ナンバーの話 ①
続いて“37枚目”の別テーマに飛びます。今までの「駅」では、鉄道車両は脇役でしたが、やはり車両は欠かすことができません。37枚目のあれこれ、車両ナンバーの話です。われわれの習性として、車両で真っ先に見るのは、形式、製造番号のナンバーでしょう。数字の羅列ですが、得られる情報は無限にあり、趣味活動を深化させました。トップナンバーやラストナンバー、また切りのいい数字が写せると、内心ほくそ笑んだものです。同じ数字の並んだ“ゾロ目”のナンバーもありました。京阪や阪急でも“2222”や“3333”があり、割と身近なナンバーですが、これが蒸機となると、制式蒸機では、形式も含めて数字が並ぶのは、1並びと5並びしかあり得ず、実際にはC11 1、C11 11、C11 111、C55 5、C55 55と、5両しかありません。私はうち3両だけは写していました。初期の時代で、キズ付きのひどい写真ですが、見ていただきます。皆さんもゾロ目にこだわらず、ちょっと面白いナンバーが見つかれば、ぜひコメント・写真お願いいたします。
▲米子区のC11 1、入換用として、米子駅で黙々と働いていた。ごく当たり前のC11だが、昭和40年には植樹祭でお召列車を米子~境港で牽いた実績がある。やはり、1並びのナンバーが買われたたのだろうか。昭和46年に廃車になっている(昭和42年8月)。
▲C55 5は吉松で入換中を撮影、吉松区にいて、肥薩線、吉都線で客貨を牽いていたが、C55・C57ブームの起こる前の昭和43年に廃車されていて、それほど目立たずに一生を終えている(昭和42年3月)
▲5が4つ並んだC55 55、こちらも撮影時期には、本来の列車牽引の役目を終えて、機関区の代用ボイラーとして使われていた。鳥栖区の配置だったが、当時はC55とは縁のない、後藤寺機関区に貸し出されていた。自力では動けず、区へ行った時も、9600に牽かれて、構内をゆっくり移動していた。昭和43年に廃車(昭和42年)
▲大した写真も残せていないので、Nさんのコレクションから一点拝借、福知山区のトップナンバーのC11 1と、これも製造輌数が少ないC10が顔を合わせた。絶妙な組み合わせで、思わず、ある雑誌の表紙に使ってみた。
つぎに、蒸機以外で見た珍しいナンバーを2つ、いずれもDRFCの活動のなかで見ることができた。▲夏合宿で阿仁合線へ行った際に、蒸機通過までに間があるので、メンバーとともにキャンプ地から当時の終点の比立内までDCに乗った際、編成のなかに組み込まれていた、1が5つ並んだDC、キハ11 111 (昭和46年)。▲こちらは、近鉄高安車庫の見学、ちょうど竣工したばかりの、12200系のNS45編成のなかにあった12345号車、5ケタの「12345」は、かなり稀有だと思っていたが、JR西日本の訓練車として最後まで残ったオハ12に、ハイフン入りながら「オハ12-345」があるそうな(昭和46年5月)。上は最盛期、原型の12200系スナックカー編成。
今回は「数字」ですか! そうですね、車両を見ると番号を確認したくなります。ただ、近頃は番号を読みにくくなってしまい、JR西日本の電車を少し離れて写すとさっぱりわかりません!
