ブリル3軸台車

日本のボギー客車は当初台車共の輸入で、すぐ車体の国産化がなされたが、中には台枠だけの輸入もある。概ね1906年の私鉄国有化直前時点では、ボギー客車といえども台車とも国産化が通常だった。例外は九州鉄道が1907年7月1日の国有化前に発注した、連結器と車体幅以外100%米国スタイルの豪華5輌編成で、米国ブリル社からの輸入であった。到着したときは国有化後で、そのまま鉄道院の記号番号が付された。
「或る列車」鉄道趣味28号より
「或る列車」鉄道趣味28号から バッファーが独特な形状である

この5輌は機太郎なるペンネームで、「或る列車」として「鉄道趣味」誌28号(1935年10号)に、公式写真と共に生まれのいきさつ等が略記されたのが名高く、以後「或る列車」がこの5輌の固有名詞としてファン間に定着した。その後も何度か記事になるが、戦後では小熊米雄「旧九州鉄道の豪華列車 或る列車は走る」(鉄道ファン13号=1962年7月号)、「まぼろしの事業用車 よみがえれ或る列車」(鉄道ファン編集部、同誌231号=1980年7月号)がある。
実は小生も55年以上前、手書き(ガリ切り)謄写版でのDRFC会誌「青信号」の何号だったか忘れた(7~8号あたりか)が、これに関し駄文を形式図、写真入りで弄した記憶がある。というのは、鉄道趣味誌の記事には図面がなかったからだが、当時手持ちの昭和3年版客車形式図下巻では全車職用車に改造=室内設備が撤去済だから、高山禮蔵氏のお知恵を借りたりして自分なりに室内を復元?(勿論現在では不正確極まり、見直す気も起らない)した記憶がある。

九州鉄道がこんな豪華5輌編成客車を、いかなる目的で発注したのかはいまだに詳らかでなく、買収価格の増額を見込んだ駆け込み説もないわけではない。それというのも車体最大幅(屋根両端)が8呎11吋5/8(2,727.3mm=客車略図。後の形式図では2,737mm)で、九州鉄道大方のボギー客車は8呎6吋(2,590.8mm)、2軸客車には8呎8吋というものもあったが。
鉄道国有化により、1911年以降登場する制式ボギー客車(のち中型車)は8呎8吋(2,641.6mm)から始まり、翌12年に8呎10吋1/2(2,705.1mm)になる。先に記したように、広軌化が云々され、将来改軌可能設計として登場した大型客車は2,840mmから、2,900mmがその後長らく、半鋼化以降実に1955年ナハネ10出現まで続く。蛇足だが私鉄の場合は地方鉄道建設規程車輌限界幅の2,744mm(9呎)に縛られ続けた。戦時中はそんな悠長な原則論など言っておれず、特別設計なる「抜け道」で国鉄と同寸のC11や12、C58、D51などが私鉄にも新製投入され、数は少ないが大型木製、半鋼戦災客車なども私鉄入りする。最極端例が敗戦後の山陽電鉄へのモハ63型導入である。

ブリル台車に話を戻すと、鉄道時報1910年11月7日号時事欄に「善美を尽くせる客車 一台の製造費は五万余円」なる記事があり、以下冒頭部分を引用する。「鉄道庁が曩(さき)に日光上野間、新橋国府津間に於て試運転を行ひたる米国製大形ボギー客車は元九州鉄道が従来我国に於て余まり其例を見ざる多額の製造費を投じて米国マサチユセッッ州ワッソン会社に注文したるものなりしも九州鉄道の国有となると共に其侭鉄道庁に引継がれたるものにしてワッソン会社に於ては昨年来技師を督励して製造に着手し漸く今春に至り竣工を告げたれば大体の組立は米国同会社に於て之を施し横浜港に廻送し来りたれば鉄道庁にては本年四月以来新橋工場に命じて之が局部の組立及び各部の装飾を施しめたるが本年九月末に至り全く組立を完とし茲(ここ)に試運転を行ふに至りたるものなりと。而して此客車の種類は一等車、二等車、食堂車、寝台車及び特別車(九鉄にては之を社用車と称する予定なりしも鉄道庁に於ては之を特別車と改む)の五台なるが(中略)拾二輪車といふ大型ボッギー車にして之を従来のボッギー車に比すれば幅に於て三吋余広く重量に於ては約二十噸程多く(中略)其の室内構成及装飾といひ、有らゆる最新式に依り成れる宏大立派なる客車にて、従って之が製造費の如きも亦非常の多額を要し多きは五万三千九百余円、少なきも尚ほ二万五千九百円を費したる程にて、我が富度に比して贅沢極まれる客車なるが是れ全く仙石貢元九鉄社長の置土産とも謂ふべし(後略)」。句読点がなく延々と続くのは明治、大正期の新聞に特有の文体で、旧漢字は引用者が書き換えている。
なお記事中のワッソン会社とは、Wason Manufacturing Companyで、車体を製作したが、鉄道院→鉄道省形式図記載メーカーはブリル会社である。デッキは扉を閉めた状態でステップ部分が床面と面一(つらいち)になる米国式構造で、これは満鉄等にも採用されている。

