リバイバル 急行ちどり 

毎度 新聞切り抜きで失礼します。芸備線広島・三次間に今週と来週の計4回走ります。「ちどり」あるいは「夜行ちどり」と言えば 木次線のスイッチバックを越えてゆく陰陽連絡のイメージが強く、三次止まりでは道半ばで もの足りませんが、結構な人気だったようです。車両は山口線用のキハ484と481004を国鉄色に塗り直し ヘッドマークを付けてキハ58時代を演出したようです。昨今のゴテゴテしたラッピング車に比べると 国鉄急行色の方が格段に上品に見えるのは私だけでしょうか。

平成25年9月1日 中国新聞朝刊

平成25年9月1日 中国新聞朝刊

リバイバル 急行ちどり 」への2件のフィードバック

  1. 「ちどり」とは懐かしい限りです。会社勤めを始めて1年半で広島への転勤となりました。そして業務で1ケ月に1回の鳥取営業所への出張がありました。その時にはいつも「夜行ちどり」を利用していました。まだ山陽新幹線も岡山止まり、中国自動車道もありません。
    夜行列車乗車は日当の半額が支給されますので、いつもグリーン車切符を購入して乗っていました。編成は4両だったと思います。芸備線、木次線、山陰本線を経由して鳥取へと向かいました。当時は鳥取まで乗り換えなしに行っていたと思いますが・・・。記憶が定かでありません。米子で乗換をしていたのか?

    車内はいつも混んでいて普通席車に入れきれなかった乗客がグリーン車にも押し寄せてきて、安眠を妨げます。時には肘掛けに座ってコックリやるものですから、列車が揺れると肘掛けから滑り落ちて、寝ている私に覆いかぶさってきた客もいました。若い女性なら大歓迎ですが、大概は田舎のおじいさんです。車掌はグリーン券を持っていない乗客は立ち席とはいえ、追い出す権限があるのですが、普通席車はすごい混雑です。黙認されることもしばしでした。
    鳥取着は翌日の勤務開始に間に合う時間で、とても都合の良い列車でした。1975年頃の話です。

    鳥取では1泊して翌日にまた広島に帰るか、時々は夜行急行「だいせん」や普通京都行夜行列車で帰省していました。広島戻りは「ちどり」の鳥取発はなぜかなく、米子で始発に乗り換えて広島着は早朝5時ごろだったと思います。広島のステーションビルにはサウナがあって、ここで入浴と休憩を取ってから直接出社しました。
    広島に3年半勤務してから大阪戻しになって以降「夜行ちどり」に乗車する機会はなくなりましたが、結婚した家内の出身地は三次です。昼間ですがキハ28・58の急行に乗って三次にはよく行きました。乗車する度に若かりし頃の思い出が蘇ってきたりしました。

  2. ぶんしゅう様
    思い出話をありがとうございます。グリーン車まで立ち客で混んでいたとは驚きです。当時は道路も悪く、夜行バスなどあるはずもなく夜行列車がまだまだ元気な時代でしたね。「ちどり」をはじめ「たいしゃく」「ひば」といった準急、急行が中国山地を走っていたことを思い出します。

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