申し分のない後期高齢者に成り果てた老人は、限りなく薄れゆく記憶の中に、時折ふと無差別に、かつ前後の命脈なく蘇るものがある。この写真もそれで、京都市電が戦後も新線を建設・開業したうちの最後から二番目。河原町線が河原町今出川から北へ向かって洛北高校前まで延伸されたのが1956年10月12日。ネガカバーに日付はないが、建設中だからその年の夏頃だろうか。廃止は1977年10月1日で、僅か11年の命だったことになる。翌年4月3日今出川線が千本今出川から白梅町まで開業したのが、京都市電最後の延長だった、と記憶する。
この河原町延長線の寿命は、西村氏ご指摘の通り21年でした。老人のモーロクは顕著です。お恥ずかしい。
老人にとっては故郷の懐かしい光景である。撮影年月は1956年初夏か前年秋口ではないかと思われる。この時期洛北高校新聞部スポーツ面担当としてカメラ片手にうろついていた。ところがフィルムは学校新聞部ボックスにおいて卒業したので、ほんの一部が残っているが、下鴨通りのものはピン呆けの5,6枚が残っているのみであり、今回の写真は元地元の人間としては貴重なものである。上段は糺の森交差点下がるで、右側に学友宅の炭屋?の看板が見える。下段は家庭裁判所前である。敷地は三井家の別邸であったようで、終戦後荒れた屋敷内で何度かかくれんぼしたことがある。市電の敷地は戦争中、葵橋以北は既に境界石が一部を除き敷き詰められており、御影橋通り以北は畠となり食料増産に利用されていた。主力は薩摩芋で、上段の写真の南方ほうでは、そば粉を作るのだと言って苗を育てていたが、水遣りに絶えず鴨川、高野川からの水汲みに追われ、同級生達が動員され、ぼやいていたことを思い出しました。
市電は知る予定地がバス通りになったのは1949年だったと思う
お詫び1件、先のコメント、おしまいの行で市電は「知」る予定地としたが、正確には「走」る予定地が正しい。本年5月20日、27日に白内障の手術を、3年前には右眼底腫瘍手術をして「コメント」に備えたつもりだが、次は何をしたら良いのか、ご存知の方、ご教授いただきたい。今のところ視力は裸眼で右1.5、左0.9を維持しておると眼科医の判定を得ているが・・・・・・