天野君が亡くなったと乙訓老人からメールがあった。彼とはここ何十年も顔を合わしていない。名簿を見ると1964年商学部とあるから、乙訓老人と小生は1957年なので、卒業3年後の入学である。付き合いは社会人になり、主に車で撮影に出かけた時だったので、一緒にカメラに収まった機会は結構多かった。その内の何枚かをアップする。上から別府鉄道ハフ7車内(1974年7月13日)、「日本海」ハネ内(1977年1月14日)、木曽森林鉄道(1974年11月2日)。
彼はポッチャリした体格で、気質も同じくおおらかだった。腹を立てたとか、怒ったりした姿は見たことがない。日本海のハネに大挙乗車して津軽鉄道、南部縦貫鉄道に出かけたときは、リュックサックに何とコーヒーメーカーを背負ってきており、ハネの洗面所電源でモーニングコーヒーを入れてくれた。人数が多いから、確か3回ぐらい重ねたはずである。
写真の腕はよかった。センスというより感性といったほうが適当と思うが、何とも言えないいい写真を撮っている。それにもまして文が立った。独特というか、真似のできない、しようのない文をサラサラと書いた。
家業の魚屋を継ぎ、商店街の理事長を引き受けたと聞いていたが、あの性格で、恐らく誰からも文句のでない、穏やかで丸やかな、それでいてけじめはきっちりつけて角は立てない、立派な理事長だったはずである。
天野克正さん!ご冥福を祈ります。
湯口さんのこころ暖まる追悼の掲示文に同感です。一枚目の写真思い出します。湯口先輩と二人、前夜から柵原駅前で文字通りステーションワゴンの後部で寝袋の一夜。明けた翌日、追ってきた君と合流し片上鉄道を撮影。当時すでに廃線になっていた片上港に残るDD13を見に行きました。別府鉄道にも寄り二軸客車ハフ7の車内で撮ったのが38年余りにもなります。三人で撮って外側で年齢も年少の君が先立つとは。母は、歳の順なら年寄りたまらんと言ってましたが。
君は修学院中林町に住んでいたので、中林町の確認と修学院離宮の参観に行ったとき、魚屋さんに寄りました。もう十年前後になりますが、にこやかな笑顔が眼に浮かびます。
天野克正さんとは、高校で同級でした。休み時間に鉄道地図を広げて熱心に話を聞かされました。「五能線には一度は乗ってみたいんや」と言っていた能代に縁あって嫁いで40年になります 高校生の私に五能線と能代の名前を初めて教えてくれた方として、穏やかな人柄とともに忘れることが出来ない方です ご冥福をお祈りいたします
はじめまして。デジ青投稿者の一人です。天野君とは幾度か旅行したことがあります。最後の旅行は五能線の五所川原から津軽鉄道に乗った時ですね。上の3枚の写真の内、2枚目がそうです。筆者は右から二人目、37年前になりました。天野君自身の撮影写真はデジ青にもあります。
また、当会の過去4回の写真展作品を一覧にしたページもあります。
『鉄路輝く』で検索してご覧ください。天野君の写真も見えます。
また、まだ正式ではありませんし、会の承認も得ていませんが、当会故人の方々の追悼ページができたら良いなと思案中です。写真作品だけでなく、ペーパーの青信号記事も復刻してデジタル化を考えています。
時々デジ青をご覧ください。天野君の記事にも近い将来出会えるかも知れません。
私も天野くんとは同級でした。飄々とした雰囲気がなんとも言えず心地よかったですね。「例の小部屋」と題する彼の小品を読みましたが、要するに落ち着けるところはどこか、の分析本だったように思います。以後ずっと、例の小部屋を活用させていただいています。ご冥福を祈ります。