昭和の電車 改訂版(12)ー淡路交通モニハ1005ー

京都にいると「淡路交通」と書かれた観光バスを目にすることがあります。しかし、関先生も言われるとおり淡路島へはなかなか行かず、島ではどんな地位にいるのか分からない交通機関でした。もちろん鉄道部門など見たことも乗ったこともありません。前回掲載時に乙訓の長老様が関連したことを書かれたように思います。

前回の『鞍馬電鉄デナ1』は人気がなかったようで反応なし!
今回はさらに人気がないのかもと心配しています。

昭和の電車 改訂版(12)ー淡路交通モニハ1005ー」への4件のフィードバック

  1. 反応がないとお嘆きの米手さん。それでは少しばかり反応したいと思います。久しぶりの昭和の電車で淡路島の電車がでてきて、小学生のころに、この島の電車に乗ったことをすぐに思い出しました。夏の家族旅行で淡路島の洲本にある海水浴場に一泊の旅行となったのです。洲本へは大阪港から汽船で神戸に寄港して洲本へ行ったのです。海水浴は午後からです。そして、次の日は電車に乗って福良へ、そしてうず潮観潮です。当時、洲本から観潮に行く人は電車に乗って行くのでかなり混んでいたのを覚えています。まだ小学生なので海の底に穴が開いていて、そこから海水が流れ出るので渦ができると本当に信じていました。渦に吸い込まれるといったいどこへ行くのか、落ちて吸い込まれた人がいたのか不思議におもっていたのです。帰りは電車で洲本へ。洲本からは岩屋へバスで行き船で明石へ渡り、大阪へと帰ったのです。この旅行から数年たってからおふくろが言っていました。あの時、家に帰ったら財布に少しばかりの小銭しかなかったと。そういえばジュースを買ってと言ったのに買ってもらわなかったのです。なるほど、そのような理由があったとは。ところで淡路の電車は四国と本州を結ぶルートのひとつだったと思います。本州と淡路島は明石から播淡連絡船で。そして淡路島から四国の鳴門へは阿淡連絡船で。なかを取り持つ淡路の電車ということになるのでしょか。すでに電車はなくなっていましたが、阿淡連絡船、バス、播淡連絡船を乗り継いで大日帰り旅行をしたことがありました。

  2. 米手作市様

    『反応なし』と嘆いておられるようので、『それでは』と私も書くことに。
    先般は関先生に大変失礼な事をしたため、自戒を込めての謹慎期間中でしたが、これを急ぎ繰り上げ終了する事にしました。

    今回は『淡路』そのものへの反応です。
    我が幼少時、3年生に編入学した神戸の某国立小学校に在籍していましたが、この学校では1泊2日or 3日(なにしろ古~い話で、記憶喪失)の夏季の林間学校がありました。
    関西汽船で神戸中突堤を出航し、確か岩屋に行ったと思います。昭和26、7年の夏の事です。

    で、それがどうした!的な話でスミマセン。
    その頃は、淡路島に電車が走っている事すら知らず、ずっと後年になって阪神電車のお古が入線していると知りましたが、何しろ船で行かなければならない遠~い所の印象が興味を阻害していたような気がします。

    以上、お粗末さまでした!

  3. お二方様、
    反応、ありがとうございます!
    河さんの“勝手謹慎”には往生しました。でも、解禁していただき安心しました。
    ところでお二方も淡路交通にはあまりご縁がないご様子。
    でも、お二方がこれでは他の方々の淡路交通の写真やコメントは期待薄ですな。

  4. 初めて淡路島へ行ったとき、淡路交通電車は影も形もなくなっており、残念ながら思い出はありません。是非乗りたかったですが…
    北淡にいた兄弟なら撮影されている方は多いのでないでしょうか?
    ご披露を期待します。
    淡路島は、そのうち船での渡島も思い出の世界になりそうですね。

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