山科大築堤を行く鳥羽快速440レ 本務機C57110 後補機C51101 1956.1.9
右端の古枕木柵は、花山地区住民が京津線御陵駅への日常交通路として、築堤犬走を歩行しているのを遮るためだが、効果は全くなく、すぐ別のバイパス?が作られた。左側直線部には架線支柱が建っている。C57110はC51101共この年10月15日参宮線六軒での大事故で大破するが、C57110はその後復旧した
上の440レ後尾から。直前に投身自殺があり、左側複数の人物はその処理班。当時人身事故での列車ダイヤ乱れは極少=ほぼ即時回復した
姫路-鳥羽間の快速列車1往復は、詳しく調べていないが昭和初期に設定され、列車番号は終始440、441。戦時中は恐らく伊勢神宮参拝客輻輳のため2往復に。戦局不利になった1943年12月15日訂補ダイヤでは、京都-鳥羽2往復になり、何故か宇野-鳥羽1往復がある。1952年9月1日訂補ダイヤでは京都-山田、京都-鳥羽各1往復、1953年11月11日改正では3440、3441レとして姫路-鳥羽1往復が復活している。
ついでに記すと、1930年10月1日改正ダイヤでの440レは姫路発6時45分、京都9時04分、鳥羽着11時50分で、5時間05分。1934年12月1日改正では5時25分/10時36分で5時間11分、1942年11月15日改正では442レとなって6時44分/12時20分で5時間36分と、なぜか時代と共に若干だが遅くなっていく。小生が乗車した時点=1964年10月1日改正では列車番号も2442レになり、姫路6時23分始発、大阪8時01分着/07分発、京都8時44分着/52分発、草津9時23分発、亀山10時40分着/48分発、伊勢市11時52分着/54分発、鳥羽終着12時11分で、都合5時間48分と、かなり遅くなっている。帰路の2441レは鳥羽発15時30分、姫路終着20時56分で、5時間26分を要している。なお国鉄はその後これでもかとばかり各線にディーゼル特急を設定するが、この鳥羽行き列車は準急にもならず、最後まで「快速」で終始した。
小生が山科に住んだのは1945年12月からの15年間だが、この鳥羽快速はなぜか殊の外印象が濃い。気付いたころはC51がオハ31系ばかりを牽き、それはそれでよく似合った列車であった。草津線柘植行と大差はなかったと記憶するが、その後オハ35系主力に、多客時は補機が付き、牽機もC57に、さらにその後は補機が常態に。1955年前後では、この山科大築堤を走る上り列車として、恐らくC62牽引の特急「つばめ」、「はと」と共に、最も早かったように思う。なぜなら、国道2号線に面したボロ自宅の2階ガラス窓が、この3本の上り列車に限りブラスト音にビリビリと共鳴したからで、C59牽引の臨時特急「さくら」では起きなかった。
1960年12月塚口に転居してサラリーマン生活に入り、重澤ダンナと共にかつて本稿にも記したサンパチ豪雪雪中横断などをやらかし、またセッセと小海線野菜貨物列車を撮影したりしていた。1964年も押し迫った1日、思い立って鳥羽快速に初めて乗車する気になった。当然ながら東海道線は全線電化済だから、姫路-草津間はEF58で、そこからはC57重連というか、前補機付になる。
草津でEF58からC57重連に。1964年12月30日
途中貴生川で準急「平安2号」と離合
亀山到着
機関車乗務員もここで交代
2012年夏、須磨の大人から鳥羽快速の写真を総本家さんにデーターを送ってもらい、この年の老人の日に開催された下鴨小学校学年(昭和20年4月、下鴨国民小学校入学)同窓会で使わせていただいたこと、思い出すと共に改めて感謝の意を表する次第です。何に使わせて頂いたかといえば、この年は乙訓の老人のクラスが同窓会の幹事役で、その幹事から「タコ(小学校時代の渾名)よ。うちのクラスらしい話をぶってくれ!」と相談をもちかけられた。「そうだ汽車、電車に乗って遠足に行ったときの話しにしようか?ともちかけてみたら、「まかす!」となったので特派員さんの協力を得てDVDを制作してもらった。中心となったのは6年の時に乗った夏の津海岸(阿漕浦臨海学校)と秋の修学旅行(伊勢神宮参拝)であった。恐らく汽車に乗ったのが始めての学友が7割以上あったのではなかろか。枕投げにまけないぐらい汽車に乗ったことの喜びで、大騒ぎになった。大学時代に鉄道趣味中心の生活を送っていたことなど知らない同級生が殆んどであったので、「タコさん、あんた何処で汽車の運転手してたの?」との問いかけもあった。
皆さんも機会あれば小学校同窓会で汽車、電車の話をご披露されては如何。
貴重な鳥羽快速の写真、見せていただき、ありがとうございます。架線の無い山科の空のなんと広いものだと感じました。本務、補機とも、六軒の事故に遭遇するとは運命を感じました。鳥羽快速が、特急並みに早かったことは、山科の人間国宝からも聞いたことがあります。
