそれまで待つと、ここまで譲ったができませんの一点張り。それはおかしいだろ、そう思わんか? 確かにおっしゃる通りですが、そのような指示もない。ともかく明日お渡しするか、ご自分で(ということは伊丹-梅田、梅田-塚口は自弁で)お買いに行って頂かない限り、本日から有効の伊丹からの定期券は入手できません。

これには少し解説がいる。阪急は千里線に少し遅れて、伊丹駅にも自動改札機を導入したと同時に手改札を止めたのだが、それに対応する定期券発券装置の設備がなかったのに、強引に上記のようなシステムにしてしまったのである。

阪急自動定期第一号 続きを読む

同じく倉吉線

どですかでん氏の倉吉線がアップされた。確か須磨老人も倉吉線には1963年8月に行っている。しばらく土日なしの残業続きで、いい顔をしない係長に、ここ1か月以上休んでいないと捨てゼリフ?を残し、強引に旅立った記憶がある。ネガカバーの日付では姫新線、芸備線、木次線倉吉線、若桜線と撮影を続け、8月11~15日休んだことが分かる。

木次線、若桜線はずっと以前にアップした記憶があるが、今回のどですかでん氏に触発され、倉吉線のみご笑覧頂くことにする。この線の終点山守は無人駅で、DCしか行かなかったはず。車掌が手を伸ばしているのは、車内の忘れものを女学生に教えているのである。関金まではキハ07(トルコン装備で総括制禦)とキハ20の併結で、勿論07の扉は手動だが、20の扉操作のため、キハ20に乗務していた。

倉吉線C11逆行混合列車1963.8.14a
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お引き取り頂ける方はいらっしゃいませんか

湯口も相応の年齢に達し、余命を片手で数えることになり、身辺の整理が必要になりました。ついては本の整理から始めますが、手始めに次のものをお引き取り下さいませんでしょうか。勿論無償ですが、年金生活=かなり生活困窮中ですので「宅急便着払い」でお願いしたいのです。

ネコ社2004~2007年刊、寺田祐一著『消えた轍1~4』1=北海道、2=東北・関東、3=甲信越・東海・北陸、4=近畿・中国・四国・九州

同2010~2011年刊、寺田祐一著『新・消えた轍1~10』1=北海道、2=北海道・北東北、3=東北、4=関東、5=上信越、6=中部、7=北陸、8=近畿、9=中国、10=九州・四国

以上14冊ひとまとめでお願いしたいのですが。

もう1件は交通公社時刻表で、A4版になった最初の1967年から1978年までの各10月号。この12冊もひとまとめでお引き取り下さる方はいらっしゃいませんか。やはり「着払い」でお願いします。

南満州鉄道京城管理局ジハ

南満州鉄道京城管理局サイズ小
関センセ記事紹介への米手作市氏リードにあった、ン10年前ボックスでの記憶=朝鮮ジハとは、南満州鉄道京城管理局の蒸気動車1~4である。機関部がB型とお書きだが、1Aのシングルドライバーで、ピギーバック式に客車部を背負っており、運転整備全重量50噸とは、流石に標準軌間である。機関部は大阪の汽車会社本店、客車部は現地京城工場製とされる。汽車会社の蒸気動車というと工藤式と思い込まれ勝ちだが、これは1923年7月製――工藤式の発明者工藤兵治郎が汽車会社退社後であり、彼の特許は何一つ使われていない。ただ使い勝手が良くなかったか(方向転換に15メートルの転車台必要)、欠陥車輌だったかで、2両の機関部は単独で入換機?21、22に改造されてしまい、シングルドライバーのタンク機関車として「シグ」なる記号が付され、その重量運整28.5噸というから、日本での小型機顔負けである。
南満州鉄道京城管理局ジハ形式図

