我国電気式内燃動車は、国鉄に米国ガス・エレキトリック車のイミテーション・キハニ36450形式、ディーゼル・エレキトリックのキハ43000系、敗戦後のキハ44000、44100系、私鉄ではこの相模鉄道キハ1001~1004しかない。電気式は機械式に比し相当に高価が常識だが、相模の重役に電気の専門家がおり、電磁弁による総括制御を狙ったのであった。価格は随分調べたが資料が得られない。
相模鉄道キハ1001汽車会社竣功写真 台車は端梁つき菱枠 コロ軸受 日車新案特許の簡易連結器を装着
製造は汽車会社東京支店1935年10月、電機部分は東洋電機。機関は対向ピストン4気筒(8ピストン)のユンカー5-4TV82馬力/1,500、発電機は定格連続70kW300V(最大600V)205A、電動機は300V54kW×2、制御方式は自動ワードレオナード式で出力を一定に保つ。65km/h以下では発電ブレーキを常用し、冬期は抵抗器消費で発生する熱を車内に送って暖房にする=制動状態以外での暖房は利かない。停車直前には空気制動になるが、通常のシュー式ではなくバンドブレーキである。力行速度は平坦線65km/h、12.5‰勾配で45km/h、燃料消費は1km当り0.5立とある。
キハ1001茅ヶ崎 1939年黒岩保美撮影 2眼レフの見上げ撮影のため 上すぼまりの車体が余計すぼまって見える
車体はご覧のように日本離れし強いて言えば欧州風だろうが、関センセがおっしゃるハシゴ形とは、脚立形と云う意味だろう。梯形車体と称されることも多いが、妻台枠部分は垂直で、腰と窓部分にも角度があり、屋根両端を辺と看做せば、10角形という、実に不思議な代物である。内燃動車に限ったとしても、汽車会社のデザイン能力=センスは日車本店に劣ること数等である。
塗色は腰が海老茶色、上半分が黄色で、鉄道趣味誌の紹介記事は「東海道線の乗客にして茅ヶ崎を通る時、必ず誰かは気が付かずにはゐないであろう。事程左様に美しい車両なのである」「兎に角この車が、日本一の高原鉄道小海線にでも運転されるとして、八ヶ岳の麓を走ったら一幅の絵となるであらうと思う」とベタほめ。「只惜しむらくは平面に於ても流線型にしたかった」ともある。
キハ1001~1004形式図 鉄道趣味30号より 右端座席に注意
平面図で分るとおり、左側妻部座席はあたかも90度捻ったクロスシートで、窓際に座った人は、窓が開いていれば普通に座ったままで窓の外に首が出せると揶揄され、窓が閉まっていれば、絶えず首を内側に曲げ続けを強要される。敗戦後日立電鉄での車内写真をご覧あれ。図左側妻部運転席以外は手荷物室である。妻面は3枚窓だが、等幅ではなく運転席窓が900mm、他の2枚が650mmと狭いのも変わっている。
乗務員/手荷物扉は片側に集中し、それも引戸だから、扉の妻側上部は斜めになっている。反対側運転席サイド妻寄り窓はタブレット授受のため、下段の前寄りが細長い台形引戸になっている。その反対側客席側窓は嵌め殺しだが、暑いとの苦情があったとみえ、後年の写真では運転席と同様に改造されている。
キハ1004 社家 1939年11月20日 荻原二郎撮影 運転席の小さな台形窓に注意 風入れとタブレット授受用 妻運転席と中央窓は嵌め殺し
ところで導入時3両重連の不鮮明な写真が社史にあるが、結局総括制御は成功せず、高価な電気式にした効果はなかった。1938年5月サハ1101が同型(手荷物室なし)で新製されたが、総括制御が可能なら、当然キサハになっていたはずである。
相模鉄道は1943年4月1日厚木で接続する神中鉄道を吸収合併したが、本来の相模鉄道部分が1944年6月1日買収され、相模線となる。残った旧神中鉄道部分が相模鉄道を名乗ったまま現在に到っているのである。キハ1001~1004はこの旧神中鉄道に移り、1944年6月18日設計変更認可で電車化。機関と発電機を撤去し、パンタをつけさえすれば直ちに電車になったのだが、モーターは300V用のはずだから、永久直列にしたのか、600V用に交換あるいは巻き換えたのか。どなたかお教えくだされ。
現実に認可時点では1001、1002が竣功済、1003、1004は敗戦後になり、番号そのままで記号のみキハからモハに変更された。その後日立電鉄に移りモハ13~16になっていたのは周知の通り。ここでは1両ごとに細部が異なり、両側に乗務員扉が設けられたものもある。
日立電鉄モハ13 湯口 徹撮影 乗務員扉がなかった側にも律儀に同一仕様で設けられ 妻面中央窓も開けられる
サハ1101は買収で運輸通信省コハ2370になったことになっており、1951年3月廃車が記録されているが、これは書類上だけで、現実に現車は相模鉄道に残存=国鉄には引き渡されていなかった(取り込み横領?)。かような事例は敗戦前後のドサクサに少なからずあって、強盗慶太辣腕の一端かもしれない。1955年両妻を平妻に改造しサハ2801に、1959年10月日立入りしてサハ2801になって、モハもサハ同様平妻化されて、一族5両はかなり長命した。
日立電鉄サハ2801 湯口 徹撮影 両端をフラットに改造 軸受はプレーン
日立電鉄モハ15旧手荷物室部分 手荷物扉は埋め殺されている 湯口 徹撮影