ホームにて③ 「ラッシュの主役 高校生」余話
前回、ローカル線ラッシュ時の主役だった高校生のことに触れました。平日は、勤め人とほぼ同じ時間帯の高校生ですが、当時は、勤め人は週休2日制が普及する前で土曜日も出勤でしたが、土曜日の高校生は昼間まで。当時の時刻表を仔細に見ると、土曜日の昼に下校する高校生のために、北海道などでは特別なダイヤが設定されていました。日本全国、同一サービスを提供する国鉄ならではの心配りでした。
▲当時、日本一の赤字線と喧伝されていた根北線(斜里~越川)、左の時刻表のように、平日は、朝、夕方、晩の3本のみだが、赤枠のように、土曜日だけ網走発越川行き645Dが運転されていた。まさに、土曜日、授業を終えて根北沿線に帰る高校生向けに運転されていた列車だった。写真は、たまたま土曜日に訪れた網走駅に停車する同列車で、キハ22319単行と、北海道ではごく一般的な列車だった。快速つくばねさんは終点の越川まで乗られたとのことコメントを頂戴したが、私はここで見たキハ22が最後で、根北線は2年後に廃止になった(昭和43年、以下、時刻表も昭和43年基準)。
▲岩見沢から幾春別への幌内線、その途中の三笠から分岐した幌内方面には、朝に出ると夕方まで列車はないが、土曜日に限って、2本も運転されている。部活帰りの高校生のために、遅い目の列車も設定したのだろうか。
▲当時は“本線”にふさわしい運転だった石北本線にも、土曜日のみの列車があった。下段の北見発留辺蘂発行き、その折り返しとなる上段の留辺蘂発北見行きが対となる土曜のみ運転の列車。北見にも留辺蘂にも高校があって、両方向で下校する高校生を運んでいたかもしれない。石北本線では、最近、上白滝、旧白滝、下白滝などの駅が相次いで廃止されたが、これも付近の高校生が卒業して、定期客が皆無になったためである。▲C62重連で名を馳せた上目名、時刻表では読み取りにくいが、ひと駅だけ高校生のための延長運転があった。上目名に高校生がいた?と思われるが、駅前に国鉄官舎があって数世帯が住んでいた。その高校生のためのようだ。上段の(休日は目名始発)に注目、つまり上目名の高校生を倶知安あたりまで運ぶための上目名始発で、登校のない休日は、乗客の見込まれる目名始発に変更された。下段が午後の下校時で、なんと倶知安までは急行「いぶり」(と言ってもキハ22だが)で、倶知安から普通になって、平日は上目名が終着となり、休日は、ひと駅前の目名止まりとなるわけだ。高校生が卒業したのか、昭和50年代の時刻表では上目名延長は無くなり、その後官舎もなくなり、周辺が全くの無人となった上目名は廃止されている。▲▲上目名で写したキハ22、上記の上目名終着DCは、ここで長万部方面から来た写真のDCと交換、併結されて、倶知安方面に戻って行くダイヤになっていた。
▲さらに本州でも、こんな列車を見つけた。川俣線のたった一駅間、岩代飯野~松川を結んでいた1724D、注釈の運休日を見ると、まさに高校生の休暇と一致している。
総本家青信号特派員様、
高校生は、在来型客車から転落するなど多少問題もありましたが、大事なお客様でしたね。登下校のために時間調整されているのを見つけたりするのも、ダイヤを見るひとつの楽しみでもありました。四鉄では休日運休の列車はありましたが、平日に合わせてダイヤを作成することを基本とし、土日の変動分は車両運用で調整していたようです。
土讃線箸蔵駅の241Dは日曜日でも8分15秒停車していました(15時41分着、15時49分15秒発、近くに農林高校がありました)。また、通学生の乗車する列車が遅れると単線の場合は対向列車にも遅れが波及し、14Dが遅れてくると「土曜日かと」認識させられたものです(遅れるといっても、1ツ半~2ツ半(1分30秒~2分30秒)程度でしたが)。
牟岐線には新野駅があり、近くに工業高校があったことから、折り返し列車が夕方に1本設定されていました。新野駅は通票閉塞方式の区間でしたが、棒線駅で閉塞の境界駅でもなかったため、547Dに桑野駅から助役さんが乗り込み、折り返し548D出発前には新野駅桑野寄りの新野踏切を手動で鳴動させていました。この列車も、特に平日、休日の区別なく、毎日2両で運転されていました。
特に添付するような写真がないので、新野駅折り返し列車の運用表を添付しておきます。この運用表や記載した時刻や列車番号等は1982年11月改正時点のものです。
四方誠様
四国の高校生輸送の実例など聞かせていただき、ありがとうございました。たしかに当時は高校生は大事なお客様でした。ただ、一部には“ワル”もいて、ダイヤを乱す要因にもなっていたようです。「招かれざる客」だった時代も懐かしいです。