1958年2月神戸

まさか神戸に就職し、はては神戸の住人になるなど露想像もしていなかった学生時代―59年前に、何思ったか神戸に撮影に来たことがあった。綺麗に忘却の彼方であったネガが、家人からの「終活」圧力が原因で見つかり、今回ご披露申し上げる。ネガが傷だらけで、従前プリントしようという気も起こさなかったが、デジタルのお蔭で、まあデジアオでご笑覧戴けるぐらいにはなった。撮影は1958年2月27日である。

現在の山陽本線は複々線で、この写真でなら防波堤の海側を埋め立てて上下複線を貼り付けたものである。写真でD6214牽引上り貨物が走る線と、その左側は現在列車線で、新快速とコンテナ貨物列車、特急が走っている。なおこの当時台風等で海が荒れると、しぶきが防波堤を越し電車は須磨で打ち切りになり、以西明石(地平駅だった)までは加古川線からC11と客車が応援に入って往復していた。

この塩屋垂水間も当然複々線になり、かつ国道の左側は大規模に埋め立てられ、下水処理場と緑地になっていて、国道からは海が見えない。

鉢伏山に山陽電車が遊園地を開き、須磨浦公園駅を設けてロープウエイが営業していた。別段興味はなかったが、山の上から山陽本線が見えるじゃろうと登ってみた。生憎天気が急変して僅か1枚撮ったのみで退散。現在と比べると、海岸に漁業組合の海苔養殖棚が全くない。その後須磨海岸で花火大会が実施され、それをこの山の上から見たことがあるが、花火というものは下から見上げるべきもので、見下ろしでは面白くも何にもないことも体験した。さらに海岸で若者が夜中に花火をする苦情が山積し一切禁止になり、花火大会も神戸港になった。事のついでに記せば、下の俯瞰風景の左端中段あたりに藤田ガーデン(旧藤田男爵の別荘)があったが、それが現在の老人の住処(270分の1だけだが)である。

上の写真でやや右寄り、かすかに見える白いのが下り列車の煙なのだが、天気が回復しないので撮影は諦め、三ノ宮へ。

三ノ宮駅は乗降数に比し今でもショボいが、この時は猛烈にショボかった。電車はオール73系である。

手前に「大作揃いのOK映劇」なる看板があるが、これが現在のセンター街に面していたのである。右方の煙突は風呂屋で、1961年神戸に就職した小生は、梅雨時の水害を取材に行き、腰下まで泥水に浸かったことがある。勿論執務時間中だったが、事務所に帰ったら、係長がセンター街の風呂屋に行って清めて来いと送り出してくれた。なお当時の国道2号線は高架の南側(手前)で、その南側はバラック街の「ジャンジャン市場」。バクダンと称する、得体は知れないが、ともかく「安い安い酒」が飲めたものである。飲み過ぎると頭にくるので「兜正宗」なるあだ名があり、今から思えば猛烈な安酒(エチルアルコールを薄め若干味を付けたものらしい)であった。
で、現在三ノ宮交通センタービルがあるところは汚い緑地で、毎朝手配師が自由労務者をここで選別し、連れてどこかへ消える。このため労務者のたまりになっていて、当然その為の露店(タバコのばら売りや食物、中古の地下足袋や衣服、勿論バクダンも)もあり、アブれた労務者が10円玉でのバクチに興じていたり。これがみっともないとして、寄せ場を葺合に移し、跡地に交通センタービルを建てたのである。それも地震で崩壊し、現在は二代目である。
更に蛇足を加えると、就職した1961年ではまだオート3輪改造のバタタク(バタバタタクシー)が健在だったし、中突堤には人力車が営業していた。流石にこの時点では、人を乗せるというより元町駅まで、飛脚と称した荷物の託送屋が専ら荷物を運ぶのに利用していたのだが。

 

 

 

 

4 thoughts on “1958年2月神戸

  1. Yuguchi先輩様
    デジ青で色々と昔の写真を見ますが、今回の写真は『恐ろしい写真』です、というのが小生の印象です。複線の山陽本線はともかく、驚いたのが、三ノ宮駅です。昭和22(1947)年、小学1年生の頃から神戸・平野の叔母を訪ね、しょっちゅう尼崎から神戸に来ていたのに、こんな三ノ宮駅に覚えがありません。しかもこれらの写真が間髪をいれずにここに投稿できることがまた驚かされました。

    ところで『家人からの終活圧力』とはどのような情勢なのでしょうか。物理的に、肉体に、あるいは精神的に感じる、どんな圧力なのでしょうか。圧力の単位はミリバールですか。ヘストパスカルですか、kg/cm2ですか? 喜寿の小生も参考にしなければなりません。ねえ湖畔の暇人さん。
    ぜひ詳細なるご教授を。

  2. yuguchiさま
    貴重な神戸の写真の数々、惜し気もなくデジ青に発表いただき、ありがとうございます。堪能しましたよ。1958年と言えば、まだyuguchiさんが22歳ではないですか。神戸市に関係することなど、まだ夢想だにされなかった時代に、よくぞ山のてっぺんまで上られたものと感心します。
    感心したと言えば、須磨のD62は貴重ですね。この時代は姫路まで電化していたと思うのですが、重量貨物は、そのまま通しで蒸機が牽いたのでしょうか。D52ならまだしも、D62はこのあとすぐ軸重を改造して一ノ関へ送られたため、撮影時期としても貴重だと思います。それと最後の三ノ宮の俯瞰、これはどこから撮られたのですか? 当時、高いものと言えば、ポートタワーしかなかったと思いますが、見える光景は、まるで終戦直後のように見えますね。

    • 貴重なすばらしい光景の写真をありがとうございます。

      俯瞰の写真、私もいったいどこからの撮影?と気になってました。
      ご回答が示される前に勝手に推測します。
      高架にガードが左右に二つ見えますが、左が鯉川筋、右がトアロードでしょう。海岸通りの商船三井のビルからか、とも思いましたが、それにしても高い。三井ビルの少し東の現NTTのところに電電公社の電波塔でもあったのでしょうか??

  3. 記憶が薄れていますが、三ノ宮から元町にかけてはそごう、旧朝日会館、大丸しかビルといえるものはなく、ほぼ見通しが出来ました。従ってこれは大丸の屋上か、となります。なお鯉川筋、トアロードは宇都屋さまのご指摘通りで、ジャンジャン市場は画面を外れた右(東)になります。センター街に面した映画館も確かにありましたが、これは違い少し西南の、電車道(なんて言葉がありましたな)です。風呂屋は確かセンター街に2軒あり、これは西の方でしょう。共に三ノ宮再開発で用地を提供して廃業し、現在も地下で営業中のパン屋(カスカード)になりました。なおポートタワーは小生就職後の完工で、直後に日米市長会議なるものが神戸であり、取材で同行登楼?したのが、小生唯一の経験です。

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