2日目:8月16日(月)。14日は“日本の客車・再版”祝賀会であった。鉄道ピクトリアル・今津編集長をお迎えして佐竹さんの功労を称える集いであった。須磨の大人の裏話、新規入会の通園さん紹介、美作の国で療養中の滝本君から見事な西瓜の差し入れがあり、酷暑の最中でも稔りの多いクローバー会であった。
さて2回目は西の果てへ。京都駅から新快速でぶっ飛ばせば2時間少々で行ける地であるが、5時間あればなんとかなるであろうと、1回目より1時間早く西向日6:40発とした。運賃と時間の節約を考えれば十三・三宮・高速神戸経由が正規のルートとなるが、後のことを考えると淡路・阪神なんば線経由にすれば変化が見込めそうだ。日本橋7:45に着くなり先ずWC。奈良からやって来た快急は10両編成で、鶴橋、上六ではどれだけ下車したか分らないが、先頭9726号の4扉から30人ばかりが下車した。残念ながら座れない。難波も同様。西九条からメガホン片手族が乗ってきた。虎狂ではないから静かなものだ。本日は地元校が2校出場する事になっている。伝法を出ると100km/h運転となる。10両ですぞ、50年前は2両だった。尼崎8:14着。高架留置線に5551・4Fが休んでいる。舞州へ移転した大阪車両工業が鋼体を造り、正雀のアルナ工機が艤装した、と言われている。この駅の蕎麦屋も何処へ行ったのか見当たらない。サンドウィッチとヨーグルトを購入した。
目前に阪神なんば線からの普通が到着、全員降ろして折り返し線に。そこへ直通特急が到着するが1/3残して西へ向う。ガラガラの普通に先乗りしていたら、あぶれた1/3が乗ってきた。こちらも静かな車内。甲子園で降りて三宮行の快急を待つ。満員の近鉄1028号は、高校野球応援団を弾き出すと身軽になって走り出す。近鉄車で神戸入りが出来るとは夢にも思わなんだ。特急が停まる「御影」、外側線を最徐行で通過する快急6連は苦肉の策の一つだ。震災の日の週末から6週連続で神戸へやって来た。阪神復旧の日、6月25日まで何度も通った。戦災を知らない京都人には見るもの全てが勉強であった。
三宮からしばらく乗りっ放しとなる。先ずWC。ホームに直通特急が到着した。それなりに乗っていた車内はガランとしてしまった。三宮9:14発。神戸高速鉄道は阪急阪神HDに統合されたのだから、運賃の一元化を先ずやって、それからスッルト関西を有効利用したら、客を増やせないかと思う。遅い遅いと言われるが、直通特急は明石・飾磨間3駅停車で35.2kmを28分走行である。新快速は明石・姫路間2駅停車で35.4kmを26分走行だ。昔、車庫のあった西新町を出ると110の目盛を維持するためにノッチのON、OFFの繰り返しとなる。飾磨10:13着。網干線乗り換え10:20発。車庫を横目に高架線に上がり、降りて少し行って2ツ目の鉄橋、渡るのは夢前(ゆめさき)川、10年ばかり前、木村昌晴さん以下7人、河原でHO運転会をやった。動力源はバイクのバッテリー12Vだ。子供は勿論、大人も取り囲んでくれた。ポン友・木村さんは吉川文夫さんより一ケ月早く亡くなった。僅か15年の付き合いだった。「また来たよ」、黙祷。最西端・網干10:38到着、所要時分3時間58分。思惑より1時間早く到着した。
1998年2月21日朝、木村さんと2人、網干駅ベンチで仲間の到着を待っていた。3人がやって来たところで腰を上げ8:35発で東へ向け出発した。飾磨で2月15日から走り出した大阪ライナーに乗り換え民鉄による電車最長区間、旅の始まりであった。インタァーバンの好きな木村・沖中コンビはその昔の電車王国アメリカで、2000哩のトロリィーカ-の旅が1910年5月10日スタートしたことを知った。日本ではどうなるか、アメリカでは軌間が同一であったことで実現したのだが、日本ではそれが出来ないのが残念である。乗り換えを繰り返せば何処まで行けるか、西は網干から三河田原迄が最長となる。一度乗ってみよう、その日を姫路・梅田間の直通特急運転開始後としたのだった。
思い出の網干から姫路へ出た。姫路駅の山陽との上下切り替え後に通った事がないからである。これからどうするか、まっ出たとこ勝負で行こうと思う。神戸市内に入り板宿で神市交と接続している。名谷迄は行ったことがあるが、終点・西神中央は未だである。トンネル電車は谷底だけに明かり取り部分があり農村風景が見え、ホッコリする。終点の駅前ロータリィーが広いのにびっくりだ。折返し三宮に直行、ガード下で海鮮丼と生中1杯で満タンになったところで能勢電に行くことにした。
準特急氏2度目の来阪の時は能勢電と神戸電鉄へ行った。紅葉シーズンなのに暖秋のため晩秋の装いはなく、案内役としては「ごめん」の気持ちが今もある。そして日生NTへは行った事がない。35年前、ニュータウン造成に向け沿線のそこかしこで線路規格向上、複線化工事が始まった。丹波へ仕事に行った帰途、時折り国道173号を南下して工事の進捗を観察した。日生線の開通直後、息子に「阪急の昔の電車に乗りたい」とせがまれた。一も二もなく能勢電にやって来た。320,380,500形がまだ残っていた。日生線は山下始発の320、380形の2連で折り返し運転であった。本線は610系、500形の4連で川や崖沿いの線路をきしみながら走った。変わったと言えば大きな複線トンネルが出来たことで、能勢カーブ式電鉄であることには今も変わりはない。せがんだ息子は成人を前に野球一筋となり、今年は不惑を迎えている。その親父は膝小僧を抱いて欠伸をしているうちに日生NTに到着した。
ホーム端から線路端末まで4連2本が押し込めそうな留置線がある。延長計画のある北千里に良く似た構内線形だが、行方には山ががんばっている。バブルが何度も飛んでこないと山の向こうを引き寄せるのは無理だろう。駅前広場は西神中央と比べるとひっそりしていた。
これで本日の目的達成。日生中央15:29発で帰宅の途についた。蛍が池からモノレールで南茨木へ、西向日17:16着。全行程10時間26分、運賃5,610円也の巡察の旅だった。
能勢電へ行かれたのですか。その節も御世話になりました。実は次のデジ青は能勢電にしようと準備していました。それに息子さんにせがまれて行かれた頃の能勢電はポールカーから現在の姿へ変身する過渡期でしたね。ピクトリアル阪急特集で拙稿で今津線の320、380、500等のことを書きましたが、それら小型車は能勢電ではステップをはずしたり、蛍光灯照明になったり、ライトもシールドビーム2灯になって、少し、イメージが変わった感じがしました。尚、380は能勢電転出前に一時京都線の桂車庫に留置されていました。阪神石屋川車庫は震災3ヵ月後に行ってきました。かなりの車両が道路に放置されていた記憶があります。前にも申し上げたことがありますが、是非一度昭和30年代の私鉄王国関西電車の元気な姿をデジ青で披露して下さる様お願い致します。