ネコ・パブリッシング発行の雑誌「国鉄時代23」-2010年11月号108頁、久保敏さんの常磐線1957~1960年準急「ときわ」・C62「はつかり」の時代で次のような写真説明があります。
「水戸駅で給水するC6220。当時の拠点駅の典型的な情景で給水塔、荷物運搬用のテルハ、貨物ホームが見える。1959.9.22(原文のまま)」
この荷物運搬用のテルハとはどういうものなのか、知っている方がおられましたら、教えて下さい。写真を見てもよくわかりません。なお、この雑誌は大きな書店では今月20日頃までは店頭にあります。宜しくお願いします。
日本クレーン協会のホームページに、「駅構内において手荷物を積載した手押し車等をつり、線路を超えて他のホームに運搬する作業に用いられているテルハは、跨線(コセン)テルハと呼ばれています。」と書かれています。
郵便・荷物車に横付けされた手押し台車をホーム間移動させるために設置されていたものです。大阪駅の場合は、神戸寄りに設置され、線路をまたぐ形でなく、くぐる形で設置されていました。高架駅だったからだと思います。
テルハご存じないんですか。お若くていいですね。まず、それを運ぶ手押し荷車は分かりますか。横から見るとU字型になっている4輪の台車です。両側は荷物がこぼれないように木の板貼りで、てっぺん部には手すりが付いていてどちら側からでも押すことが出来ます。U字の底は平らで畳3/4ぐらいの長さのそこそこの大きさでブリキ板かトタン板を張ってありました。ベッドのように側部は開放状態です。ホテルのポーターが玄関でトランクを運んでるのが、三まわりぐらい大きくなった頑丈な木製と思ってください。手小荷物(チッキ・客車便貨物)や郵袋を積んでホーム上を手押しや牽引車に数両引かれていききしてました。テルハはホームとホームを跨線して作られた屋根付きクレーンで、荷物がこぼれないように粗めの格子に編まれたロープ網がかぶせてある荷車は四隅のワイヤーでつり下げられて移動します。跨線時の落下防止のため荷量の多い駅ではワイヤーの周囲を蚊帳(わかるかな~)状のネットにしてあったように思います。
この頃、ホームには一度に十人ぐらいが顔を洗える洗面所・赤帽さん・肩から弁当を積み上げた箱を下げた駅弁屋さん、もっと昔なら傷痍軍人の姿も見えましたね。
わたしもテルハについては、小学館の交通の図鑑で学びました。というか、ホーム数4から6以上の拠点駅であり、かつ手荷物の輸送が各ホームに分散していた時代には、かなりの需要があったと記憶します。
山陽本線でも、尾道や広島、徳山、岩国といった急行以上の列車が停まり、支線を分岐するクラスの駅には必ずあったと記憶します。
構造はホームから跨線橋の高さまで、荷物をあげて水平に、他ホームの上まで移動する施設というべきでしょうか。
赤帽のいる駅もなくなりました。
また宅急便などの普及でチッキ(鉄道手荷物)を送るというやりとりもなくなりました。
でも鉄道が陸運の王者であった時代、それを偲ぶにはテルハ設備が撤去されていない駅に佇むと、何ともいえない感慨に戻ります。
京都駅は平成の大改装が行われるまでは、残っていたような記憶があります。
日通という大企業がほぼなくなり、旧郵便局と一緒になった昨今、時代の流れは国鉄時代の記憶をすっかり、洗い流してしまいました。
Quick Answer 有り難うございます。 今年は乙訓の老人様より「だるま」なるものを教えていただきましたが、続いて「テルハ」と言うものがよくわかりました。恥を忍んで質問をしましたが、DRFC-OB会クローバー会に入っていてよかったなとつくづく思いました。
でかんしょ祭り号様
クレーン協会のホームページに載っていましたか。岩波国語辞典とヤフーで「テルハ」で探してみましたが、駄目でした。それにしても大阪駅に跨線タイプではなく、潜線タイプがあったとは全く知りませんでした。鉄道に付帯する施設にももっと目を向け、カメラにおさめておけばよかったと思います。