展望車はプライヴィットカーであろう。米国なら珍しくないが、仙石貢が自分を含めた役員用に発注した?としても、如何にワンマン社長でも、我国ですんなり認められる話とも思えないが。鉄道院では特別車と称していたる。
かつて北海道開拓使は専用客車1「開拓使号」(→コトク5010→定山渓鉄道コロ1)を持ち、敗戦後占領軍たる米軍の各地司令官は、競争のように密閉展望室付きプライヴィットカーを改造させ悦に入っていた。それとて各1輌のみである。インドのマハラジャ、中国や満州の王侯、軍閥の親玉なども専用列車を持ち、現代ならお隣の北朝鮮ご先代「将軍様」列車が著名だが。

また脱線した。帝国鉄道庁→鉄道院は、外国人団体などへの特別貸切列車などへの利用を考えたようだが、お召列車(それも天皇の車中泊は敗戦直後の混乱期しかない)にでも転用しない限り、当時の日本ではいくら勿体なくとも使い道が全くない。営業列車としての活用は皆無ではないにしてもゼロに近く、空しく保管=閑居し続けた。そして1915年以降順次車内設備を撤去して職用車(エアブレーキ教習車)にあえなく改造されてしまう。5両の経歴は次の通り。
ブトク1(展望車)→ストク9000→スヤ9035→スヤ9960 廃車は1932.5門鉄
ブオネ1(寝台車)→スネ9030→スヤ9030→スヤ9973(9970)→オヤ9941(9940)→オル9971(9970) 廃車1956.2.1札サツ
ブオシ1(食堂車)→スシ9150→スヤ9031(9030)→オヤ9970 廃車1949.3東鉄
ブオイ1(1等車)→スイフ9240→スヤ9032(9030)→オヤ9971(9970)→オヤ9993(9990)→スル9940→オル9970 廃車1956.3.31大スイソ
ブオロ1(2等車)→スロフ9360→スヤ9033(9030)→オヤ9972(9970)→オヤ9840 廃車1956.7.1仙セン
以上( )内は形式で、その記載がないものは番号が形式である。エアブレーキが行きわたると教習車も無用の長物となった。

敗戦後では旧展望車が廃車後消息不明。旧食堂車は廃車になり、残り3輌は用品庫配給車及び配給車代用(仙鉄オヤ9840)になっていた。小生は札鉄のオル9971は見損ねたが、後の2輌―仙鉄のオヤ9840(長町)、大鉄のスル9970(配属は大スイソだが放出用品庫)は撮影している。
オル9971札サツ札幌用品庫1955.9.13佐竹保雄S
オル9971札幌撮影者不明S
オル9971札サツ(旧寝台車) 上 佐竹保雄撮影、下 撮影者不詳 湯口所蔵 上下(左右)で窓配置が違うのは、元来両端に側廊下式の特別室があったからである

オヤ9840仙セン1955.3.28長町S
オヤ9840(旧寝台車、この時点では配給車代用)1955年3月28日長町 湯口撮影 ステンドグラスは普通の透明ガラスに交換されている 両端デッキからだけの物品入れ出しは面倒だっただろう
オヤ9971新井文治1937.7.27吹田工場S
オヤ9971(旧1等車)1937年7月27日吹田工場 荒井文治撮影 最終オル9970
オル9970-1955.6.2放出用品庫S
オル9970大スイソ1955.6.29放出用品庫S
オル9970大スイソ 1955年6月2日/6月27日放出用品 湯口撮影 飾り窓を完全撤去