京都市電の888号、末広がりの「8」が三つ並んだ電車です。1971年5月22日、場所はわら天神前です。
紫の1863さま
おお懐かしい風景です。20番系統はよく乗りましたが888号車が壬生に在籍していたことは気が付きませんでした。前にワンマン2000型が写っていますね。4番系統でしょうか。888の左の白いビルは私が居た頃はまだ無かったと思います。当時はまだ畑で、電停からはその右にちょっとだけ見えている大力もち食堂の向こうにわら天神の鳥居と写真に写る森が見えていました。懐かしい写真を有難うございました。
「1234」の並びが見つかりました。南海時代の貴志川線で、正々堂々と正面に番号をつけています。
1993年6月20日、貴志駅にて。
紫の1863様
貴志川線の1201形ですね。私も末期に行きましたが、1234は撮っていたか? よく見つけていただきました。緑の濃淡カラーもよく似合っていたし、1234のローマン書体もよく似合っていましたね。一両が、加悦のSL広場で展示され、車内が喫茶室になっていて、一度、利用したことがあり、ニス塗りの車内が印象的でした。いまもまだ荒廃したまま放置されているようですね。
京王線の7777も関東では人気のあるナンバーです。2018年8月18日高尾山口行き準特急の先頭クハ7777です。
準特急さま
連日のお付き合い、ありがとうございます。数字の並びの“ゾロ目”のなかでも、やはり「7」の並びは、それぞれの業界においても、ひときわ意味があるようです。写真のように、正面のブラックフェイスのなかの「7777」は見栄えもして、人気になるようですね。
すみません。準特急でなく特急でした。
総本家青信号特派員さま
紫の1863様同様「次は番号!」と心が弾みました。車・機番に関わらず、どうというわけでもないのに目に入る数字になんとなく胸がときめくのは趣味者の心情でしょうか。昔ご一緒した北海道夏季狂化合宿のフリー期間中に、羽幌線へのアクセスで急行「利尻」を利用して幌延で下車、先頭部へ行き牽引のC55を撮りましたがなんとC55 1号機でした。1号機であることに小躍りして喜んだことを憶えています。同行者のT田さんもそうでした。何故そうなるのか、感情の不思議は今もってよくわかりません。またこの旅行では一週間ほどの間に、道北の各線で地域要の旭川機関区配置のキハ22 293番に数回出会いました。数日おきに名寄・宗谷・羽幌等々で見かけて、一体どういう運用なのだろうかと興味を覚えましたが、特に意味はないであろう293番がなぜか頭に刷り込まれました。
山陰線の旧客のスポッティングでは、過去に乗車して記憶に残る特別な車番に出会うことが嬉しいものでしたが、中でも浜田区配置のオハ35391とオハフ33391に関心が向きました。391というのは私の学籍番号だったからです。しかし浜田区では35と33に同番号が配置されていたのは、ややこしかっただろうなと推察していました。因みにこの2両が同一列車に編成されたのは見たことがありませんでした。意図的に別にしたのかたまたまの偶然だったのかは神のみぞ知ることだったのでしょう。
1900生様
昨日も、いろいろな話を聞かせていただき、ありがとうございました。そうですね。とくに遠隔地で、貴重なナンバーを見ると、それだけで得した気分でした。別にナンバーマニアでも何でもないのですが、一日を気分よく続けられた経験は私にもありました。お書きの異形式の同番号もあるのですね。C62 2+3のように、同形式の続き番号は意識しますが、そこまでは意識がありませんでした。
C11 1の次に連結されている白帯貨車はワム1形かワム3500形ですね。
後藤工場配給車代用でしょうか。
他にもこういった写真が出てくれば助かりますが・・・。
白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様
細かいところまで仔細に観察いただき、ありがとうございます。以前から、ご所望の写真の掲載の依頼を受けていました。何分にも、真正面から撮ったものもなく、片隅にチラリと写っている程度ですが、気長にお待ちくたせさぃませ。
総本家青信号特派員様、了解いたしました。気長に待っております。
ちなみに私は白帯を巻いた貨車及び事業用代用貨車については11/8に元鉄道友の会貨車部会会員から貴重な写真ネガや車番等記録資料まで少し大量に頂いて更に判明数が増えたところです。
やはりそれほどの成果を得ているならば近々それらに関する本の自費出版を計画しているところですが・・・
総本家青信号特派員様
12345といえば私はやはりオハ12 345しかありません。大ミハに配置された時から希少な番号だと思ってましたが、なかなか撮影する機会がなくつい最近になってやっと撮影することが出来ました。形式と番号の間にハイフンがあるように思われているようですがありません。 2024.07.04撮影
田中敏一さま
一昨日は、お越しいただき、ありがとうございました。オハ12 345、よく撮られましたね。これは、お近くの芥川でしょうか。ハイフンが無いのも、よく分かりました。
はい、地元の芥川です。これは京都鉄道博物館で展示後に宮原へ回送された時の撮影です。これ以降現在まで12系の本線走行はないようです。現在のハンドル訓練はサロンカーなにわの編成を使用してます。12系は廃車のうわさも出ていますが、もし保存するならこの車は残してほしいと思います。
