今日オープンした京都鉄道博物館に、ピカピカになった233号機(形式230)が展示されている。この機関車は戦後高砂工場に同型機2輌と共に働いていた。時は1955年7月16日、浪人1年目の若者は親の目を盗み、山科3時51分発下り111レに乗車。これは東京を前日14時25分発、京都着4時ちょうど、20分発で、兵庫6時23分着。ここで下車して和田岬線の木製客車群と号B50を撮り、電車で鷹取へ。鷹取工場で木製救援車、義経、旧大日本軌道小田原支社の7号「へっつい」機、田野城前会長が以前この欄に記された若鷹号、エトセトラを撮り、高砂工場へ。乗換の加古川で、貨物列車に233号機が回送で連結されていたのに遭遇した。恐らく鷹取に入場途上だと思う。高砂工場は高砂線高砂からかなり離れており、山陽電車に乗ればいいのだが、何分貧乏受験生で、10円だったか15円だったかをを惜しんで真夏汗をふきふき2キロぐらい歩いたか。ここでも木製救援車と、同展望車(試験車)、それにたまたま居合わせたサハ6400(旧キサハ43100)を撮った。キサハに改造のため入場していたのであった。
浪人中だというのにこんなことばかりしていて、もう1年浪人を重ねる羽目になったのは、正しく身から出た錆だが、61年前を懐かしんで投稿する気になった。
湯口先輩様、
何でも有りますなぁ!
この写真を鉄博へ貸し出したら如何ですか?いやいや、あの官僚的はJR西日本の広報課員が「一般からの資料は必要ありません!」と威張って言うに違いないからやめましょう。
私としては、文中の“和田岬線の木製客車群と号B50”と“木製救援車と、同展望車(試験車)”と“サハ6400(旧キサハ43100)”の写真を是非とも公開して頂きたい。
京都鉄博開店記念にお願いします。