駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈10〉

ホームにて① 入線列車を撮る

改札口を入ってホームで列車を待つ。やがて乗車する列車が向こうから姿を現わす。ホーム入線の瞬間を、乗客の好奇の眼も気にせず撮る。鉄道ファンと言う人種の生まれながらの習性でしょうか。65年前に初めて撮った鉄道写真も、ホームに入線する列車でした。今でも機会があると撮ります。ただホームですから、列車だけ撮ることができず、乗客にジャマされます。なら、ジャマする人間も一緒に入れて撮ってしまえが、私の撮影スタイルでした。その方が、人の服装などで、時代だけでなく、地域性、季節感を表現できるのではないかと思っています。近頃は、肖像権とやらで、なかなか大手を振って撮影ができないだけに、大らかな昭和の時代がなおさら懐かしくなります。「水のきれいな日本海へ」に誘われて、夏休みともなれば、綾部駅ホームは大賑わい。京都方面から乗って来た子供たちは、D51の牽く西舞鶴行きに乗り換える。これからの水遊びを楽しみに嬉々として列車に乗り込んだ。遠い日の夏休みの思い出だ(綾部、昭和45年)。

こちらは、正反対の真冬の東北。人の気配のない街のどこから集まって来たかと思うほど、ホームは人で埋め尽くされ、雪の舞うホームで列車の到着を待っていた。みんな黒い服装ばかり、そんななか、手ぬぐいの頬かむりだけが真っ白だった(会津坂下、昭和46年)。▲▲同じく会津の小さな駅、雪が降り出して、乗客は、みんな上屋の下で列車を待っている。ひとり駅員だけが、片手を挙げてタブレットの授受に立っていた(会津柳津、昭和46年)。東北でも太平洋側になると雪は少ないが、吹く風は冷たい。漁業の盛んな街の駅からは、行商を終えたカンカン部隊が戻りの列車を待っている。みんな一様に、もんぺに綿入りの半纏、長靴スタイルだ(種市、昭和47年)。▲▲この服装は、東北では地域が変わっても、高齢婦人のスタンダードだったことが分かる。地方では、おしなべて冬はこのスタイルが定着していた時代だった(会津坂下、昭和49年)。先ごろの投稿で、ぶんしゅうさんから、人のいない根室線の茶内駅を見せていただいたが、50年前の同駅の賑わい。乗客の服装は、明らかに東北とは異なる。DRFCの仲間と行った思い出の一枚、中央に一団が見える(茶内、昭和46年)。▲▲寒村の駅から乗り込む。長靴に風呂敷は、定番だった(別当賀、昭和47年)。本州の豪雪地帯、飯山線のある駅、服装も心なしか垢抜けした感じだし、年齢層も違う。無人駅でも、各駅から必ず数人ずつの乗降があった時代だった(越後鹿渡、昭和46年)。こちらは九州、筑豊本線、春休みの日曜日の朝、上りの門司港行きだから、小倉あたりへ遊びや買い物に行くのだろうか。なぜか、浮き浮き感が私には伝わって来た。交換する急行「天草」の青帯が連なっているのも、“ハレ”の日の演出のようにも見える(新飯塚、昭和43年)。▲▲同じく筑豊本線、和服を着た母親と、小中学生の男女が、C55の列車に乗り込む。以前は、こんな風景、駅でよく見た。いまは家族連れが列車に乗り込む風景がホント見なくなった(筑前内野、昭和43年)。

 駅のある風景  ~37枚目の写真から~ 〈10〉」への1件のフィードバック

  1. 今回のテーマは総本家様の独壇場で、鉄道と人の調和はお見事というほかに言葉が見つかりません。前に「鉄道は人があってこそ」と書かれていた通り、人気のない駅はさみしいものです。ただ、昨今はこの手の写真を撮るのがはばかられ、子供やJKにカメラを向けるのは御法度になってしまいました。その昔流行ったカメラ小僧や、SNSの弊害も否めませんが、これも時代の流れで仕方がありません。自称「良識ある鉄道ファン」のひとりとして、若い人の手本になるような行動をとるようにしているつもりですが…。
    蒸機がいたころの写真はいいですね。地方へ行っても活気があって、人々は生き生きとしているように見えました。今ほど豊かでなかったかもしれませんが、将来に希望が持てたように思います。
    添付の画像は昭和47年1月、播但線の溝口で撮ったC57です。ホームにはおばあさんと二人の女の子がいて、これから姫路のデパートへ買い物に行くのでしょうか。そんなストーリーを考えてしまいます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

wp-puzzle.com logo

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください