木次線で盛り上がって、その間丸1か月空いてしまったが、その5を続ける。タイトルに従い高砂工場に行くためには加古川で高砂線への乗り換えが必要である。加古川には機関支区があり、当時まだ複線だった山陽本線鷹取以西は塩屋手前まで、国道2号線に沿い、海側に張り付いて走る。このため台風などの強風時は波をかぶるため電車の運行が止まり、加古川線のC12が客車共急遽出動して神戸―西明石間を臨時代行運転したものである。その後複々線化で海面を埋めて新たに2線分の敷地を確保し、防波堤ができてこのようなことはないし、第一近くに機関車や客車は一切ない。
その加古川に、何故かヒ=控車がいた。これは機関車が入れない可動桟橋などに客貨車を押し込む際、機関車との間の「控え」に使うのが本来だが、桟橋などあるわけない加古川ではどんな使い方をしていたのか、確かめなかった。ご存知の方のご教示をお待ちする。
ここの救援車は2軸車の形式エ790で、この形式には前身が客車と貨車と2種があり、これは残念だが有蓋貨車の改造である。客車の成れの果てなら板バネが長い。
もう一つ、3軸ボギー雑型客車ホハフ8806の車体が鎮座していた。これは山陽鉄道1947→ホハフ9666(形式9660)→ホハフ8806(形式8800)が経歴で、1948年11月22日加古川で廃車されたオープンデッキ車である。
で、やっとこさ高砂工場にたどり着くのだが、先に書いたように、ここは戦時中開設の工場で国鉄高砂線(旧播丹鉄道高砂線)の終端駅高砂から猛烈に離れており、山陽電鉄荒井が正門前に位置する。だから高砂線を一つ手前の高砂北口で降り、山陽電鉄に乗り換えて西に一駅で荒井なのだが、そのためには10円払わにゃならん。その10円が惜しくて真夏の炎天下、1浪中の若者は日本脳炎を発病する危険を冒してテクテクと歩いたのであった。貧乏はイヤだなぁとはつくずく思うが。この時職員通勤用にはホハ12278(名ミオ=美濃太田)が使われていた。妻面にEとあるのは、A~E五段階評価で状態最悪を示す。側面に補強がなされているのをご覧あれ。
高砂工場の入換用形式230の237は火を落としていた。救援車は3軸ボギーの中型オエ19917と、大型のスエ29901である。当時シャカリキで製造されたオハ61系のため、台枠、台車、連結器を使うために解体を待つナハ22032がいた。この時点では車体を台枠から分離し、何と石油をブッかけて燃やていた由で、広い工場内だから消防署のお世話にもならなずに済んだのである。
ホヤ16810/16950は試験車で、片側が展望台になっており、片側台車の内側のフランジレス車輪は普段釣り上げてあるが、試験時は下して正確な回転=距離や速度を検知できる構造である。番号が二つ併記されているのは改番(1953年)のためで、一時的に新旧を並べて記し、慣れたら?アンダーラインの方を抹消する。気動車や電車でもこの方式が採られていたが、昨今では改番自体が滅多にないから、当然見る機会もない。展望台に接している無蓋貨車の背が高いのにお気づきと思うが、これは戦時設計の3軸車で、ボギー並の荷重を強いられたトキ900形式である。敗戦後では1950年代後半ぐらいで姿を消した。
この時はサハ6400が入場してキサハ改造に着手していた。これはキハ43000系3連の中間車キサハ43500だったのだが、以前記したように、この流線形ノーシルヘッダー3連電気式ディーゼルカーは、致命的に機関出力が貧しく、故障続きで試運転で早くもつまずき、細々と武豊線で働きはしたが、いくばくも走行せぬうち燃料入手困難を名目に放置。現実には同じ国鉄内でも自動車局はディーゼルバスをどんどん入れていたのに、誇り著しく高い工作局エリート技師は、自分たちが誤っていたとは絶対に認めることはしない。そして戦前国鉄のディーゼル車輌は、何一つ成功したものがない。理由の一つには、機関が(DB10以外)ことごとく「それだけのため」に新たに設計されたものだったことがある。これは当然高価になり、かつ熟成とはおよそ無縁であった。
浜松工場保管中に戦災にあい、キハ43000、43001の2両は内装を焼失して鋼体のまま、流線形前面を突き合わせて浜松工場の通勤用に使われていた。戦災を免れたキサハ43500のみは、台車をTR11に換え、飯田線でサハ6400としてかろうじて稼働していた。それを高砂工場で元の台車に戻し、ドアも自動化し、キサハ43800からキサハ04301として、10年ほど関西線で働いた。
高砂工場は旧陸軍砲兵工廠跡に1947年開設だそうです。職員通勤用客車は、その後加古川線から和田岬線に貸し出されていたナハフ14070(←播丹鉄道ホハフ500、雑型ナユニ5672の台枠、台車に1941年7月鷹取工機部で中型並丸屋根木製車体を新製)が廃車後交代しました。この車輌に関しては以前に記しました。
話は全く関係ないのですが、高砂工場は1980年頃閉鎖され、職員はひとまず鷹取工場が引き取り(というより収容)ました。しかし人数が増えたからといって相応の仕事があるわけでなし、超大量の余剰職員を抱え、当然士気も衰える。
1981年7月神戸でユニバーシアード大会(大学生のオリンピック、種目数は少ないが全世界対象)が開催され、各競技場や通訳等に、大量のボランティアを募集した。鷹取工場の労務担当者から、ともかくヒマでヒマで労務管理上ホトホト困っている。競技場等でのボランティアとして、組織ぐるみで使ってくれないか。各人国鉄組合員証で交通機関は無料で乗れる(そんな時代でした)から、交通費はいらない。弁当は現物を支給してくれれば、という話が持ち込まれました。正直言って烏合の衆の傾向がないとはいえない一般募集ボランティアより、組織された集団の方が間違いなく確かな戦力ですから、喜んで受け入れ。
ところが本局から、交通費を辞退するとは何事か。ちゃんと所定額を組織委員会から受領し、一括して本局に納入せよ、との横槍が。結局は一般ボランティアと同様の出費にはなりましたが、しっかり働いて頂いて本当に有難かった記憶が鮮明です。もう四半世紀前になりますが。
その鷹取工場も閉鎖されて久しく、広大な敷地には公園、ラグビー場(使っているのはあんまり見ないが)、スーパー、学校、幼稚園、病院、マンション、戸建て住宅等々が建設されています。共同住宅群には敷地、建物入り口等に貨車の車輪や、レール、枕木のモニュメントがあるのですが、今ではここが鷹取工場跡地と知る人も少なくなりました。
鷹取のヤードや貨車区跡はコンテナー・ステーションになり、滅多にないがほんの時折、川崎重工製電車が甲種輸送で顔を見せることがあります。海側の駅本屋からは山側の北口(旧工場跡)に抜ける地下道が作られ、その壁面には義経号はじめ機関車のレリーフがあります。ただ大勢が働いた頃は山ほどあった飲み屋の類はほぼ全滅し、海側の駅前にお印ばかりが残るだけ。これは三菱神戸造船所、川崎造船所近辺も同じですが。
湯口先輩様、
先日、広島大会に参加の折、鷹取を通りましたがどこを見ても工場が見えずどこへ行ったのか?とおもっていました。あのビル群が工場跡地でしたか!