秋の恒例行事ホームカミングデーでキャンパスを訪れ、旧交を温め、鉄分を補給するのが慣例になっています。そして、せっかく京都まで出向くわけですから、その往き帰りにどこかに寄り道するのも楽しみの一つです。今年は、遠回りを避けて山陽本線の閑散区間 相生・岡山間の途中下車を繰り返しながら帰路につきました。相生までは、赤穂線に入る電車もあり本数が多いのですが、相生以西は1時間ヘッドです。まずは相生の手前 網干で途中下車です。
①北沢産業網干専用線のDB2に再会
かつて網干から揖保川河口の浜田まで約6Kmの北沢商店網干専用線という貨物専用鉄道がありました。元をたどれば 昭和19年に開通した東芝車両の専用線です。瀬戸内海沿いの工業地帯化によっていくつかの工場への貨物輸送を行っていましたが、国鉄の小口貨物輸送の縮小に伴い、昭和59年に休止されました。当初は小型蒸気機関車が働いていましたが、昭和31年にDB1が、昭和36年にはDB2が入線し無煙化されました。
平成9年7月にクルマで廃線跡探訪をしたことがあります。その際に 網干駅南側に保管されていたDB2を撮っています。
運行休止から14年後の平成9年当時でも、廃線跡はかなりの区間が手付かずで残っていました。
DB2とは27年ぶりの再会でした。DB2は全国どこでも見られたニチユ製の10Ton貨車移動機です。正式なメーカー型式はDL10-MC-1067、製番876001で銘板もしっかり残っています。
この専用線は晩年は北沢産業網干専用鉄道というれっきとした地方鉄道でした。かつては工員輸送の客車もあったようですが、貨物輸送専業でした。そんな地方鉄道の本線を入換え用の貨車移動機が多くの貨車を従えて堂々と走行する姿は全国でも珍しかったようです。今回は、次の電車まで充分時間があったので、いろんな角度から記録に残しました。
DB2のうしろにカーテンの閉まった事務所の扉が見えますが、その脇に次のような看板がかかっていました。
Googleマップで近年撮影の廃線跡を辿ると、揖保川橋梁跡南側の築堤には今でもレールが残っているようですが、その先は住宅地に変わっているようです。廃線跡は北沢産業の私有地なので、平坦部は住宅地などに転売しながら会社は存続し、築堤部を平坦にするには費用もかかるので、そのまま残されているのではと推察します。
DB2は平成9年当時は黄色い車体でしたが、今はオレンジ色のように塗り直され、雨ざらしとは言えそれなりに手入れされているように見えました。多分会社のシンボルとしてスクラップ化せずに残されているのだと感じました。
実はもう1両のDB1も高砂市中島のM小児科駐車場に大切に保管されています。DB1は昭和31年帝国車輛製の貨車移動機で、DB2とともに現存しているのは奇跡に近いように思います。まだDB1には会えていませんが、是非会いに行きたいと思っています。
②三石の煉瓦拱渠(こうきょ)群
あるいはDB2は姿を消しているのではと心配して下車した網干で、元気なDB2に再会できて 気を良くして次の目的地三石に向かいました。相生で約30分待って 相生折り返しの岡山行き1313Mに乗り込みました。久しぶりの111系のクハ111の先頭に陣取り、船坂峠越えを楽しむつもりでした。ところが、運転台うしろのカーテンを全部降ろされてしまって前が全然見えなくされてガッカリ。若い運転士と目が遭いましたが、わざと意地悪されたような印象を受けました(思い過ごしか?)。
上郡・三石間は12.8Kmあり、兵庫・岡山県境 即ち播磨・備前の国境いで旧山陽道の船坂峠越えの難所でした。神戸から西進してきた山陽鉄道は、トンネルでこの船坂峠を越えようとしましたが、1138mのトンネル工事は明治22年当時は大工事で、東西の入口からと、途中に3ヶ所の縦坑を掘って、計5ヶ所から掘り進むという 当時としては画期的な工法で工期短縮を図ったそうです。トンネル貫通は明治23年6月30日ですが、貫通前にはトンネル東口に三石仮駅が設けられて、東から来た乗客は徒歩で峠を越えて、すでに同年3月18日に開業していた三石・岡山間の列車に乗り継いだようです。
三石駅は高い築堤の上に建設されました。駅本屋も道路(旧山陽道)から石段を登った先にあります。
駅前には旧山陽道の一里塚跡を示す石柱が立っていました。
