駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈12〉

ホームにて③ ラッシュの主役 高校生

地方のラッシュ時、乗客の中心は、勤め人と高校生で、車内はいっときの満員状態となります。ところが、勤め人は、ホントに列車に乗らなくなりました。ことし、三陸鉄道で、朝8時台の中心駅へ向かう列車に乗る機会がありましたが、勤め人風の乗客はほぼゼロで、三陸地方ならではの事情があるとは言え、愕然としました。残る乗客はは高校生となりますが、高校生そのものも少子化の影響を受け、地方では高校の統廃合もあると言います。自転車では通えない列車通学生に対しては、学校専用のスクールバスがあったり、一人一台の親のクルマで送迎もあって、列車利用の減少に拍車をかけています。交換駅で対向の列車を写そうとすると、ホームで待つ高校生が見えます。なかでも女子高生には眼が向いたものでした。決して、その筋の興味はないのですが、やはりセーラー服など服装や、髪形、持ち物には、時代差、地域差があって、昭和ならではの思い出です。

名松線家城での交換、昔も今も、家城が唯一の交換駅で、キハ30系が入るぐらいだから、ラッシュ時は乗客が多かったのだろう。先日、名松線に乗ったところ、夕方の列車には、家城から一定数の高校生の乗車があって、同線では、いまでも高校生は重要な乗客のようだ(昭和45年)。

松浦線の楠久駅で、交換するC11 260の牽く641レ。線路を横断して駅に向かう高校生たちは、両方向の列車が通り過ぎるのを待っている。たまたま後継となる三セクの松浦鉄道のHPを見ていると、毎年、「駅」をテーマにフォトコンテストが行われていて、そのアングルの多様性に見入っていた(昭和45年)。北海道でも高校生の通学があった。釧網線の清里町駅、どちらの列車も、C58+貨車+客車の混合列車だった。いまJR北海道の調査では一日乗客が38人と、釧網線では多い部類の駅になっているが、ほぼ写真の乗客数が、いまの同駅の一日分で、当時の朝は、これだけの乗客が待っていた。夏休みが終わった直後だが、さすがに長袖だ(昭和43年)。立野駅で、C12の牽く高森線の列車に乗り換える高校生たち。豊肥線とは別ホームになっていた。高校が立野なら一乗車で済むが、豊肥線の駅からの利用だと、毎日の立野での乗り換えは大変だっただろう(昭和47年)。以前にも発表済みだが、DRFCの狂化合宿で、阿仁合線でキャンプを2泊して、最寄り駅の荒瀬から出発した。朝の駅には、多くの乗客があり、“秋田美人”の本場らしい雰囲気も‥。いまは秋田内陸縦貫鉄道ではあるが、統計によると、同駅の一日乗降数はわずか6人になっていた。秋田県の人口減少はよく話題になるが、ホーム上の人たちが、その後どんな人生を歩んだのか、気になって来た(昭和46年)。

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