京都市電河原町今出川―洛北高校前

京都市電建設中葵橋付近1956サイズ小建設中の京都市電葵橋付近a1956サイズ小

申し分のない後期高齢者に成り果てた老人は、限りなく薄れゆく記憶の中に、時折ふと無差別に、かつ前後の命脈なく蘇るものがある。この写真もそれで、京都市電が戦後も新線を建設・開業したうちの最後から二番目。河原町線が河原町今出川から北へ向かって洛北高校前まで延伸されたのが1956年10月12日。ネガカバーに日付はないが、建設中だからその年の夏頃だろうか。廃止は1977年10月1日で、僅か11年の命だったことになる。翌年4月3日今出川線が千本今出川から白梅町まで開業したのが、京都市電最後の延長だった、と記憶する。

 

三信鉄道デ301

乙訓老人が大井川での旧三信鉄道省電の成れの果て写真をアップされた。2扉になり、いわゆる偽スチール化されているが、元は省電モハ1である。偶々だが手元に木製3扉時代の竣功図があるので、諸賢のご高覧に供するものである。デ306~308の3両があって、1両は買収前に事故廃車、2両は買収から漏れて大井川に再起した。佐竹先輩の『私鉄買収国電』に同じ竣功図が掲載されている。三信鉄道デ301

明延鉱山日車図明延鉱山用客車 車体幅914mm、全高1,450mmという超小型で室内高も1,250mm

ぶんしゅう氏のブダベスト地下鉄1号線は、1896(明治29)年開業と猛烈に古いだけに、隧道断面が著しく狭く、シールド工法によるロンドンと違ってオープンカットであり、かつ地表からも常識を超える程浅く、断面が四角い。古い車両は恐らくは電動機寸法に制限されて車輪径をあまり小さくできず、あたかも大物貨車シキのごとき台枠と常識的な台車にせざるを得なかったことが分かる。

それが現在の車両では、電動機の回転数が上って体積を小さくでき、運転席や連節面の床もかなり下げられてはいるが、それでも連結面には貫通路が設けられず、横向き座席で床面高をカバーしているのが写真に見える。

このような著しく狭い隧道断面に対応した車両は、我国にも鉱山用にあった。一例に明延鉱山の客車図(偉いさんや来客用か)を入れておくが、電気機関車牽引だから車輪径を250mmと小さくでき、床面高は180mmだが、それでもその位置の床が高くなるから座席にしているわけで、要は同じ発想である。図面には昭和10.6.9の日付がある。鉱山隧道では電車でなく電機牽引とするのはそのためでもある。

コンヤの電車

あと10数月で傘寿がやってくるが、目出度いこと何ぞかけらも、なぁんにもない。ただ身辺整理を周りから責め立てられている。整理をしたって万が一にもへそくりや金の延べ棒が発掘されるはずもないのに。ふと見たネガの中に、綺麗に忘れていたトルコはコンヤの路面電車があった。トルコならイスタンブールの旧市街古典2軸電車が有名で、ぶんしゅう氏もアップしていた観光資源である。これは珍しくも何ともない、ごく当たり前でどこにでもある路面電車で、ただ従来あんまり出てこない(はず)というだけ。現像がイエローカメラなる、今はない安いのが取り柄のラボチェーンだったから、20年間での退色も激しい。まあ辛抱してご笑覧あれ。コンクリートの錘での架線緊張装置が右に見える。撮影は1995年9月17日、下は同行我が家の実力者(ヨメ様)による。

トルココンヤ1995.9.17小サイズ トルコのコンヤ1995.9サイズ小

 

代用急電

湘南代急クハ68078京都1954.9.27サイズ小

関センセの「代用食時代の急電」を見て、確かこの老人も撮って居る筈と、限りなくかすれ果てた記憶を絞り出して探すと、あった。1954年9月27日撮影京都とあるから、老人が高校3年の時である。この時代食料不足は解決しており、学校でも2玉うどんが15円だったか。国鉄初乗り10円、市電も8円だったか10円だったか、今なら300円か350円に相当し、けして安くはないことになる。

