今回、「TOLERANCE」に乗車の目的は、参加者とともに被災地や鉄道の復興に思いを馳せることでしたが、私にとっては、もうひとつ大事な目的がありました。「大槌で新旧の定点対比をする」ことでした。大槌は、佐竹さんが大槌川を渡るC58の列車を撮られた場所であり、私も乗った急行列車の窓から交換する列車を写した駅でした。さらに、客車廃車体研究家の井原さんにとっても、高台からC58貨物を撮られた場所と、クローバー会会員には思い出の地であり、この3点の写真は、第三回クローバー会写真展「忘れない。東北-思い出の鉄路を巡る-」でも展示されました。
今まで大槌の訪問は、山田線の不通で、バスに頼らざるを得ず、「TOLERANCE 8」で大槌を訪問した際も、貸切バスの窓から、橋脚だけの大槌川橋梁や被災した大槌町庁舎を眺めるだけでした。今回のツアーでは、8年ぶりに鉄道が再開され、鉄道に乗って、自分の足で歩いて、大槌の現在を確かめることができました。▲高台から見た大槌の街、中央が新しくなった三陸鉄道の大槌駅、背後ではまだ防潮堤の工事が続いている。街は、全体がかさ上げされたが、かつての山田線の大槌駅もこの場所にあった。50年前にこの場所で見たものは‥‥。
▲釜石から乗ったのは仙台発釜石・山田・花輪線経由秋田行き急行「陸中」、東北地方に多かった多層階急行で、各所で分割・併結を繰り返す列車だ。大槌駅で列車交換のため数分停車した。ホームには、律儀そうな助役と、若手駅員が待ち構え、ボストンバッグを持った家族連れが列車の到着を待っている。漁業の盛んな地らしく冷蔵車も見える。交換する列車は普通列車のように見えるが、前のキハ52×3連は回送で、その後にキハ58系3連が付いた急行「そとやま」だった。この当時、東北、いや全国で見られた当たり前の風景が窓から眺められた。ここが、ちょうど40年後のほぼ同月、こんな被害に遭うとは…。(2011年デジ青記事より転載)。
▲同じ場所で定点対比したい。その思いでツアーのバス同乗を断って、一人で列車の到着を待った。駅の方に聞くと、土地はかさ上げされているが、駅そのものの位置は山田線時代と変わっていないと言う。たしかに左手の山の稜線は変わらない。駅名標も基準に、撮影ルールを守りながら、50年前との定点対比を試みた。残念ながら、ホーム上の人の賑わいは無く、車両も、三鉄のオリジナルカラーだったら良かったのだが。
佐竹さんご夫妻が、上記3点の写真を携えて、2013年に大槌町を訪問され、当時の町長に贈呈された。「京都のベテラン鉄道ファンが、鉄道全盛時代の写真を贈呈に来られた」と話題になり、地元の新聞・TVでも紹介された。その後、鉄路復旧のシンボルとして、町庁舎に飾られたが、その後、町長が交代し、大槌町の複雑な内部事情も絡んで、写真は一時所在が不明となったが、無事、保管・展示されていることが分かり、今回、その展示先の大槌町中央公民館を訪問することになった。
▲大槌町の中央公民館の一階ロビーに飾られている3点の写真を前に説明される佐竹さん。▲▲3人の紹介文も掲げられていた。▲▲▲大槌町の中央公民館、高台にあって、津波の被害は免れた。
まだ山田線を鉄道で復旧するかBRT化するか議論されていた数年前、沿線の自治体で「よみがえれ鉄路」写真コンクールがあり、上記の写真を応募したところ、佐竹さんの奥さまの写真が三陸鉄道賞、私の写真が大槌町賞を受賞し、一昨年の「TOLERANCE 8」運転の際には、釜石駅ホームの特設会場で、三陸鉄道社長も列席して、授賞式が行なわれたのも思い出深い。
▲三陸鉄道の大槌駅舎、何種類かの案の中から町民の“総選挙”が行なわれて選ばれた。“ひょっこりひょうたん島”ゆかりの地が近くにあって、ひょうたん形の屋根をしている。▲▲駅待合室には山田線時代の駅舎の模型が展示してある。▲▲▲駅前で見つけたナゾの廃線跡(?)、ほかの道路がすべて一直線なのに、ここだけ不自然にカーブしている。古い地図で確認したが、線路を見つけることはできなかった。
▲大槌を発車して大槌川橋梁へ向かう下り列車、重機やクレーンが立ち並び、まだ復旧なかばを感じさせる。▲悲惨な舞台となった旧役場庁舎は、解体されて、現在では芝生広場になり、中央に地蔵さまが安置されている。保存か解体か、町を二分する論議があって、工事差し止めを求める住民訴訟も起こされた。
▲釜石方から見た駅構内、山田線時代は二面三線、跨線橋つきの典型的な国鉄式配線だったが、島ホーム、階段なしの平面通路となった。
▲「TOLERANCE」を迎える皆さん。列車は回送で宮古から送り込まれた。列車はいったん2番線に入り、転線ののち、乗車する1番線に入った。これは、宮古方の出発信号機が1番線にしかないためである。いっぽう釜石方には、両方に出発信号機があり、どちらのホームからでも出発できる。実は、この設備、1ヵ月先のラグビーワールドカップを見据えたものと分かった。隣駅の鵜住居のすぐ近くにスタジアムができて試合が開かれ、大勢の観客が三鉄に乗って訪れる。三鉄も釜石発の臨時列車を増発するが、その際は大槌まで回送して、釜石方へ折り返すダイヤのため、信号機が増設されたそうだ。また三鉄の車両では足らず、JRから車両を借り入れて運転するそうだ。W杯がこの地域の起爆剤になればと願うものだ。
画像では青い空が見えますが、東北とはいえ暑くなかったですか。
私は大槌へは1969年8月17日に一度行ったきりで、川と築堤の位置は同じですが建物や町の様子はすっかり変わっていますね。
DCも撮っていましたのでご覧にいれます。636Dです。当時建設中のバイパス道路の崖の上、Googleマップですと 39.353310, 141.892818 あたりでカメラを構えました。鉄道も駅もずっと残ってほしいと思います。
井原様
大槌の思い出と写真、ありがとうございます。三人三様の写真を改めて感じています。この場所へも津波が襲ったそうですが、いまは新しい建物もできています。写真のようには、うまく見通すことができません。私が行った時も、暑かったですが、50年前もさぞ厳しい暑さだったと思います。
今月25日、釜石市の鵜住居復興スタジアムで開催されるラグビーワールドカップの臨時列車に記事で触れていますが、三陸鉄道のホームページでもダイヤが発表されていました。それによると、花巻発、釜石線経由の大槌行き「ラグビー1号」が運転され、これがJR車両の乗り入れになると思われます。また、釜石→鵜住居・大槌で臨時5本、戻りの大槌・鵜住居→釜石で臨時4本が運転されます。すべて、大槌での折返しで、大槌の出発信号機の増設が役に立ちそうです。
津波で被災した山田線時代の大槌駅については、現地を何度も訪問された山科人間国宝の奥さまも記録されていました。二面三線のホーム跡だけが残っていて、あとは一切ありません。そのあと、全体の地盤かさ上げが行なわれて、新しく三陸鉄道の大槌駅ができました。背後の山の稜線だけはかわっていません。