客車の神様 教えて下さい

昨日呉線忠海方面に撮影に出かけたところ、いつもならC11が来ると思っていたところ珍しく1150型1155が来たので、1155を一生懸命撮ったところまでは良かったのですが、すぐに発車してしまい、後ろの客車を撮り逃がしました。特に1両目は3軸ボギー(TR71?)で丸屋根でトラス棒もあり、窓配置も不規則なような・・・。2両目はハニかハユのようですが、これはさすがに形式を判定しにくいですが、1両目の客車の形式は何でしょう?先日は気懸りだった郵便車をオユ10だと明快に回答を頂き、夜もぐっすり眠れると思っていたら、また気になるネタが発生しました。客車の神様 助けて下さい!

呉線忠海駅にて 糸崎行き

冗談はさておき、この写真は平成9年7月 郷土出版社発行「目で見る東広島、竹原の100年」という写真集に掲載されていたものです。三呉線の三原・須波間の開業が昭和5年(1930年)3月19日、三原・呉間が全通し呉線となるのは昭和10年(1935年)3月24日です。開業直後の昭和6年に糸崎機関区には500型が1両いたようですが、昭和8年には1150型が4両、昭和10年には1150型4両とC11が1両、昭和12年に糸崎の1150型は2両に減り 昭和14年にはいなくなっています。一方昭和10年に広島機関区のC11が8両に増えていて、呉線は広島機関区が主な受け持ちとなったようです。この写真は昭和11年の撮影だそうですから、糸崎の1150型の晩年の姿でしょう。客車は広島所属なのでしょう。私の知り得た情報はこれがすべてです。さてこれだけで客車の形式が判るものでしょうか。判定よろしくお願い致します。

客車の神様 教えて下さい」への4件のフィードバック

  1. 配置表でもあれば推量されるでしょうがこれだけでは形式特定は難しいのでは無いでしょうか。前の客車はダブルルーフをシングルに改造した物か、載せ替えた物かもしれません。前者にはオハ31をシングルにした物があったように思います。後者はオハ61が代表ですがこの頃にも鋼体化をしたのがあるのか知りません。昨年の8月25日に湯口先輩がナハ22000系が火災で焼失した三両をオハ30系としてシングルルーフの車体に載せ替えたと投稿されました。台枠は木造車からの流用で、台車はTR71でしょう。お役に立たず申し訳ありません。

    • 米手作市様
      私の悪ふざけにお答え下さいまして恐縮です。戦前のことですのでこの1枚で特定するのは至難の業とは思います。ダブルルーフをシングルにしたのかとも思いますが、それにしては屋根が浅いようにも見え、またベンチレーターがやたら多いようにも見え、不思議な客車です。1枚の写真からあれこれ考えるのが楽しい今日この頃です。ありがとうございました。

  2. 初めてコメントさせていただきます。うずらと申します。
    1両目の客車ですが、窓割とシングルルーフ、台枠の幅から考えて鉄道院基本型客車(中型客車)の元二等寝台車・スロネフ17550形式(大正7年〜9年製造17550−17561)から格下げされたスハフ17550(17550−17552)またはスハフ18900形式(18903−18911)のいすれかと思います。新製時は寝台部分に明かり窓があり、のちの格下げ(昭和7年)時かそれ以降に埋められたものと推察されます。幕板が広いので面影があると感じられます。
    確証はありませんが、私なりに推察しました。ご参考になれば幸いです。

    • うずら様
      まずもってデジ青をご覧頂き誠にありがとうございます。その上 このような不鮮明な写真1枚からよく該当形式を探し出され、的確な判定を下して頂いたことに唯々感心するとともに恐れ入りました。普段はめったに見ることがない鉄道省の客車形式図集を引っぱり出して見てみましたところ、なるほどご指摘のスハフに相違ないと思いました。このような格下げ3軸ボギー客車が呉線を、わが町を1150に牽かれて走っていたと想像するだけでもワクワクします。このコメント欄では図を添付できませんので、改めて別稿で図面を紹介し、一つの話題提供をさせて頂こうと思っています。蛇の道はヘビと言いますが、「鉄道」という「道」も奥深く、いずれの「道」にも先達、達人、専門家がおられることを改めて認識しました。引続きデジ青をご覧頂き、どしどしコメント頂きますようお願い致します。誠にありがとうございました。

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