本当に食い物が乏しかったのは1946、47年だった。センセお書きの通り、米糠やフスマの方が多い「パンにやや近い代物」でもあればいい方。インフレの最中で、ズンドコ節で半世紀ぶりに思い出したが、「米は遅配で物価は高い/たまの日曜に買い出し行けば/駅に着いたらポリスが待ってて/お手々つないでブタ箱へ/トコズンドコズンドコ」というのもあった。京都では米の代わりにタケノコ(というより「やや軟い竹」に近かった=我々はパンダではない)やお茶まで配給されたが、「茶腹も一時」との洒落だったのか。老人が高校生になり背丈がやや伸びたのは、幼少のみぎり食い物がなく、致し方なくタケノコや土筆を食せざるを得なかったかららしい。

その後小学校で給食が始まったが、最初は米軍放出の果物ジュースや、脱脂粉乳だった。ジュースは今思えばホテル用クラスの高級品で、余り甘くない上、名前さえ知らないグレープフルーツがあって、ジュースといえば甘いものと思い込んでいる敗戦国の憐れな小学生からは、苦いという苦情すらあった。ララ物資での脱脂粉乳も実態は家畜のエサ用だった由で、これは当時でもうまくはなかった。旧日本陸軍の退蔵牛缶は味が濃く流石に美味かったが、余程古いとみえ、こんな食糧事情の悪い時ですらジンマシンが出る児童も少なくなかった。海草がたっぷり入ったパン(のごときもの)も、腹を空かしきっていた当時でもうまいもんじゃなかった。

甘味といえばサッカリンかズルチンと称す、人工甘味材しかなかった折、キューバ糖が配給になり、国中が沸いたことがある。これも砂糖とは言え実態は工業用の低質糖で真茶色、しかも貨物船にバルク―砂利並に船倉に直積されていたのである。そんなことは知らぬ敗戦国民は国中挙げて大喜びし、NHK(しかなかった)では「甘い砂糖はキュッバー キュッバー キュッバー」なる歌を放送した。カルメ焼きが大流行したが、我が家ではついにふくらましに成功しなかった。

 

阪急710系

阪急764桂1954年サイズ小

これは1954年の確か5月の撮影=高校3年の時だったと思う。場所は桂であろう。実を言えば、小生は1960年12月の押し迫った頃山科から塚口に引越し、それから2000年まで 京都と神戸に阪急で通学、通勤したのに、なぜか阪急は1954年のこの1枚しか撮っていないのと同然である。この頃から電車、それも高速電車にはソッポを向いていたのか。性格は至って円満なのに、である。

京阪1708+1758/1709+1759

サイズ小

これは1953年4月26日、淀鉄橋での撮影だから、61年半前―老人がまだ高校生だった時である。京阪1700系の増備1708+1758、1709+1759は妻面のみ7-8、7-58、7-9、7-59との省略レタリング?でデビューしたのであった。その斬新さはファンの中でもちょっとした話題になったが、なぜかそう長くは続かず、通常通り1708、1758、1709、1759と書き直されたから、これの写真を撮った人はそう多くはない筈である。詳しくは乙訓ご老人の出番というより、黙っては居れまいが。

なおついでに付記すれば、この4輌の端面連結器が、恐らく我国最初の「日鋼式軽量密着自動連結器」であった―キハ45000系より少しだけだが早かったと記憶するのだが。

涙の花巻電鉄どせすかでん様へ

どですかでんさま。残念でしたね。1968年3月18日撮影の鉄道線サハ4の車体写真をご覧に供します。台車、聯結器、ブレーキを新製サハに分捕られた残骸です。

花巻鉄道線サハ4車体1960.3.18縮小

実は行ったとき既に廃止済だったという経験は小生にもありまして、かつてデジ青にも掲載しましたが鞆鉄道がそうでした。高校修学旅行(1954年3月11日)時急行「筑紫」で山陽線を西下、福山でデッキから必死で車両を探し求めたら、ボワ6がポツンと1両だけ。実は2月末日で運行を停止し、3月1日廃止していたのでした。その後5月29日にバスで鞆まで行き、動力車はキハ1を除く全部が鞆に集結、客車は全部三ノ丸に集結し、子供の格好な遊び場になってはいましたが、残存はしていました。さらに1950年気動車3両は静岡鉄道駿遠線に売却され、その3月藤枝新で旧キハ3であるキハD11の再起下姿に再見したのですが。

