乙訓ご老人から名指しがあったからには、この世捨て人とて何ぞ申さねばならん。で、車体幅の狭い比べだが、諸兄もし拙著「花巻電鉄(上中下)」RM LIBRARY176~178をお買い求めいただいておるならば、上巻(176号)23頁をお開き下され。「主要狭幅車輌数値比較表」があって、幅福島交通軌道線(信達軌道←大日本軌道福島支社を改軌電化)の車体幅最大5呎6吋(1,676.4mm)とある。
この電気軌道は動力変更、3呎6吋改軌は鉄道聯隊の演習として実施したのだが、道路横断定規を改定しなかった=できなかったとは、道路の拡幅がなされなかったことに尽きる。軌道での車体幅は、併用する道路の「残り幅」で車体最大幅が決まるから、「へっつい」機関車が牽引していた客車の幅を、電車になっても拡げられなかったのである。
拙著表から福島より狭いものを探すと、沖縄馬車軌道1,440mm、日本硫黄(沼尻=旧耶麻軌道)の最も古い客車1~3が4呎10吋(1,473.2mm)、現在の富士急行が1067mmで開業する以前の冨士電気軌道(軌間2呎6吋)、それに笠間稲荷軌道(軌間2呎)が5呎(1,524mm)、花巻電気の軌道線4、5が5呎3吋(1,600.2mm)とある。動力が人間様の人車軌道では、4呎(1,219mm)程度もザラである。もっとも初期の車輌寸法は呎吋ではなく、尺寸が多いが。
現在でもバリバリ営業中の黒部峡谷鉄道だが、恐らく今では使っていない無蓋貨車改造の開放客車が1,640mm、三井鉱山神岡鉄道(軌間2呎)が1,650mmであった。これらを比較すると、福島交通の1,676mmとは、「3呎6吋の電車」としては著しく狭かったことが分かる。なお明治期―それも早い時点で開業した路面電車は、京都電気鉄道を含め6呎(1,828mm)が多かった。なお常識的な「軽便」では、車輌最大幅=車輌定規最大幅は7呎(2,133.6mm)が大方で、これは地方鉄道建設規程が定めている車輌定規の寸法だからだが、例えば1067mm改軌前での小坂鉄道ディーゼル機関車DC3、4は、勿論特別設計許可を得ていたが2,430mmもあった。
ところで、日本硫黄沼尻鉄道の無蓋貨車の写真があるので、ご愛嬌にご披露申し上げる。要は40輌あった沼尻名物の硫黄運搬用三枚側無蓋貨車セタなのだが、その最大幅1,540mm、実幅1,4656mm、内法1,390mmを実感頂くだけの目的である。だからなぜか貨車に乗車している若者3名はどうでもいいわけで、その名はプライバシーとして特に秘しておく=詮索も無用である。左の1名が手を下に伸ばしているのは、マイクで録音中なのである。撮影は1964年1月2日であった。
湯口 徹様
早速のご報告有難うございます。人車軌道や馬車鉄道まで頭がまわりませんでした。尺貫法はピンときませんが、昔の相撲取りや職業野球のメンバー表では尺貫法による表記のものを見たことがあります。格好のいい湯口様の身長に近い値ですが6尺が1m80cmくらいであったと記憶しております。掲載いただきました沼尻鉄道は磐越西線撮影の折、川桁の旅館に泊まり、その時駅前付近に放置されていた客車をかろうじて撮っています。えらい小さな客車に見えました。その後耶麻郡猪苗代町にあったスキー場を閉鎖する仕事で現地に時々出張したことがありますが、その時に知り合った古老は沼尻の運転士でした。ところで写真中央で寒そうにジャンパーに手を入れて立っておられる方は電車少年から電車青年になられた方でしょうか。
須磨さん、薀蓄を傾けて頂き有難う御座いました。RM176に詳細掲載されていたのを見落として居りました。また老人の若かりし頃の姿を開示して下さり重ねて御礼申し上げます。写真を見てスカタンに気がつきました。木製の火床は客車内に設営されていたのですね。恐らく座席満員で若者は貨車に追いやられた?のでしょうか。または録音技師のくわえ煙草で狭い車内に遠慮したのか、当時の若者の姿が彷彿されます。老人は当日、単独行動を取り福島で沈没していたと思います。確か8ミリ撮影器を兄から貸りてウロウロしていたように思います。そして郡山で合流したように思います。当時のメモ一切を1983年の陋屋改築工事の際に消失しましたので、老人にとっては貴重な写真んとなりました。有難う御座いました。重ねて御礼申し上げます。