兵庫・鷹取工・高砂工・姫路1

浪人1年目の1955年、どうしても勉強は手につかず、予備校に行くと称して家は出るものの、若い大学院生教官の日本史—―といってもほぼ試験には出ることもない明治・大正・昭和期の講義を除き、専ら映画館に入りびたり、あるいは木製客車をせっせと撮っていた。この時点日帰りで木製客車が撮れるのは、放出、梅田、神戸港用品庫の配給車、機関区、客貨車区の救援車以外の営業用客車といえば、兵庫=和田岬線、姫路=播丹線/姫新線ぐらい。やはり事業用車より営業車のほうがいい。

で、ある夏の1日、山科を3時51分に発する111レに乗った。この列車は東京を前日14時25分発、終着は門司22時03分=勿論普通列車で、6時25分兵庫で下車。和田岬線(正式には山陽本線の一部)の通勤用に「一山」客車が居り、全部木製車である。この線は三菱重工の通勤用であり、神戸市中央市場への貨物、川崎車輌からの甲種輸送が主で、かつては鐘紡も工場があったが、この時点では競輪場(その後神戸市電和田車庫から交通公園、サッカー場)になっている。旅客列車は朝夕通勤用3往復、計6往復。

その木製客車が多種多彩で、戦時中優等車を格下げしてサイドに引戸2か所を設けた形式ナハ13500がもっともふさわしいのだが、やはり格下げで形式ナハ10000にぶち込まれたものも居る。中でも異色は木製ながら丸屋根の、播丹鉄道ホハフ500買収のハフ14070である。これは沿線に陸軍の演習場や戦車聯隊、病院等が山ほどあった播丹鉄道が、代燃ガソリンカーだけでは足らず、国鉄ナユニ5672(←ホユニ8682←ユボフ14、神戸工場1909年製)の台枠、台車に鷹取工機部で中型並の木製車体を新製したもの。両端がロングシート、中央部が6組のクロス、定員105(内座席75)人、便所洗面所はない。

ナハ13511大タカ1955.7.16兵庫S

ナハ10064大カコ1955.4.22兵庫S

ナハ10064大タカ1966.4.22兵庫S

ナハフ24614大タカ1955.7.16兵庫S

かつて国鉄は私鉄買収に際し、使う使わないは関係なく、全車両を引き継いで車籍に入れ、形式番号を付した。これは財産管理上からだろうが、全く使わないまま廃車した車輌も少なくない。しかし戦時中ではあらかじめ引き取る車輌を事前に選別し、漏れたものは(時には買収以前に)車輌不足に悩む私鉄に譲渡していた。そのため、播丹同様沿線に饗庭野演習場等陸軍施設がいっぱいあった江若鉄道が、早い時点でこのホハフ500に目をつけ、しつこく払下げを申請したが、国鉄は手放さず、代わりに蒸気動車の抜け殻客車を2輌渡したが、1輌はほぼ役に立たず、1輌も敗戦後すぐ廃棄されている。

ナハフ14070大カコ1955.7.16兵庫S

兵庫・鷹取工・高砂工・姫路1」への1件のフィードバック

  1. 湯口 徹さま 
    小生、毎日欠かさず『デジ青』を拝見させていただいており、クリックするのが日課となっております。
    『デジ青』は専門性が深く、素人に毛の生えた程度の小生如きは出る幕が無く、専ら勉強させていただいております。 
    さて、貴殿のダブルルーフ木製客車に関する投稿ですが、心にハットさせられる物があります。 
    1942年生まれの小生は、年代的に貴兄より一時代後輩と思われ、木製客車の全盛~終焉には間に合いませんでしたが、それでも一部の残党には会っております。 
    それ等は当然客車としてでは無く、エやルでしたが、そのダブルルーフ姿や側面の縦じま模様?は貫禄充分で甚く感動しながらカメラを向けた覚えがあります。 
    ただ、上記の通り、残党しか目にする事ができなかった事もあって物にした写真の数も少なく、系統立てて記録出来ておらず、保存の資料写真の中から探し出すのも一苦労と言った感じです。 
    今回の貴兄の記事&写真、堪能させていただきました。

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