相模クハ1110と淡路交通モハニ2007

しばらくサボっていた間に田野城会長から、関三平センセの淡路交通と相模鉄道の、いずれも旧ガソリンカー改造車が紹介アップされた。これは最近音沙汰ない後期高齢老人を狙い撃ちし、ケツを蹴り上げたのに違いないと睨んだが、黙っているわけにも参らず、その実ニコニコと、会長の誘いに乗ることに。

先ず相模鉄道のクハ1110を。時は1936年、東京横浜電鉄は川崎車輛製120人乗り―関東では最大のガソリンカーを、しかもポンと8両一挙に導入した。急行として、しかも増発でも変電所の増設が不要で、車齢は多少短くとも利息含みで投資金額が抑えられ、トータル有利との目算であった。連結器含む全長は17,694mmで、戦前私鉄では最大だった江若鉄道キニ一統の18,736mm(機関GMF13)には及ばないが、私鉄唯一のKP170(GMH17)装着車であり、かつ左右対称3扉車でもあった。

東京横浜電鉄キハ2鉄道趣味第4巻4号(33号)

東京横浜電鉄キハ8西尾克三郎撮影上=キハ2 鉄道趣味33号(伊藤東作撮影) 下=急行運転中のキハ8(西尾克三郎撮影)

実は電車線にガソリンカーやディゼルカーを投入し、投資金額を抑えるとのセールスは、日車が先駆け、予想をはるか超える広い範囲に営業活動を展開していた。その中には標準軌間の九州鉄道(現西日本鉄道大牟田線)や大阪電気軌道、参宮急行も含まれ、各種のセールス用図面が残存している。現実の売り込み成功が瀬戸電気鉄道2輌、東京支店では丸子鉄道1輌にとどまったのは、その後石油消費規正が追いかけたことが大きい。

例えば山陽電気鉄道飾磨線1937年4月6日免許取得時点では、動力瓦斯倫だった。故亀井一男氏すらご存じなかったのだから、知る人は少ない。日車はまさか東京横浜電鉄までもとは、予想しなかったのか。まんまとライバルに大魚を攫われた次第であった。

でその東横だが、わざわざ会社定款の「電気鉄道ヲ敷設シ」から「電気」を抜き「鉄道ヲ敷設シ」と改めた程、ただならぬ入れ込み様ではあった。しかしいざ導入してみると、特に勾配区間での加速性能が電車に比し著しく劣り、ダイヤを乱すことが露呈。結構勾配があり、それも急行停車駅に隣接していると、ガソリンカーには不向きなのであった。スタイルは川崎車輛ならではの欧州風であり、妻面は嵌め殺しで、コーナーの三角窓を外に開いて風を入れる。

当初重連使用を見込んだが、結局はラッシュオフの単行走行に止まった。それでも、1937年度は405,664km走行し、ガソリン消費は232,818リットルで、1リットル当たり1.74km。1輌1日160kmしか走行しなかったから、到底投資額に見合ったものではなかったことになる。その年日中戦争が勃発し、石油消費規正が始まったから、不運な車輌ではあった。

神中鉄道キハ6大谷正春1940.12厚木神中鉄道キハ6 1940年12月厚木 大谷正春撮影

1939年東横は目黒蒲田電鉄に合併し、1942年東京急行電鉄に改称。辣腕で鳴る強盗慶太こと五島慶太は、この関東随一の8輌を自己勢力範囲に囲みこみ、6輌を神中鉄道に、2輌を五日市鉄道に分散。後者は南武鉄道に併合後買収、敗戦後鹿島参宮鉄道鉾田線にキハ42201、42202として再起したが、末年42201は両端を切妻食パンスタイルに改造し、2輌とも1976年廃車された。関東鉾田キハ651関東鉄道鉾田線キハ651+42202 1976年6月2日石岡 湯口 徹撮影

相模鉄道の本線ともいうべき旧相模鉄道部分が買収で相模線になり、残存した旧神中鉄道部分のみが相模鉄道として現存する。6輌のガソリンカーは代燃化、敗戦後1輌が廃車されたが、他の5輌はクハあるいはサハ化され、最終日立製作所通勤客車、日立電鉄、上田丸子電鉄クハに再々起した。

で、関センセ描く相模鉄道クハ1110はクハ1111~1115の5輌で、旧番はキハ3、4、6、7、1となり、クハ2501~2505に改番。2501、2505が上田丸子でクハ272、273になっていたのはかつて紹介した。日立電鉄に行ったのはクハ2502、2503である。

続いて淡路交通のモハニ2007を。敗戦後の石炭価格高騰、代燃の不良で、多くの内燃鉄道が電化に走ったが、淡路交通(淡路鉄道から1943年10月28日改称)もその一つで、電化は1948年2日11日。南海鉄道からオンボロ木製車5輌の供出を受けモハニ1001~1005に。自社ガソリンカー6輌中4輌の機関を外し、代わりに85馬力モーター2個を取り付けモハニ2006~2009に。2輌はクハ化でクハ111、112に。

淡路鉄道キハニ5宇山臼井茂信撮影

淡路鉄道キハニ5 宇山 臼井重信撮影 これはモハニ2008になった

関センセ描くモハニ2007は、最終増備車のキハニ6が前身である。1937年2月24日設計認可日車本店製、手荷物室付100人乗りで、2年前登場のキハニ5(→モハニ2008)と共に機関はGMF13だった。この2輌は同型だが、なぜかキハニ5の屋根カーブ半径が4,200mmなのに、キハニ6は3,000mmでやたらと深く、全高が3,830mmと、戦前私鉄では2番目の背高車(一番はディーゼルカーの長岡鉄道キロ1、2で883mm)であった。

なお端面は「びわこ」スタイルの流線型の高知鉄道キハニ2000~2002(→クハニ)が、同一窓配置であり、足回りは同じである。淡路交通モハ2007宇山1950.2.22江本広一撮影淡路交通モハニ2007 1950年2月22日宇山 江本広一撮影 屋根がやたらと深い 連結器はガソリンカー時代の水津式である淡路交通モハ2007宇山1960.11.4
直角カルダン化したモハ2007 1960年11月4日宇山 湯口 徹撮影 乗務員扉が設けられ左側妻が貫通式に

モハニ2007はその後制御装置を改め、直角カルダン駆に、手荷物室を撤去し、扉1個を埋め、モハ2007に。乗務員扉を設け、貫通化されるなどして、1966年10月1日廃止まで活躍した。

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