また1957年はるばる訪ねた十勝鉄道でしたが、川西以南=大方が廃止されたのは、小生が訪ねた8月20日のたった2日前に廃止されていたのです。その分車両が工場前に集結していたのは有難かったのですが、悔しかったですねぇ。っですかでんさんのお気持ち、よーく分かります。

遠州鉄道二俣線

関センセの遠州鉄道二俣線木製モハ1型が出た。この線に関しては乙訓ご老人が、古くは1960年の急電101号に「遠州鉄道二俣線」、その38年後の1998年には「ちょっと電車を見に行こう―元気印の遠鉄二俣電車線」として、鉄道ピクトリアル657号に書いて御座るから、須磨老人の出る幕などない。しかしそれでも1958年に何枚か撮っていることを想い出し、5コマだけ諸賢のご笑覧に供することにする。撮影はいずれも1958年8月3日。

関センセもお書きの通り、この線は大日本軌道浜松支社、軌間2呎6吋の蒸気軌道であった。1919年遠州軌道に譲渡後、遠州電気鉄道として1923年4月1日3呎6吋に改軌・電化されたが、その日で一旦軌道を廃止し、同日地方鉄道として開業という手続きを踏んでいる。1943年遠州鉄道に。

浜松鉄道(戦後合併し遠州鉄道奥山線)とは板屋町で接続し、極度に狭い市街のため国鉄浜松駅には達し得ず、かなり手前の遠州浜松を始点としていた。遠州馬込まで0.7kmを1924年2月1日延長し、2呎6吋、軌道のままの仲ノ町線と接続した。しかし浜松駅とはかなり離れているため、遠州馬込-旭町(浜松駅前だが国鉄駅とは接続なし)間を3呎6吋に改軌しなお馬込は国鉄浜松駅のヤード東端北側で、貨物受け渡しはここでやっていた。

旭町の本格ターミナル化は1927年9月で、晴れて電車が浜松駅前発着になったが、それも一旦東進して馬込でスイッチバックし、改めて西北に向かい、遠州浜松から北東にという運行は戦後も長らく続いた。この区間は30分毎だが、仲ノ町線の単端式ガソリンカーが実に15分ヘッドのため、電車の合間にその0.7kmのみ、日車製双頭スタイル(両方にボンネットを突き出してはいるが機関は1個、当然逆転機あり)30人乗りガソリンカーレカ1が終日ピストン往復していたのである。旭町の新浜松への改称は1953年8月1日で、その後周知のように新浜松は高架化され、馬込での折返しもショートカットで消滅している。

遠州鉄道モハ2旭町1958.8.3サイズ小

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警告!ネオパンシンドロームはどっこい続く

かまいたち
1950年代のネオパンフイルムのベースが、化学分解し抽出した酢酸が強烈な臭気を発し、次いでフイルムにカビの如き不気味なものが発生し、フイルムベースが縮むだけでなく、他のフイルムにまで伝染し、結局は使い物にならなくなる―猛威を振るったネオパンシンドロームは、1960年の製品までと思われてきた。小生も学生時代の一番脂が乗りきっていた時期の35mmフイルムが100本以上やられてしまい、再起不能である。

ところが、1961年のフイルムもやられ出したことに昨今気付いた。早目に処理すれば表面に発生した「鎌鼬=かまいたち=小生が名付けた現象」をフイルムクリーナーで力任せにこそぎ落とし、デジタル修正で何とかレスキューも可能だが、ある時点を過ぎると見るも無残=救出不能になる。掲載は1961年2月撮影の福島電気鉄道軌道線である。

今回気付いたのは、1960年以前のやられ方と少し違い、フイルムベースがペラペラに薄くなっていること。化学専門の鶴兄によれば、一旦この現象が現れると、元には絶対戻らない由。

諸兄!1961年以降のネオパンを、至急点検し、早めにデジタル化されることをお勧めする。他に対策はない。それにしても日本を代表する大企業の富士フイルムは、一体どこまで「知らぬ顔の半兵衛」を決め込むのか。企業モラルの欠如はJR北海道や諸々の(一流)外食産業だけではない!

