私の好きな電気機関車たち   ⑤

EH10 重量感あふれる、これぞ貨物機

真っ黒な機関車が、これまた真っ黒な貨車を50両近く連結して、モーターの唸りを残してゆっくり眼前を通過して行く。山崎~高槻(昭和50年)

 

昭和30年代に入ると、東海道線の電化が西進し、昭和30年7月には稲沢~米原の電化が完成することになり、この区間を走る電機の選定が問題となります。当時の貨物機はEF15で、1200t牽引が定数ですが、関ヶ原付近の連続勾配は、電動機の温度上昇の懸念からD52と同じ1100tとなります。EF15重連なら1200tは可能ですが、今後予想される輸送量の増大にも対応するため、その上を行く1500tの輸送力列車を東海道線全線電化の際に運転できる機関車が求められ、8動輪を持つ、先台車のデッキなしのB-B B-Bの動輪のみ足回り、車体も2分割してED型の永久連結としたEH10が誕生しました。

まず昭和29年に、EH10 1~4の試作機が、川崎、日立、東芝、三菱で1両ずつ製作された。中央寄りのパンタが特徴だった。4両のうち、写真の2号と3号は、ほかの電機と同じ茶色に塗られていたが、すぐに黒に塗り替えられたと言う。浜松(昭和49年)

昭和30年から量産に移されて、試作機より軽量化し、パンタも両端になった。車体長が少し長くなり、運転室が広くなった。

8動軸、先台車なしの2車体構造は、スイスの貨物用にも例があり、欧米では広く2車体構造が実用化されていた。日本でも戦前に計画された弾丸列車構想のなかで、8動軸の貨物電機が構想されていた。

 

車体デザインは、鉄道友の会会長も歴任した工業デザイナーの萩原政男氏に依頼した。窓部分は凹んで二分割されている。窓を凹ませるのは72系電車と似ている。塗装は黄色の帯で、より力強い印象を与えた。これも萩原氏の発案によるものと言う。山科(昭和52年)

 

 

 

昭和32年に全機64両が揃い、東海道本線の高速貨物・重量貨物用として使われ、東海道本線全線電化後は、稲沢、吹田二区に配置されて、急行貨物列車や1200t列車を牽いた。山科(昭和52年)

その後、山陽本線にも足を伸ばし、最終的には、東京~大阪~岡山~宇野線の貨物を牽く。セノハチの勾配区間へは入線できず、岡山以西への入線は無かった。柏原~近江長岡(昭和49年)

パンタを下枠交差式のPS22Bに取り替えたものが10両あった。神足~山崎(昭和50年)

いまも私の活動の場、「佃踏切」を行く下り貨物。周囲の風景は、いまもほとんど変わっていない。神足~山崎(昭和53年)無動力回送ながらも、EH10の重連、4車体8台車は壮観だった。この時期には、鷹取~吹田では、定期のEH10重連があったと言う。山科(昭和52年)

サントリーウィスキー工場前を行く。EH10並みの出力を持つEF60がデビューし、さらに昭和40年にはEF65が登場して、天下の東海道線でも、徐々に影が薄くなってきた。(昭和50年)

ク5000を連ねた自動車専用貨物もこの時代らしい風景、そのピークは昭和47年で、日本の自動車生産240万台のうち、三分の一を国鉄が担っていたと言う。神足~山崎(昭和50年)

昭和50年代に入ると、老朽化もあり、他線区への転用が困難なことにより、急速に数を減らしていった。昭和56年4月に貨物の運用を終了し、昭和57年までに全車廃車された。阪急淡路駅から歩いて10分の公園に、EH10 64だけが保存されている。

EH10にとって忘れられないのは初のコンテナ特急「たから」の牽引だ。出来たばかりのコンテナ貨車に最後尾にテールマーク付きの専用の車掌車を連結し、汐留~梅田を85km/hで10時間55分で結んだ。貨物にマーク付きを何としても撮りたい一心で、朝早く起きて山科の築堤へ初めて行ったのは中学一年生の時だった。最後部を一枚写しただけで先頭のEH10は何も写さずに戻って来た(昭和38年)。

 私の好きな電気機関車たち   ⑤」への26件のフィードバック

    • 米手さま
      またまたの貴重写真、ありがとうございます。次位もパンタを上げていますから、回送ではなく、ホンマモノですね。撮影場所は、西大路の少し東でしょうか。

    • 米手作市さま
      いい仕事してますねぇ!EH10の重連と並ぶ当時新鋭のクハ79全金属車。へこんだ全面窓の奥目同志の比較も楽しいものです。一枚で二度楽しめます。

    • 米手作市様
      うわっ、迫力のある写真に「目が点!」です。
      ダブルで迫り来るEH10と79先頭の「高速電車」に固唾を飲みます。
      いえ、いえ、私が武庫川手前で撮ったC62(C59だったかな?)の比ではありません!(笑)

      • 河 昭一郎さん
        お久しぶりです。
        そんな、ホメていただけるものではありません。
        特派員さんが言うとおり、西大路駅の西で撮りました。今なら通報モノですが、横にいるスパナを持った保線区員も気にしていません。そんな時代だから撮れた写真ばかりです。