大阪通信員様
大きな駅のホームには洗面所がずらりと並び、「弁当ー、弁当ー」と言う駅弁おじさんやおばちゃんの声につられて腹ごしらえし、赤帽さんが重い荷物を担いで足早に通って行った光景が目に浮かびます。懐かしいですね。また、客車の中に傷痍軍人さんが入ってきて子供心に戦争の怖さを感じたものです。ヤミ米の配送も見たことがあります。小生、大阪通信員様と近い年代です。こういう時代はホーム先端には4輪の荷車が何台か置いてあり、時々牽引車が数台連結して行き来したことはよく覚えています。しかし、「テルハ」については何かエレベーターのようなものがあったくらいの記憶しかありません。ところで「テルハ」と言う言葉は日本語なのでしょうか。カタカナであるところを見ると外国語でそれも略語のような感じもします。因みに小生のメールアドレスはteru-haで始まります。
K.H.生様
早速、昭和38年に九州に行った時のアルバムをひっくり返して見てみました。蒸気機関車だけを大きく撮っていた頃の写真ですが、熊本駅と大分駅にそれらしきものが写っております。さらに各地で写した写真の中に「テルハ」がないか探してみたいと思います。何れにしましても鉄道が遅くて、汚くて、不便で、安全面にも欠けていた時代でしたが、何か王者のように感じられた時代でもありました。古きものへの郷愁と高度成長が始まる頃の明るさや希望もあったのでしょう。機関区のあった糸崎駅の現在の寂しさはびっくりしました。
テルハ=テルファーが消えたのは、そう古い話ではないはず。というのは、手小荷物を扱う以上、大きな駅では線路やホームをまたがって駅本屋と夫々のホームの間、大阪通信員さんが書かれた、前後のみ妻板があり、サイドは開放式のトロ(これは何というんでしょうか)を駅員が、テルファーを使って手小荷物を運んだからです。上野などの大駅では、平地ではエンジン付きの牽引車(立って運転する)がこのトロを何台も連結牽引していました。確か故吉川文夫氏監修の「何でも探検隊」だったかのシリーズ本でも扱われていたと思いますよ。
老人が現役学生時代、京都駅到着の団体臨車内片付けのアルバイトをしたことがあり、昭和30年代の団体貸切「お座敷列車」とは、通常の3等客車のクロスシートの間に寸法を合わせた板を置いてツライチにし、毛布を敷く。そのに爺様や婆様をはじめとする団体様が正座(これが一番楽)していたのです。で、その板を短時間の間に運び出し、トロに積み込んでホームを押して行くのが仕事でした。車内には各人に配られた未開栓の清酒2合瓶がゴロゴロ残っているのを発見し、一人が特に選任されて「それ」を集めるのに専念し、仕事終了後全員で「それ」も片付けた記憶があります。
余計な話ついでに、プラットホームが低いヨーロッパでは、このトロ(3輪)の床高がやたら高く(手荷物車の床高に合わせ)、大方の駅では今でも人力で牽引(日本では押す)しているはずですが、ホームが低い=業務用の通路が線路をまたいでおり、テルファーはあんまり見たことがありません。大きな駅ではあるはずですが。
湯口徹様
有り難うございます。本の紹介は出版関係の方からもありましたが、反響の大きさと申しますか、小生の浅学を露呈した様でして大変恐縮しております。ヨーロッパは低いホームの中で背の高い大八車のようなものを見たような記憶がありますが、車両ばかりに目を奪われ鉄道に付帯する施設の記憶は殆んどありません。テルファーから少し外れたお話ですが、昭和30年代にあのような団体貸切「お座敷列車」が存在したとはこれまた初耳です。よく夜行列車の座席車では寝る時に海老のようなかっこうをしたり、通路側に足を投げ出したり、窓側に足を立てかけたりいろいろ工夫しました。さすがに網棚のハンモックはしませんでしたが、座席と座席の間に何か埋められるものがあればなーと思っていました。やはりあったのですね。そして、楽しそうなアルバイト情景が目に浮かびます。