〝三重連〟のメッカ 布原(ぬのはら)信号場
「布原の三重連」と言えば、蒸機時代を経験したことがない平成・令和世代にも、カーブした鉄橋をD51三重連が渡って行く、あのシーンかと頭に浮かぶことと思います。これほど左様に、布原信号場は、SLブームを象徴する撮影地として認知され、その狂騒状態は、SLブームの恰好のマスコミ素材ともなりました。いつも横目で見ていた私でしたが、話のネタにと、山陰旅行の行き帰りに三重連を見に行くことにしました(昭和46年9月)。
▲布原信号場は、伯備線新見~備中神代に昭和11年に開設された。備中神代から分岐する芸備線の列車も通るから、列車本数が多く、信号場の開設となったようだ。この時代、まだ客車列車があり、石灰岩輸送で貨物も多かったので、午前の時間帯では、一時間に3、4本の蒸機列車が見られた。布原付近には、両側から25‰勾配があり、とくに重量のある石灰岩輸送は、多くがD51の重連で、朝の1本がD51三重連となった。
D51三重連運転が行われたのは、足立にある石灰岩の工場から、姫路の飾磨港まで石灰石を輸送する貨物列車2492レで、布原を9:17に発車する。2492レは、積車が620tの重量貨物で、D51重連で牽引するところ、別の貨物465レを牽くD51が、回送機として先頭に付くため、三重連が実現した。
▲三重連の2492レの撮影は、岡山からは始発の941Dに乗れば間に合う。私は前日、加古川線、姫新線で写したあと岡山入り、待合室で寝て始発列車に乗って布原に着いた。当時は、まだ信号場だったが、客扱いを行っていて、時刻表にも記載があった。ただ、肝心の2492レは、回送機の本来の牽引となる465レが運休になる日が往々にあり、この日は、きっちり運休に当たってしまい、布原を発車するのはD51の重連だった。
▲西川を渡る鉄橋を、2492レをとらえる。橋脚は、一つは改修されているが、あとは煉瓦を巻いた古典的な橋脚だった。
▲2492レが去ったあとも蒸機のラッシュが続く。ただカマは、D51に、C58が少々で、集煙装置付きと、余り食指が動かなかった。左手に、その後、有名になる〝お立ち台〟が見えている。
▲米子区にDD54の投入が続いていた時代で、伯備線にも運用が広がっていた。922レ DD54 32+C58 247
▲信号場から備中神代寄りにも、何度も川を渡ってカーブか続く、好適地が続いていた。469レ D51 481+貨車+D51 838
▲西川の河原から布原信号場に入線する貨物を見る。左手に職員が待ち、短いホーム上には駅名標があることもわかる。
その日は、布原は午前に済ませて、午後は井倉付近で伯備線を撮ったあと、山陰方面に向かった。布原は一回だけで済ます予定だったが、やはり三重連が撮れなかったのは心残り、話のネタにするためにも、もう一度寄りたいと思い、予定を変更して米子から夜行「ちどり」に乗り、備後落合で下車、駅のご厚意で、留置中の客車のなかで寝かせてもらい、始発列車で布原へ再び下車、聞くと、この日は三重連との確証を得た。
▲まだ時間はあるので、布原の状況を記録したいと付近を回ってみた。もともと布原は、藁葺屋根の農家が点在する静かな集落だったが、あちこちに「三重連駐車場」が出来上がっていた。
▲三重連の写真やフィルムを売る売店も出現。▲▲新見市からの〝お願い〟、いまもネットを騒がせる撮影者のマナー問題はこの頃からあった。
▲三重連通過30分前の〝お立ち台〟の賑わい。ひな壇に整備された撮影地は、一様にアルミ地肌のスリック三脚に一眼レフを固定した撮影者が待ち受けていた。
▲人と同じ写真は撮りたくない、その思いで、はるか頭上に見えている国道180号へ直登することにした。ここからSカーブした布原信号場の全体が見える。
▲下りDCと交換して、9:17 2492レ三重連が布原を発車
過日、新型「やくも」に乗って、布原を通過することがあった。いまは、正式な駅になっているものの、あたりの風景は、三重連が走った時代と、変わっていないように思えた。
現在でも、全国に〝信号場〟はあるが、昭和の時代こそ、その真価を発揮した施設だったと、つくづく思っている。






総本家青信号特派員様
はじめて布原信号場に下り立ったのは1967年10月14日でした。軟弱ファンなので最初から時間の関係で三重連の撮影は諦め、秋の午後の半日を県道に沿って備中神代に向かって歩きながら撮影しました。そのため俯瞰写真が多く残っています。印象に残っているのは紅葉した山河の風景で、まさに童謡「もみじ」の世界でした。
布原信号場については後日談があります。出張でキハ181系の「やくも」に乗車した時あまりにも空腹を覚えたので、米子を出てすぐに食堂車に飛び込みました。出てきたのは生山を過ぎてからだったと思いますが、さあ食べようと思った時に布原信号場を通過し、減速しなかったためかポイントを通る時に目の前の食器があっという間に消えてしまいました。手品であればテーブルクロスが消えて食器が残るのですが、現実は全て床の上にありました。旅客は1人でしたので慌てて料理長と職員全員が飛んできて服の汚れや怪我を確認され、作り直してもらうことになりました。そして再度出てきたのは間もなく倉敷に着くという時間になりました。岡山での乗り換えの時に売店で「祭り寿司」を購入し新幹線の中で食べたことを思い出します。