下津井電鉄モハ50

これは須磨老人が優先するはずと勝手に決め込み、以下投稿に及ぶ。山陽鉄道による宇野線と宇高航路新設で、岡山一帯と四国琴平さんを結ぶ要路下津井と、途中の味野(児島)の比重に衰えを感じた地元有志が建設した。宇野線茶屋町が起点だが、倉敷との関係も昔から深く、この間の鉄道建設も何度か意図されたが実現せず、長らく国鉄バスが運行。現在では下津井電鉄バスが茶屋町-倉敷、児島-倉敷を運行し、後者は文字通り頻発である。

下津井鉄道は191928年以降ガソリンカーを投入し、当初日車21人、30人乗りの単端式車から、1931年以降60人、68人と大型化し、1934~37年にかけ6両の78人乗り大型車を加藤車輌製作所で新製。これは戦前軽便用としては最大で、これをしのぐ車輌は敗戦後の仙北鉄道キハ2406(92人)のみ。機関はウォーケシャ6MK、延べ14輌も戦前軽便では日本一である。

下津井鉄道カハ51下津井西尾克三郎撮影
下津井鉄道カハ51 下津井 西尾克三郎撮影 鮮魚台奥行きが700mmと狭いが

カハ53以降は855mmに拡大

戦時中は当然代燃で、この鉄道は途中2か所の峠があり、25‰勾配が延々と続くから、苦労は他鉄道より大きく、敗戦後電化したのも当然であった。淡路鉄道や栃尾鉄道とは違い、ガソリンカーの台車に釣掛式で30馬力×4個モーターとした。台車は鋳鋼製で、旧動台車は650+1,000mmの偏心台車だったが、そのまま使ったのである。改造は東洋電機だが、実際の作業は電機車輌株式会社なるところが手掛けたようで、出張工事だったかもしれない。

その後ナニワ工機で台車を新製して偏心がなくなり、前後荷台分車体を延長した車輌もある。

電化による蒸機全廃で、当初中古電機1輌の入手も予定したが、結局は貨車も電車が牽引た。この鉄道は客貨車の連結器は昔ながらの螺旋連環式、気動車はピンリンクから日車の簡易連結器に改めたため、大型のカハ50→モハ50型には、両方の連結器を装着し、精悍さが増した。1950年代では木製ボギー客車が健在で、ラッシュにはMTTTT編成もあった。その後の経緯は諸賢よくご存じだから省略する。

ところでこの鉄道は1925年1月22日、「起業目論見書並ニ工事設計概定書中一部変更」を願い出た。資本金50万円を60万円に増資、軌間1067mmへの拡幅と電化だけなら驚かないが、茶屋町-岡山間、すなわち宇野線の一部も「自前で」600V電化し、岡山-下津井間に電車を走らそうというものだったから、鉄道省は大騒ぎに。

運輸局、工務局は「将来運輸上ニ支障ヲ及ボスコト大ナルベキヲ以テ本件ハ承認ナサザルコトト致度」。電気局は「省(=鉄道省)ニ於テ岡山宇野間ヲ電化シ茶屋町岡山間ニ会社(=下津井)車輌ヲ乗入レシムル方技術上便利ト認ムルモ差当リ国鉄ヲ電化スルノ計画ナシ」と、潰してしまった。

結局は1926年4月20日「当線乗入運転方承認不可ノ場合ハ弊社ノ軌道改良工事ハ到底遂行出来難キ状態ニ御座候間可然(しかるべく)御処理相成度候」と取り下げ。どこまで本気だったか分からないが、その後の下津井自体の歴史にも記録がなく、ファンも一切書いていないのはどうしたことか。