三石・吉永間には山陽鉄道が建設した煉瓦造りのアーチ橋が6ヶ所も現役で残っており、土木学会の選奨土木遺産「三石の煉瓦拱渠群」として登録されています。今回は次の電車までの1時間の間に、重い荷物を下げて6ヶ所訪問は無理なので駅に近い2ケ所だけを見学しました。まずは駅構内を横切る「小屋谷川橋梁」です。
自転車なら辛うじて押して通れる程度の人道と小川を吞み込んで石積みとレンガで作られたトンネルです。130年以上も前に造られたとは思えないほどの見事な煉瓦アーチは狂いひとつなく、美しい姿を留めていました。
奥へ進むほどに少し上り勾配になっています。ふり返ってアーチ部を見るとトンネルは勾配に合わせて何段かに分けて積まれていることが判りました。
南口側には土木学会が設置されたプレートがありました。
南口をよく見ると、全面がレンガ積みです。一方の北口はアーチ部だけがレンガで石積みと併用です。明治24年に単線で開通したあと、明治39年に国有化され、明治44年にこの区間が複線化されています。
トンネルが南口側で曲がっているのは、複線化工事の際に南側に築堤が増築され、それに合わせて、レンガだけでトンネルが延長されたためだと思われます。もう1ヶ所の金剛川橋梁へも行かねばならないので急いで駅前まで戻り、旧山陽道を西へ向かって急ぎました。
三石はレンガ工場、特に耐火煉瓦工場の多い町です。駅近くに三石耐火煉瓦会社があります。耐火煉瓦は製鉄所の溶鉱炉など高熱設備で不可欠の資材です。
昭和31年公開の松竹映画、小津安二郎監督作品「早春」で登場するのがこの工場で、東京から転勤してきた主人公が窓から駅方向を見た時、D52の牽く貨物列車が通過してゆくシーンがあったように思います。
金剛川橋梁は4連のアーチ橋です。川と道路を跨いでいます。
南側の視界を遮っているのは国道2号線の橋梁と、小さな道路橋です。やはり土木学会のプレートがありました。
複線化工事の痕跡がはっきりと残っていました。
先の小屋谷川橋梁と同じく南側に拡幅されたことがよくわかります。延長部分は色の濃い焼き過ぎレンガのようです。ただ、元のトンネルの下部に4本とアーチ部にも色の濃い焼き過ぎレンガが使われていて、単調になりがちなレンガ面にアクセントをつける憎いデザインでした。あまり時間も無いので急いで三石駅に戻ることにしました。ここから更に岡山方面に足をのばせば、あと4ヶ所の土木遺産を見られたのですが、又の機会に楽しみを残しておくことにしました。
下り電車の到着を待つ間、駅構内を観察しましたが、上り線側の長い貨物ホーム跡は駐車場になっていました。上り線側に1本、下り線側に1本と電留線らしき留置線がありました。帰宅後調べてみると、上りの最終2本が三石止まり、即ち23:13着三原発728Mと23:43着岡山発730Mが三石で駐泊するようです。翌朝、5:28発701M糸崎駅行きが三石始発で、ホームの時刻表によると当たり前に下りホームからの発車になっていましたが、6:28始発703M福山行きだけは唯一上りホーム側からの発車となっていました。上り線側の電留線で一晩を明かした列車が、引き上げたあと 上りホーム側から逆出発するようです。そのためでしょうか、上り線側の変な位置に、下り向きの入換え信号機がありました。
もうひとつ不思議なものを見つけました。下り線側の電留線脇に建つ扇風機です。
どう見てもこの扇風機は架線に風を送るためのようです。このタイプの扇風機は茶畑等に霜が降りないように林立している光景は見たことがありますが、線路脇に建っているのは初めて見ました。冬期、ここで一晩を明かす電車の始発時に架線が結氷しないようにする対策でしょうか。どなたかお教え下さい。次いでの疑問は、最終2列車の乗務員は三石駅で宿泊するのでしょうね。そんな設備があるようには見えませんでしたが。
岡山のピンクの227系3連に乗って和気に移動です。結構歩き回ったのでおなかも空いて、和気で昼食としました。とは言えかつては片上鉄道への乗り換えで賑わった和気ですが、今では駅近くに飲食店は少なく、自由通路を通って南側に見えるラーメン屋さんに向かうことにしました。
③和気駅の様子
和気駅に降り立ったのは昭和44年以来55年ぶりでした。片上鉄道が元気な頃です。