田中様
即コメ、ありがとうございます。やはり芥川でしたか。先ごろの訓練は、12系ではなく、「なにわ」だったのですね。私など、12系など、客車のなかでは、最新中の最新車両でしたが、もう廃車なのですね。
総本家青信号特派員様
デカンショまつり号です。
今年の2月に宮原で撮影しました。
もうすぐ引退のようですね。
デカンショまつり様
またまたの12 345ありがとうございます。少し前に米原訓練で走ったことを聞きました。12系が無くなると言うことは、客車の訓練運転そのものがなくなると言うことでしょうか。
11月10日 DRFC総会に参加しようと阪急神戸線の各停に飛び乗った。 凶なのか吉なのか乗った車両は写真の番号。久しぶりに仲間に逢え楽しい時間を過ごせたことは吉。 乗り換えた特急は満員で立ちっぱなしでヘトヘトになったのは凶? はてさて…
南海のM尾さま
おぉ、まさしく昨日の会場で見せていただいた写真ではないですか。なんとタイムリーに7777に遭遇されたのですね。“コメントの載せ方が分からん!”と言って去って行かれましたが、よくぞ載せていただき、感謝です。これからも、よろしくお願いいたします。
南海のM尾さま
昨日の総会はお疲れさまでした。貴重なナンバー体験を投稿できてよかったですね。投稿方法を相談されましたが、私は携帯オンチのため有効適切なアドバイスが叶いませんでした。申し訳ありませんでした。これで道が付いた訳ですから、よかったら引き続きのご投稿をお待ちしています。
南海のM尾様
ホムカミの会場でご挨拶させていただきました。阪急の7777ありがとうごいます。
いつも貴重な写真をありがとうございます
揚げ足取りですみませんが、1枚目は11号機でしょうか? タマタマ1967年版(66年度末)車両配置表を持っておりまして、見たところ1号機は籍がなく、写真のプレートも11のように見えます
同配置表では11号機は米子区出雲支区所属となってますが、実家?の米子に応援出張だったのでしょうか?? ともあれ本日は11/11!、あ~今年も2ヶ月切りました…
C11の1号機は、東京の青梅市にある、青梅鉄道公園でずっと前から(60年くらい)保存されています。
青梅のC111を載せておきます。
宇都家さま
私も拡大して見ました。やっぱり「1」が四つ並んだC1111でした。まるで、視力検査のような番号ですね。めっきり老眼の進んだ私も、相当拡大して、やっと四つ並んでいること分かりました。
1はわかりにくいですね
青梅へは昔展望車を見に行きましたが、C111のことは完全に忘却しておりました
ホームカミングデーではお世話になりました。ゾロメも3桁では迫力がありませんが、シキ555を撮っていました。平成28年3月15日 場所は亀岡市保津町の「保津川ライブスティームクラブ」の運転場です。シキ550は昭和36年から41年にかけて国鉄浜松工場で12両が作られた、3軸台車のTR78を履いた50Ton積み低床大物車で、555は梅田駅常備となっていました。私有貨車が多い大物車の中で、珍しい国鉄所有の大物車でした。保津川の河川敷のような場所で見つけて、驚きました。このシキ555の他、インドで動いていたらしいイギリス製のB型テンダー機とヨ18119が屋外雨ざらしで並んでいます。亀岡駅から遠くない場所です。
西村様
地元に居ながら「保津川ライブスチームクラブ」の存在を知りませんでした。検索するとfacebookもあり、いまも活動中です。ダイヤモンドスタッフの怪しげな原寸蒸機もあり、その後ろに、くだんのシキ555と車掌車が連結されていました。
もう1件オマケを。珍しいナンバーと言うより、トップナンバーです。形式チ1のトップナンバーチ1です。昭和55年に糸崎港の埠頭線で撮っていました。実は2代目のチ1形で、昭和32年から33年にかけて300両が作られたレム1形の改造車です。冷蔵車は車両価格が高い一方で、荷を積んで走るのが港から市場という片道で、大変コストパフォーマンスの悪い貨車でした。そこでワム兼用のレムとして誕生したのですが、結局保冷性が悪いなどの理由で敬遠され、失敗作に終わりました。そこで昭和43年からただの無蓋車(大物車)に改造され、296両が誕生しました。そんなチ1を糸崎港で見つけたわけです。デッキにぶら下がって遊んでいるのは、3歳の長男です。このチ1が停まっている線路をよくご覧頂くと、3線区間であることがわかります。三菱三原で作られた標準軌の車両を糸崎港埠頭まで運べるよう3線式でした。勿論今は何も残っていません。鉄道による貨物輸送の終焉期でした。
総本家青信号特派員様、
遅ればせながら参戦させていただきます。
①:ロソ111です。番号部分を意識して撮影していなかったので、台車に記載された部分の写真を屋根上あたりに貼っておきました。
②:白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様からご要望がありそうだったので、番号は関係ありません。
③:カウントダウンです。
①及び②は、1981年9月27日、福知山機関区、③は2008年8月23日、八幡浜駅4番線です。
四方誠様、
写真大変ありがとうございます!!!