私のような世代で、京都に育った人間にとって、最初に鳥羽快速に接する機会は、小学校の修学旅行ではないでしょうか。朝、学校に集合して、京都駅へ向かうと、絶妙の時間帯に列車が来ます。車内で騒いでいたので、途中の様子などは全く記憶がありませんが、ただひとつ、客車が板張り背摺りの61系だったこと、ほかの東海道の客車列車が、だいたいモケット背摺りの35系が多かったのに、格差を感じたものでした。
小生も小学校6年の修学旅行はお伊勢さんで、他の京都の小学校同様、鳥羽快速利用でした。
丁度伊勢湾台風(古いなあ)の直後だったため、鳥羽快速は松阪止めになっていて、そこから先は近鉄のモ2300だったかの荷物室に乗っての伊勢入りでした。学校の事前説明会で聞いて楽しみにしていた三重交通神都線は、台風の被害により運休になり、がっかりしたことを憶えています。
復路も松阪からの快速利用でしたが、松阪まで近鉄に乗ったという記憶がなく、何故か客車の「多気行」なる行先札が記憶にあります。多分客車で多気へ向かったのだろうと思いますが、以降松阪までの記憶がありません。
往復の鳥羽快速はもちろんSL(当時は東海道線脇で見ていたC59とC62しか知らなかった)であったことは認識していましたが、復路の亀山から後部補機が付き俄然興奮してきました。ほどなくして喘ぎ喘ぎ坂を上りはじめたことをしっかり憶えています。後日DRFCに入り、そこがあの有名な「加太」だったことを知りました。なおこの時は草津線内でも客車の電燈は点いていました。
台風が来ていなければ神都線の電車に乗れていたはずで、同線はまもなく廃止されてしまいましたから、その後乗る機会はなく、いま思っても残念なことでした。
本当に懐かしい『鳥羽快速』のお話です。当会で小生が自慢できることは、鳥羽快速を一番沢山に利用したということでしょう。1951年から1967年までの住まいが、山陽電鉄の東須磨。1960年入学後、2時間目からの講義時には東須磨-兵庫(当時兵庫駅は通過)-神戸7:30-(442レ)-8:52京都間を利用しました。神戸駅入線ホームが一番北側の1番線(当時の『銀河』の出発線)だったような記憶もあるのですが、少し曖昧です。
就職後、工場実習期間は間に合わずでしたが、技術部配属後は東須磨-兵庫7:23-(2442レ)-8:01大阪で利用しました。また、下りは大阪19:23-(2441レ)-19:59兵庫で帰りが少し遅くなった時に利用しました。この時期は兵庫駅に上下共停車しました。
1930(昭和5)年に運転開始と聞く『鳥羽快速』は、1965(昭和40)年2月28日をもって運転を終了しました。加太での鳥羽快速の撮影はこの最終日を含めわずかに2日だけでした。最終日に大築堤で撮りました。後部車両から沢山のファンが顔を出し大カーブを通過して行きました。牽引はC57148【亀】でした。
その日の下り列車、最後の加太越えには、加太会員全員と共に関駅まで戻り乗車しました(加太駅は通過)。牽引はC5797【金沢?】でした。車内には顔見知りの鉄道ファンが、既に乗車していました。故奥野利夫さんや高山さんなどなど。小生は兵庫駅で下車し、永久にお別れしました。
優等料金を取らずにこれほど長い間運転された列車も珍しいことでしょう。湯口先輩の、この『鳥羽快速と参宮線山(下)』の稿が終わってから、最終日の鳥羽快速の写真をお目にかけます。
老人の鳥羽快速(伊勢えび快速)乗車はtsurukame氏のように通勤で利用する等の機会はなく、京都人にとっては平凡なものであったが+アルファの部類であった。最初は小学校6年夏休み
7月27日出発(2泊3日)の臨海学校であった。量は忘れたが米3日分を布袋に入れたのをぶらさげ出発、客車はスハ32に寿司詰めの思い出がないのは、宿舎(阿漕小学校)の朝コッペパン、昼ふかし薩摩芋、夜は麦飯で、なんだか騙されたような気分(先回コメントで紹介した学年同窓会での反応)になった思い出が作用しているのかもしれない。
次いで修学旅行はこの年の10月31日。この時は大阪の3月空襲で当家の向かいに疎開してきた同級生が、11月01日に大阪の借家に引越し、最初の登校日となるために登校命令が出たので泣く泣く参加不能となった。彼の泣きじゃくる姿に貰い泣きもあった。京都駅から2両スハ、1両のスハフの増結のC51の後押しは100号機であったと覚えている。この時は参加できない友に、有志が小遣いを出し合って生姜糖(紅白一組)を買って、老人が届けた。(これも先日紹介の同窓会での思い出話:大阪から受領の本人が参加)
同志社入学後,母の墓開きが田舎(奈良県)で有った帰路1957年、一人居残り鳥羽から快速乗車で帰京した。1958年11月3日、近鉄名古屋線が広軌化されると奥野師匠に教えられ、名古屋線車両の撮影で南下、津で鳥羽快速に乗り換え帰京した。
一回り上の姉は修学旅行のみ、9歳上の兄は臨海学校のみ(終戦直後で運転中止)の乗車。
以上が当家の鳥羽快速の乗車記録である。