1954年3月高校修学旅行 その1

先回までの「高校生東京へ」からほぼ1年後=2年が終了する3月に、修学旅行があった。1954年3月12日、京都から急行「筑紫」で西へ向かったのだが、1954年の時刻表を繰ると、39レは東京を前日21時30分発、京都7時35分着、50分発。大阪、三ノ宮、神戸、明石、姫路、岡山、倉敷、福山、尾道、糸崎、広島、宮島口、岩国、柳井、下松、徳山、三田尻、小郡、下関、門司、小倉、折尾と停車し、博多着22時23分。再び夜行列車となって翌朝5時48分鹿児島終着である。

この時はカメラを二台もって行った。いずれも戦時中防空壕で過し、レンズが名古屋市大曽根の湿気にやられてカビが生えていたが、ローライコードUとバルジーナなる、バルダックス社製35mmスプリングカメラである。せっせと同級生を撮り、あとでプリントしてひと稼ぎ=自分の車輌写真分のフイルム代プラスアルファを浮かそうという魂胆である。まだカメラは高価で誰もが持てるわけではなく、修学旅行イコール6,800円(プレミアムがついて8,000円かそれ以上出さないと買えなかった程人気があったのは、ただただ安く、よく写ったから)のリコーレフというのは、我々のひと世代後の話になる。またしばらくカビの生えた古写真にお付き合い願いたい。


進行中の「筑紫」デッキから撮った兵庫駐在のD50 右側は旧ナロハのナハ10064で、確か旧2等室は転換クロスシートが残っていたと記憶する

B50は神戸港線と共にいっぱいいた

最初に撮ったのは兵庫のヤードである。今では和田岬線も電車になり、高架と地平の中間辺に乗降場があるが、以前は勿論地平で、かなり広いヤードと機関車駐泊所があり、川崎車輌、三菱造船所、鐘紡、神戸市中央市場等の貨物を扱っていた。高架線へ貨車を押し上げるため、D50が1両常駐していたほかは、B50ばかりだった。

D50の後ろはサイドに扉を設けた通勤客車 冷蔵車は勿論中央市場用

和田岬線は現在では三菱の通勤客のみになり、かつての超混雑振りは見られず、またヤードは新興高層住宅が建ち並んでしまい、かつての面影はない。ここの木製客車はどてっ腹に引戸2か所を設けた、戦時中からの通勤客車が大方だったが、それでいて同じ木製でも転換クロスシートが残った旧2等車、播丹鉄道買収で制式中型車に編入された丸屋根車(ナハフ14070)=共に側扉はない=もいた。

国道の南(左)側はすぐ海である のち線路の右山側に列車線が新設され複々線に 今走っている線は緩行・快速電車専用になった 中央のトラックはパンクでタイヤ交換中だが いやに低くへべちゃい荷台は 米軍放出のダッジ4輪トラックか 詳しい方のご教示を待つ 右(明石側)からやってくるトラックはニッサン

左手に淡路島を望む進行中の写真は塩屋西方で、分離帯も何もない国道2号線の南側はすぐ瀬戸内海である。今では西神戸地区の下水処理場のためすっかり埋め立てられ、人工の丘や林で視野が遮られてしまった。ただ新快速は一段高い斜面に張り付いて走るから、景観は良い。


このモニ53ならぬモニ13はどこで撮ったか記憶がないが、地平ホームだから明石しか考えられない。この駅は手荷物扱いホームから容易に(ほぼ人目を気にせず)外に出られるとあって、小生は事の外愛用?したものであった。それを聞きつけた故羽村兄も何度か「活用」した由。今では高架になり、そんなことはあり得ない。


姫路に到着した39レ急行「筑紫」

姫路は機関車交換のため12分停車するので、その間走り回った。飾磨線のホームではC1178が20メートル大型木製客車1両だけを牽引し、煙を吐いていた。その木製車は何とスハニ28907で、座席は一方方向クロスシート。すなわちスハニ35の二世代前の特急つばめ用客車である。

飾磨線のC1178+スハニ28907 この列車は姫路10時20分着で 次の飾磨行は15時45分までない

かつて東海道を我物顔に走った特急つばめ専用客車の成れの果て 妻面のレタリングDは木製客車の状態をAからEまで5段階評価したもの 台枠はその後オハ61系に生かされた

その室内 背ずりモケットはなく ベニヤ板だが、京阪1000型もそうだった それでも一方クロスシートがのこっていたのである

1954年3月高校修学旅行 その1」への1件のフィードバック

  1. いつも公開される素晴らしい写真の数々に絶句しております。
    兵庫の上からの遠望は昭和50年代くらいまでよく雰囲気を残しておりました。
    ワーカーの町であるとともに山陽線=山陽鉄道起点近くの「修理工場」的な匂いが
    隣の鷹取とともに往時は如実にしていました。そこに飽和式蒸機を加熱式に
    改造した4-4-0のB50が居る。なんて素敵なシーンなのでしょう。

    非電化幹線駅のチャンピオン、姫路に堂々たるC59の牽く「筑紫」が佇む。
    なんとも雄渾な風景です。架線のない構内はすっきり広々とし、今日の感覚
    から見ると非日本的な感じさえ抱きますが清清しい旅情を覚えます。
    往時は第1、第2の二つの機関区を抱え広島と共に山陽道の覇者を競いあって
    いました。
    初代の扇形庫がM36年10月、輸送量の増加で新・第1機関区が作られたのが
    S4年です。電化の進展で初代が廃庫になったのが昭和38年頃のようです。
    C11+ハニ1両の飾磨線。木造客車の外観だけでなく室内まで撮られた早業
    に脱帽です。山陽鉄道に編入された播但鉄道の海運接続区間の記憶も若い人には
    薄いことでしょう。私も姫路を出た列車の車窓に電車の高架とモノレールと
    もう一つの分岐があったことしか憶えていません。

    往年の山陽本線の旅は、都市圏から地方の交通拠点都市を縫うように走り
    岡山、広島、山口の小都市郡と介在する私鉄線、その間に見え隠れする美しい
    瀬戸内の風光を弁当のおかずに、それは楽しいものであったと記憶します。

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