備南電気鉄道→玉野市交通局

備南電鉄モハ103宇野1952.12.24大橋一央 関センセ紹介の、宇野から発する備南電気鉄道は、玉の三井造船所に至る専用鉄道として建設されたが、途中で敗戦、放置されていたものを、1953年動力電気で開業した。電車は日立1951年製モハ101~103の3輌ポッキリ。これは元来山形から上ノ山温泉に至る12.642kmの蔵王高速度電鉄(1948年5月7日免許、1949年7月2日工事施工認可。他に半郷-高湯間13.200kmの免許線あり)が発注した車輌と思われるが、1960年11月15日許可で起業廃止している。

この3輌の電車は1952年末にはパンタもない姿で宇野に放置されていた。この「出物」のお蔭で、備南が開業に至ったと思われる。宇野-三井造船所前3.5kmが1953年4月5日、玉まで0.2kmの延長が1955年9月10日。途中離合設備もなく、進水式などでの突発的乗客増では3輌連結し、プラットホームが1輌分しかないので3回に分け乗客扱いをしたとか。のち野上電鉄クハ102(←デハ102←デハ7)がクハ201として加わっている。

備南電気鉄道モハ102宇野1960.2.18
備南電気鉄道モハ102 1960年2月13日宇野 湯口 徹撮影 ネオパンシンドロームで見る気もしない悲惨なネガを何とかここまで回復

しかし赤字が積み重なって行き詰まり、1956年3月24日玉野市が譲り受け、1960年8月3日には玉からさらに遊園地前まで1.0km延長。この区間は市街地のため用地がなく、街の中央を流れる浅い白砂川の中にコンクリートの工作物を造り、その上にレールを敷いた。橋梁とは河川を横断するものだが、これは川の流れに沿って縦断する、世にも不思議な構造物である。なお宇野-玉野高校前間にはトンネルがあり、無人の離合設備も設けられ、2個列車走行が可能になった。

玉野市交通局キハ101-1965.4.11
白砂川(名前が泣く汚いドブ川)の中を縦に走るキハ101 1965年4月11日湯口 徹撮影  橋の数だけ踏切が出現 架線はまだ外してない

河川所管の建設省は、その断面を減ずることには無茶苦茶神経質で、かような工作物は原則許されないはずだが、なぜか罷り通ったのは、地元選出大物議員=建設族の、星島二郎の横車かと思われる。

それがまた経営不振で赤字を積み重ね、1964年10月8日動力変更認可、11月17日以降電車をやめ中古ディーゼルカー4輌に代替した。キハ101~104の前身は三岐鉄道キハ81(←国鉄キハ41097)、熊延鉄道ヂハ101、102(新製)、103(←島原鉄道キハニ104)である。

しかし経営改善には至らず、1972年4月1日廃止。両備バスに代替した。なお備南電気鉄道は水島までの免許も取得していたが、もちろん実現していない。白砂川の工作物は、廃止直後にはバラスが残り、自動車が置かれたりしていたが、今はどうなっていることか。

相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

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天野克正君死去

1977.61977.11974.11

天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。

彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。

写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。

家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。

タバコのばら売り

ぶんしゅう氏はタイでのタバコばら売りに驚いておられましたが、我等が母校同支社大生協では半世紀前(老人は1957年入学)ばら売りをしていました。普段は「いこい」(20本40円)でしたが、その日の気分で、「ピース」(フイルターつきなんぞなく両切り、10本40円)や、一番高い「富士」(10本50円だったか)なんぞを、1本とか2本とかを買いました。ところが専売公社にバレ、止めないと煙草販売資格を取り消すと脅かされ、中止になりました。神戸に就職し、自由労働者が仕事を求めて集まる場所では、やはり煙草ばら売りが行われており、懐かしく?想い出したことでした。

相模鉄道キハ1001~1004

我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。


相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着

製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。


キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える

車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。

塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。

キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意

平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。

乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。


キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し

ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。

相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。

現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。


日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる

サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。


日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン

日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影