当時の片上鉄道の列車ダイヤを見ると、殆どの列車が和気で交換し、国鉄の上下列車との乗換えに便利なように組まれていたようです。上の写真にある片上鉄道ホームは勿論跡形もなく、かつての面影は全くありません。片上鉄道ホームには跨線橋ではなく地下通路で渡って行ったことがこの写真で判ります。
今回北側の駅出口に出て、南側に見えているラーメン屋に行こうと思って通り抜けた自由通路はどうやら、当時の片上鉄道ホームへの地下通路だったようです。通路南端の壁面にはレール断面を並べたモニュメント?がありました。
レールと言えば、今回ホームカミングデーでご報告したように、古レールにどうしても目がゆきます。和気駅の跨線橋は古レールではなく、アングルのリベット止めでしたが、ホーム上屋の一部は古レール製でした。列車待ちの方々の目を気にしながら、ひと通りロールマークを探しましたが、塗装が相当傷んでいて、読み取れるものは殆どありませんでした。
④万富駅の様子
和気駅は昼食のための途中下車と割り切って、1時間後の電車で万富に向かいました。次の熊山駅には、鉄道院時代に作られた跨線橋が瀬戸駅から移設され、階段両側には「明治四十五年 横河橋梁製作所」「鐡道院」と陽刻された鋳鉄製支柱が現存しているのですが、これだけのために途中下車して1時間を費やすのを諦め、次の万富に急ぎました。万富への途中下車の目的は、「鉄」でも「煉瓦」でもなく「瓦」です。万富駅から歩いて行ける場所に、「万富東大寺瓦窯(がよう)跡」という国史跡があります。単なる小高い丘で、特に何があるというわけではないのですが、興味があり行ってみました。
奈良時代に創建された東大寺は、1180年に源平の戦いで焼失し、鎌倉時代に再建されました。その際に、窯業が盛んで、吉井川の水運を利用できる万富の地に大規模な瓦製造所が作られ、大量の瓦がここから奈良に向けて出荷されたことが判っています。
800年前の風景を想像するだけの訪問でしたが、満足して万富駅に戻りました。跨線橋が古レールなので見て回りましたが、ここも塗装が傷んでいて殆ど読み取れませんでした。辛うじて1本だけ「MARYLAND」が読み取れましたが、跨線橋の脇にうずくまってゴソゴソしている怪しいオッサンと言うように見られたようなので、観察を止めて今回の調査を終えることにしました。
今頃は、鉄道マニアと言えば「撮り鉄」「乗り鉄」「飲み鉄」などとグループ分けしたがる風潮がありますが、クローバー会の面々はそんな「軽い」趣味者ではないと最近つくづく感じます。「マンホール」も1つのジャンルだと今回良心館で知りました。南井氏の講演も大変興味深く拝聴できました。そして帰途も含め、充実した旅を無事終了することができました。来年はどこに寄り道しようかナと考えながら。
鉄道趣味とひと口でいってもジャンルは多岐に及び、本当に奥が深いですね。普段何の気なしに見ているものでも、その道の研究者がいるようで、こんなことまで!と驚くようなサイトがあります。
先日のこと、仁丹の町名表示板を見に叡電八幡駅のそばを通ると、古レールを使った境界柵が目に留まりました。前に西村様が投稿された古レールの記事が頭にあったのか、ロールマークを探すと3本連続して並んでいました。帰宅してから調べると1928年7月に八幡製鉄所で製造された、60ポンドASCE型とわかりました。鞍馬線の開業は1928年12月ですので、初代のレールかもしれません。
他にも「CARNEG 1904」と読める画像も見つかり、日を改めて再訪しました。1メートルほどしかないレールでは、すべての情報がそろったものは見つけられませんでしたが、何本かをつなぐと「CARNEGIE 1904 ET 5本の縦棒」のようです。カーネギーのエドガートムソン工場で1904年5月に製造されたものと、ピクを読んでわかりました。さらに「二重山形」のマークも見つかって、山陽鉄道で使用されていたようです。
西村様の記事に影響を受けたようで、古レールを見ると気になって仕方がありません。
添付の画像は八幡前駅近くの踏切で見つけたカーネギーのレールです。わかりにくいのですが、上のほうに「二重山形」のマークがあります。
北沢産業網干専用線の廃線跡。2021年10月12日に訪れています。
まるで現役の線路のようですが…
俯瞰してみると枕木は疎らで、犬釘もほとんどありません。