同じく倉吉線

どですかでん氏の倉吉線がアップされた。確か須磨老人も倉吉線には1963年8月に行っている。しばらく土日なしの残業続きで、いい顔をしない係長に、ここ1か月以上休んでいないと捨てゼリフ?を残し、強引に旅立った記憶がある。ネガカバーの日付では姫新線、芸備線、木次線倉吉線、若桜線と撮影を続け、8月11~15日休んだことが分かる。

木次線、若桜線はずっと以前にアップした記憶があるが、今回のどですかでん氏に触発され、倉吉線のみご笑覧頂くことにする。この線の終点山守は無人駅で、DCしか行かなかったはず。車掌が手を伸ばしているのは、車内の忘れものを女学生に教えているのである。関金まではキハ07(トルコン装備で総括制禦)とキハ20の併結で、勿論07の扉は手動だが、20の扉操作のため、キハ20に乗務していた。

倉吉線C11逆行混合列車1963.8.14a

倉吉線関金1963.8.15a

関金朝の混雑1963.8.15a

関金到着のキハ07+20a

倉吉線山守1963.8.15a

こんな盲腸線でも乗客は結構多かったのは、写真でお分かりであろうが、時代を感じさせ、混合列車の客車はオハ60である。関金は現在のJTB時刻表末尾の旅館リストにもないが、実に鄙びた温泉で、お盆の真っ最中というのに、予約もなく飛び込んだが部屋はあった。露天風呂の浴槽は竹で囲まれ、半分に割った竹で水や湯を注ぎ入れて客が湯加減をする。全身汗みずくだったのを見かねたおばさん(女中さんとも言えず、恐らく近所の農家から繁忙時の手助けに来ていたのだろう)が、身ぐるみ洗濯してくれた。せめていくらかでもチップをはずむべきだったと、50年を過ぎた今では反省している。

 

同じく倉吉線」への2件のフィードバック

  1. 湯口徹様
    どですかでん氏の倉吉線記事に40年前の思い出話をアップして閉じたところ、更に10年遡った湯口殿のすばらしい写真が出現して驚きました。お盆も休ませてもらえないほどお忙しい日々を送られていた時代ですね。2枚目の写真にはキハ07に乗り込もうとするカンカンを背負った行商のおばさんが写っていますね。昭和38年の配置表を見ると、鳥取区には総括可能なキハ07213,214,215がいたようです。米子区には非総括のキハ07が2両の他06が9両、キサハ04が1両います。境港線用でしょう。木次区にも非総括の07が2両とキハ02が3両配置されていたようです。金太郎塗りのキハ07は木次線だけかと思っていましたが、倉吉線も金太郎塗りとは知りませんでした。米子局の塗り方だったのですね。終点の山守駅はDC1両分の短いホームの1本突っ込みの駅でした。起点から丁度20.0Km地点。路線延長もままならず キリの良い20Km地点に駅を作っておしまいにしたような終着駅でした。関金温泉は三朝に次ぐ放射能泉として有名ではありますが、昨今では訪れる人も少なく寂しい温泉になっています。倉吉線が現存していたとしても賑ったとは思えませんが。貴重な写真をありがとうございました。

  2. 湯口先輩
    いつも貴重な写真ありがとうございます。山守駅の写真を見ていると、草の匂いや草むらにいる虫の声などが聞こえてきそうです。女学生は忘れ物よりも湯口先輩をみて忘れ物をしてバツが悪く笑ってるような気がします。ちょうど、今では私の伯母さんぐらいになるのでしょうか。ところで西村さんのコメントにあった関金温泉が放射能泉ということから、近くにはウラン鉱床が発見された人形峠があることを思い出しました。

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