なかなかこういった写真はネット検索や新刊にも出てこなく、更に自宅の書籍や資料、その他ネット上で得たものも全て拝見済なもので・・・、それからそもそも私自身は一度も地元では見かけておらず、撮影しておらず、廃車体まで未訪問で(山口県には白帯車及び事業用代用車の廃車体が一つも見当たらないです)、引退するまでに一両でも撮って現車調査しておきたかったと悔やむ思いです・・・
ところでワム74199の検査標記が
56-X、58-X、〇〇車セ?の様ですが、検査工場が4文字なのが気になりますが、どこでしょう・・・?
この写真では判読不能です・・・
白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様へ
検査標記を解読されるとは思いもよりませんでした。工場については、漢字2文字が大きいためかくっついており、少し離れて工の文字があるように見えます。また、よく解読できたものと感心いたしますが、全般検査はB級貨車ですので4年の間隔になると思います。(もしかして、上段が次回全検、下段が次回要検だったでしょうか?)
ワム74199のみと思っていたのですが、福知山にはもう1両代用救援車がいたみたいで、標記のある部分のみが写っておりました。右側の車はスエ71 17(米手さんの「準特急さんに怒られますが・・」の投稿記事中にでてくる車)です。これも検査年は判然としませんが5月でしょうか。後藤工のように見えます。
四方誠様、文字数が多くなってあまりにも長文なコメントで大変恐縮ですが、
ワム74199は福知山客貨車区、
ワム75585は福知山機関区配置の様ですね。
ワム75585は過去に河合商会でNゲージ販売されていましたね。
ワム75585の検査標記は
54-5?、58-5後藤工と少し読めそうです。
ちなみにスエ7117の写真はRMLIBRARY229国鉄救援車図鑑下にない写真で、なかなかスエやオエやナエの救援客車、オルやスルやナルの配給客車の隣に白帯を巻いた貨車ないし事業用代用貨車が連結されている写真は書籍でもなかなかありませんね・・・。
なお私自身も救援客車、配給客車についても写真を一度も撮影したことも、地元で実車をご覧になったことはなく、何故まだ22歳の私が白帯を巻いた貨車及び事業用代用貨車含む珍しい事業用車にハマるようになったのか、しかも現在の貨車自体がコンテナタンクホッパ車等に整理された時代で他に私より若い人が事業用車に興味持つ方はそれほど居ないかと思う頃に膨大な白帯を巻いた貨車及び事業用代用貨車の判明車両データを築き上げてしまって殆ど未判明の車両が探せなくなってしまった私を責めたいところでもありますが・・・。本来なら少なくとも興味持ち始めた頃より2年早い2018年頃から研究調査始めたかったなあ~、といっても当時はまだがちがちの貨車ファン状態での化学工業系の私有貨車探求派でしたから。
白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様へ
22歳の方だったとは驚きました。実見されたことのないのも納得です。大変なこととは思いますが、頑張ってください。
総本家青信号特派員様
37枚目とは36枚撮りのフィルムの最後の1枚がおまけのようになったものでもう1枚撮れるものと解釈しましたが、私は真面目に36枚で終えて現像してできたフィルムの最後に余白があって損をしたような気分に今頃なりました。損したと言えば、あの頃長尺巻きフィルムというのが缶入りがありましてこれを自分で36枚撮りくらいに切ってパトローネに入れて使ったことがあります。ところが他人から長尺巻きフィルムをもらって使った所、1回使用したものをもらい二重写しで泣いたことがあります。しかし自分自身も整理が悪くて二重写しになったものがあります。1967年4月29日狂化合宿で高山線猪谷に行った時の9600蒸機にそのあと撮った阪急2310が重なっていました。こういう経験はされた方はいませんか。同好会ではお一人経験者を知っております。