  1. EH10の前面は眉毛の下がガクンと凹んでいる様な印象で、まるで大相撲の関取、大内山の様だと思いました。
    ホラーなら、フランケンシュタイン風かなぁ、、、
    大内山は巨体にモノを言わせた起重機ばりの吊り出しが得意技で、EH10も同様に力持ちだったのも共通する所です。

  2. 皆様の鮮明な作品とは違って、ボケボケの写真ですが、「たから」を撮っていました。鴨川の東、京阪本線とのクロス箇所です。但し、コンテナ貨物ではなく、オレンジ帯のワキですね。昭和39年です。

    • 西村様
      「たから」撮っておられましたか。貨物は撮影の対象では無かったのですが、やはりテールマークが付く「たから」は特別な対象でした。私も「たから」を撮るために、山科の築堤へ初めて登りました。改めて私の写真も見ますと、前半分は黒くなっていて、やはりワキの混成のようです。

    • EH10は東海道を走っていたのを覚えていますが、残念ながら写真は撮っていませんでした。ただ特徴のある前面と8軸の雄姿で私も好きな電機の一つです。ということで数年前にNゲージのEH1051の急行便貨物のセットを購入しました。51号機は側面の通風口がよろい戸になった変形機だそうで、引っ張る貨物はまさに西村先輩の撮られたオレンジ帯のワキ1000でした。

  3. 総本家青信号特派員様
    EH10 15が高速試験車として茶色塗装で走った以外に茶色塗装のEH10が居たのは知りませんでした。
    理由は何だったのでしょう?

    • 河さま
      コメント頂戴し、ありがとうございます。高速試験車のEH10 15の茶塗装は、ピク裏表紙でも載っていて知られていますが、試作車の茶塗装は、私も受け売りですが、初めて知りました。想像するに、4両の試作車のうち、2両は従来の茶塗装、2両は萩原氏提案の黒塗装で、比較したあと、量産車は黒塗装に決定したのではと思います。

      • な~るほど。 当時、電機が「黒」なんて考えられなかった訳で、SLにも通ずる力強さを示すカラーリングを採用するに当たっての比較試験だったとは。
        15号以外に茶色が居たと言う事を始めて知り、勉強になりました。ありがとうございました。

    • 河さま
      試作機の茶塗装は、2号、3号と記しましたが、再度、調べますと、2号、4号と判明しました。HO模型でも、この茶塗装のEH10 4が出ているそうです。以下の写真は、乙訓の長老さまのトップナンバー機の製造直後の写真ですが、何となく茶塗装のようにも見えてきます。

      • 総本家青信号特派員様
        『2号、4号と判明』との事ですが、小生所蔵の本をひっくり返して調べて見ますと、電気車研究会刊・杉田 肇著『写真で見る国鉄電気機関車』(昭和36年1月15日版)の79頁には『塗色についてもEH101‣4とEH102・3とでは相違していた』との記述が有ります。
        ただ、どちらの組み合わせが茶色だったかの記述は有りません。
        しかし、貴殿の記述を基に考察すると、長老の撮られたこのEH101は茶色、つまりEH101‣4の組み合わせが茶色だったと思われます。
        考えますと、試作機としての4両のEH10は、製造当初から茶色と黒の比較が予定されていて、EH10 15の方は後から出た『高速試験』のための識別塗装だったのでしょう。

        • 河さま
          深夜のコメント、ありがとうございます。「写真で見る国鉄電気機関車」はED71が表紙の本ですね。私は持っていませんが、4号については、茶塗装で模型化されていることを見ると、1・4が茶塗装の可能性が高いですね。長老の撮られた写真は粗いものですが、何となく黒ではないような気もします。貴重な情報、ありがとうございます。

  4. マンモス電気機関車EH10も今は1両だけ保存されているのみです。場所は大阪市東淀川区東淡路2丁目5の東淡路南公園の片隅です。赤川鉄橋の帰りに寄って、写真を撮りましたが難儀しました。なんせ、「かごの鳥」状態です。この写真は「鉄路輝く」の写真展に出展しました。夕日で「かご」の網の陰が映っているのがなんとなくわびしいです。

      • 鉄人EH10の憂愁
        大阪市東淀川区東淡路南公園 2013年 10月

        日本の高度成長に貢献した鉄人EH10
        唯一残った鉄人は休息する。

        以上、写真の題名とキャプションです。

        最近も突然鉄人が現れた写真があります。これは次の写真展が開催されたらお目見えするでしょう。

    • いまは知りませんが、10年以上前に撮りに行った時に、下のような注意書きがありました。「気かん車」の文字、どう間違ったらこんな表記をするのか、管理者の程度を疑いました。

  5. 思わぬEH10への関心の高さに驚いています。実際、われわれの世代では、EH10の存在は別格であったと改めて思います。そのあと、写真の箱をひっくり返していますと、別の方が撮られた、客車列車を牽くEH10が見つかりました。昭和34年9月の京都駅撮影ですが、後に続く客車の窓の開き方やサボを見ると、これは営業中のもののようです。私はEH10が客車を牽くのは高速度試験の時だけかと思っていましたが、こんな当たり前の時にでも客車を牽いていたのですね。

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