で、これは小生が発見したと信じているのだが、忘れもしない1957年3月22日。西鹿児島でキハ42000(トップナンバー)が一旦廃車後救援車ナヤ6566として復活し、改番でナエ2703となっているのを撮影するのが目的だったが、つい欲が出て、隣接の西鹿児島工場を飛び込みで訪ねた。助役氏が親切に対応してくれ(おおらかな時代だったねェ)、工場内入換の6761(形式6760)、C5185(煙突が外されていた)を撮って満足したのだが、構内でとんでもない車体を見つけた。足はなく、窓下は傷んで補修がなされず、住宅床材のフローリングと思しき板で長手方向に張り付けてあった。デッキ妻面も撤去されているが、これは四半世紀前に門鉄で廃車になっていた、ある列車の展望車の成れの果て、スヤ9960ではないか!
スヤ6690body西鹿児島工1952.3.22S
スヤ9960body1957.3.22西鹿児島工場S
スヤ6690body西鹿児島1952.3.22S
スヤ6690body西鹿児島工場1952.3.22S
スヤ6690窓部分S
旧展望車の成れの果て スヤ9960のボディを見つけた! 1957年3月22日西鹿児島工場 湯口撮影 ステンドグラスはなにやら不透明ぽいガラスに交換されていた

帰京してすぐ佐竹保雄先輩にご注進ご注進。彼(弟の晃氏だったかもしれない)もすぐ駆け付けた。九州在勤で彼の地の木製客車のヌシ?とされた故谷口良忠氏もご存じなかったのだから、発見者は小生に間違いないと思うのだが。恐らくは1932年門鉄で廃車後、ずっとこの西鹿児島工場に鎮座していたと思われ、車籍抹消済だから、公式書類に顔を出すこともない。小熊米雄氏が「その後車体は西鹿児島工場で薬品庫に使用」「昭和32年夏に取りこわされた」と記すのが鉄道ファン1965年8月号である。

話はまだ続く。この米国スタイルそのままの3軸台車は、他に25輌分のブリル台車と魚腹台枠をやはり九州鉄道が発注しており、国有後の鉄道院が引き取り、新橋、神戸工場でオトク、スイネ、スロネ、スシ、オロフの優等車、職用車の新製車体に装着した。最終的には手荷物車になり、京都客車区にはその1輌を種車とするオエ19920がいた。国有後の輸入車輌には米国からの形式8200(台次)→C52(テンダーは国産)、それにドイツからのDC10、11があるが、台枠台車だけの輸入はこれが最後であろう。
オエ199201955.6.28京都S
オエ19920大キト1956.2.1京都S
オエ19920ブリル3軸台車1956.2.1京都S
オエ19920とブリル製台車 上1955年6月2日/中・下1956年2月1日 京都 湯口撮影
ブリル3軸台車図客車形式図大正3年版付録
ブリル3軸台車略図 客車形式図下巻(1914年版)付録より

話はまだ続く。1955年3月20日南薩鉄道を訪ねた際、加世田に放置してあった木製客車群中にやはりブリル3軸台車を履いたスハフ100を見つけた。車体裾に2か所補強がしてあったのは、この部分に手荷物扉が開けられたスニが種車で、南薩で3等車に復元したことを示す。
南薩スハフ100になった払下げ車は公式書類ではマニ19704だが、これは丸屋根荷物車であり、形態がまるで違う。実態は神戸工場1911年製、最終マヤ19991=本来なら小倉工場救援車オエ19914になるはずの車輌が、振替えられて南薩に入った、ということであった。この客車は、2浪後再訪した時には台車をTR11に履き替えていた。
南薩鉄道スハフ100加世田1955.3.20S
南薩鉄道スハフ100台車交換後1957.3.22加世田S
南薩鉄道スハフ100 1955年3月20日枕崎/TR11換装後 1957年3月22日 加世田 湯口
撮影

ブリル3軸台車」への2件のフィードバック

  1. 湯口先輩様、
    何時もながら、貴重な資料を見せて頂きましてありがとうございます。
    「或る列車」のことは鉄道雑誌を見て知ってはいましたが、資料はもとより図面はないと思っていました。ところが身近な方がこれほどの写真をお持ちとは思いませんでした。学生の頃、模型を作ろうとしましたが断念しました。残念です。
    最近、JR九州が「或る列車」と称する特別車両を作って運行しているとか聞きましたが、キハ40系をそれらしいデザインで走らせているだけです。
    更なるご投稿をよだれを垂らしながら待っております。

  2. 近くに住まわれている某ご老人から「大切に保管するように」と拝命して、本棚の奥深くに初期の青信号を保存しています。カビ臭のする号を見返しましたところ、4号に「或る列車の最後、その再発見から全滅まで」のタイトルで載っておりました。誌面を見ますと、ナマ写真も貼られた力作でした。
    私もDRFCに入部したての時、BOXのスチールロッカーに置かれていた青信号をむさぼるように読んでいたことを思い出します。それから50年近くが経過し、さすがにワラ半紙に謄写版刷りの青信号には劣化が見られます。当会の先達が残された貴重な記事の数々を将来も語り継いでいくアーカイブス活動も考えていきたいと思っています。

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