二重写しは何回か経験しています。自分で撮ったフィルムをもう一度使ったり、旅行中に同行者がフィルムを分けてほしいと聞き、撮影済みのフィルムを渡してしまったり‥。いま見返すと、倶知安のC62夜景に、キハ22が背後霊のように写っていたり、いま見返すと笑い話ですが、フィルム現像して初めて気が付いた時は、相当落ち込んだものです。何しろ2本分がパーですから。そこで、撮影が終わると、フィルムの“ベロ”(先端部分)を切り取ることにしました。あきらかに未使用のフィルムと区別がつき、それからは皆無でした。
総本家さんでもそんなチョンボやったことがあるのですか。最近投稿がないがナンバーにすごく強い大物の方も撮影済みのフィルムをもらってえらい目にあったとぼやいていたのを覚えています。
総本家青信号特派員様
主テーマのナンバーに戻ります。三原にお住いの西村さんから一般的な車両なら3桁ならダメやと言われ、そのように私も思いますが、まだどなたも発表されていないので大物p-6の111で勘弁させていただきます。1967年12月桂です。
準特急さん投稿と同じ新京阪の111号が、宮松コレクションにありました。今度は前後賞ではありませんよ! 因みに111号は、汽車製の初号車です。撮影記録が付いていませんが、車体が綺麗なので、昭和5年の新製から間もない時期かもしれません。アングルが準特急さんの記録と、ほぼ同じなので、比較が出来て興味深いです。2枚の写真の間には。ほぼ30年程度の差があるかと。屋上の通風器が目立たない、側引戸のガラスが2分割、外付けの標識灯、乗務員扉のステップが長いなどなど、違いを探すと飽きません。撮影者は、勝山俊一さんです。昔のTMSの巻末に、毎号カットを描かれていたのを思い出す方もいらっしゃることでしょう。
宮崎繁幹様
P-6は2扉化されたり、ライトが二つ目玉にならず最後まで豪快且つ端正な姿を残していました。後にあの大きながっしりとした幌がP-6の顔として昭和38年頃まで残っていましたが、私が見た時はそれがなくなってがっかりしたものです。先輩である高橋正雄さんがよく鉄道ファン等にその幌付きの姿を発表していました。
大物と言えば近鉄2200系にも2222があったはずですが整理が悪くやっとのことで見つけ出しました。1969年7月7日雨の伊勢市で宇治山田行き急行4連の後部です。
準特急さま
2200系にぞっこんの準特急様から2222を寄せていただき、改めて本の制作にご協力をいただいたJTB「近鉄特急〈上〉」「近鉄特急〈下〉」「近鉄電車」の3冊を見返していました。2200系だけでなく、名古屋線6301系も含めて、準特急様の近鉄特急車への限りない愛着が誌面から伝わって来ました。改めてご協力いただいたこと、御礼申し上げます。
準特急さんが2222を載せられましたが、宮松コレクションにもあったよなぁと思い探したところ、1番違いの前後賞で2223でした。元は確かにキヤビネ乾板なのだが、走りですし大判のシャープさやコントラストが弱いので、紙焼きを複写したものかもしれません。戦前の記録と思われます。場所は、青山峠附近?でしょうか。前後賞ではあるが上3桁は揃ってる、と云うことでお許し下さい。
宮崎様
この写真は、1978(昭和53)年刊行のプレス・アイゼンバーン発行「近畿日本鉄道 参宮特急史」21ページ掲載のものと思われます。キャプションによれば、列車は伊勢行修学旅行生の貸切で、1940(昭和15)年3月21日、関屋~二上間にて。撮影者は米本義之氏とのことです。
まほろばの鉄趣味住人さま、ご教示有り難うございました。この本は小生も持っていますが、全然思い出せませんでした。複写だろうと云うのはアタリだったが、場所の推定は大ハズレで、失礼致しました。
宮崎繁幹様
同志社のホームカミングデイDRFC総会並びに昨日の市ヶ谷での「昭和の鉄道を語る会」ではお世話になりました。プレス・アイゼンバーン社の「参宮特急史」と「P-6デイ100物語」は必須書籍として今も大事に所有しています。私は2200系で伊勢へ修学旅行に行った人間です。関東なら日光ですね。だからもう相当な高齢者ですが撮影当時2200系は最期まで2ドアで残った2205、2206以外は3ドア化されたり一部はロングシート化されたりしていました。しかし、腐っても鯛は鯛なのでよく撮りに行きました。多分どこかで撮ったであろうと思い探しましたのが伊勢市の後追い2222です。まほろばの鉄趣味住人さん、関屋-二上間のカーブは上六を出て最初の山間部勾配区間で今でも米本さんのお撮りになったムードを感じます。
宮崎繁幹様
後出しで失礼します。実はこの場所はすぐに特定できましたが、投稿のタイミングを逸してしまいました。今回の準特急様の投稿の中で「2200系で伊勢へ修学旅行」がでてきました。私も小学校の修学旅行で上本町駅南側の団体専用の木造のホームから2200系の貸切電車に乗車し、三重交通神都線で市内を巡り、二見浦から鳥羽まで蒸気機関車の牽く客車列車に乗るという行程の旅行に参加したことを思い出しました。
本題ですが50年程前に奈良県の香芝町(現:香芝市)に住んでいて、二上駅前に木に囲まれた瀟洒な喫茶店があり、休日にはコーヒーを飲んでから近鉄大阪線に沿ってよく散策をしていました。この写真は二上駅の大阪上本町方の踏切から見えた光景そのものだったからです。この場所は大阪平野から田尻峠という小さな峠を越えて奈良盆地に入り込む直前の場所です。
戦前の大阪線は、青山トンネルを含む名張-伊勢中川間は単線でした。1959年の美旗-伊賀神戸間の複線化から着手され、1975年の新青山トンネル開通にともなう新線切り替えまで全線複線化完成に16年かかっています。
1963年10月の安堂-河内国分間の大和川橋梁を渡る2200系の3ドア化後の姿です。
快速つくばね様、御教示有難う存じました。近鉄・大阪線→山越え→青山峠と単純思考で馬脚を現し、お恥ずかしい次第です。考えてみれば、青山トンネルの大事故は、私が大学生の時でしたから、撮影地が複線の筈はありませんでした。重ねてお詫び申し上げます。
別の写真を探していたらこんなものを見つけました。
これは、ぞろ目番号のワム60000形ですね。
番号の一つ上は私の大好きな白帯貨車のワム66667で、こちらは五稜郭貨車区配給車代用として使用されておりました。
田中敏一様
貨車の5桁並びですか、もともと貨車にカメラを向けることもなく、ましてや珍しい数字の並びにも、遭遇することは無かったと思いますが、よくぞ撮られましたね。ワム6000は、8000輌余りが製造されたようで、たいへんな遭遇確率です。
総本家青信号特派員様、白帯貨車及び事業用代用貨車のファン様
次の番号が北海道で配給車代用として使われていましたか、私も貨車にはあまり興味もないので殆ど撮影はしてませんでしたが、国鉄末期になると黒い貨車がかなり少なくなっていましたので見かけるとたまには撮影してました。そうですか、ワム60000は8000両近くも製造されていたのですか!ワム60000、70000、90000はあちこちでよく見かけましたね。この時は下車した時か通過中に見かけたかは忘れましたが、番号がかなりレアだったので一度カメラを取りに帰宅してから撮影に行きました。またこの頃私は初めて見た?除草薬散布車ヤ555という貨車も亀山で撮影してました。
通りすがりの田中さん
除草薬散布車?ヤ?
それは見たいですな!
ぜひとも見せてください。
米手作市様
通りすがりの田中でございます。先日はお話しさせていただき、また楽しい時間をありがとうございました。除草薬散布車ヤ555の写真です。形式はヤ550でしょうか?標記類がほぼ消えているので分かりません。鏡板の上にあるライトがカニの目玉を連想させます。
反対側です。
通りすがりの方から特徴がよくわかる角度の写真が出ましたので、私はオーソドックスなものを。
形式はヤ550で、最大18両在籍したようです。
ストラ55555です。
通りすがりの田中さん、顔見知りの井原さん、
ありがとうございます。
こんなタンク車があったとは今の今までしらなんだ!
改造なのか新造なのか、どうやって散布していたのだろうか、どんな薬品を使っていたのか、18両はどこにあったのか、などなど想像が広がり今夜は眠れません!
年寄りには睡眠が大事と厚労省が言ってた。どうしてくれる
そういえば、国鉄またはJRに在籍した白帯を巻いた貨車及び事業用代用貨車のうち、面白いナンバーで特徴だった白帯車や事業用代用車なんて何両か存在していたのでしょうか?なかなか書籍やネット検索で写真や車番等記録資料が全く見当たらないままですが・・・
皆様のご投稿を募集しております。