原爆の日

同志社の鉄道ファンの皆様

 朝日新聞日曜版(BE版)などに、熊本電鉄がモハ71 被爆電車(実際には同型で既に廃棄したモハ72が被爆し、この71は下関に移動していて被爆していない)を近代産業構造物として保管し、整備しなおしたものを一般公開するという記事と写真がありました。

その画像を見たとき、同志社時代に1.2回生の頃、奈良から京都への通学で使っていた奈良電(今の近鉄京都線)の創業時の車両デハボ1000と酷似していることに気がつきました。

そこで手元の「私鉄電車プロファイル」の中の奈良電デハボ1000型の精密イラストと比較してみました。

やはり、双方とも 1928年(昭和3年)の日本車輌製造であることがわかりました。

 モハ71の方は製造当時は日本国有鉄道(今のJR)が製造を委託した車両ですが、同時代の流行を取り入れ、昭和3年の開業に備え奈良電が発注したデハボ1000の両者には共通点が見受けられます。

 ヘッドライト、一灯だけの尾灯の形や位置、少し丸みを帯びた正面の三枚窓、行き先表示板差込口などに共通点が見出せます。 扉が2扉か、3扉の違いなどはありますが。

 最近の通勤用の車両では、製造コストを下げるために発注会社が共同して共通仕様で製造を委託するケースがあります。たとえばJR東日本と東急などがあります。

 JR 東日本 E231系と共通仕様の車両

 東急    5000系 5050系 5080系

 都営地下鉄 10-300系

 横浜市営  Y500系

 相模鉄道  10000系

 下記に、熊本電鉄モハ71と ()奈良電 デハボ1000 の外観の比較をしてみました。

ご覧ください。

熊本電鉄 モハ71

1928年 日本車両製造

奈良電デハボ1000 正面イラスト

1928年 日本車両製造

 

奈良電デハボ1000  側面イラスト1928年 

日本車両製造

 画像集から撮影したため、少し反って見えます

 

200928                         河野賢太郎

拙文をお読みくださり、また「デジタル元祖青信号」転載のお申し出をいただき、恐縮に存じます。駄文でございますが、そこはDRFCHPであれば転載していただいて、当方は異議ございません。下記のように一部書き改めておきました。ただ、少し心配なのは写真は朝日新聞から、車両のイラストは出版物から、無断で複製している点であります。個人的使用という範囲で収まればいいのですが、「デジタル元祖青信号」が広く鉄道のファンの方々に読まれていますと、その点がいささか心配です。また、この文章は同志社のグリークラブのOB合唱団東京クローバークラブのHP東京クローバークラブ「タイムズ」の『てっちゃんノコーナー』にも近々掲載が予定されていますのでご承知おきください。         河野賢太郎

 

 河野さんは乙訓の老人と入学年度は同じです。土肥の雄さんの紹介で入会され以前、青信号64号には投稿されました。同好会40周年記念・大井川鉄道探訪の時にお会いしました。大学現役時はグリークラブのメンバーだったことを今回初めて気付きました。老人の幼馴染と出自の異なる先輩格のクローバー会で、ご一緒だとも知りました。本来2ヶ月前に転載するつもりでしたが、写真展その他で忘れておりました。その間に被爆電車とされました72号を、19579月に撮影したものを見つけました。その時、71号の方は元木造国電20171で北熊本・上熊本間でシャトル運行についていましたので、室園車庫から遠望したに過ぎません。そして73号となった車体は、幡生工場から回送されたままの姿で室園車庫に留置されていました。これら3両については、佐竹先輩の「買収国電」で紹介されました。ぜひ参考にされますようにお勧めいたします。       

ちょっと嘴を入れますと、熊電71型は国鉄が製造を依頼したものではありませんから、頭を整理しておいて下さい。そして今回、掲載する日は64年前、広島に原爆が投下された日です。被爆された方々に心から哀悼の意を表します。老人の親類にも被爆、亡くなった方があり、広島へいく時は必ず平和公園の慰霊の碑へお参りに行きます。1946年夏休み、母の故郷から帰京する時、兄と一緒に宮島口から広島駅前まで広電に乗りました。この時に見た広島の街の光景は、生涯忘れるものではありません。

 今回の転載についての責任は、全て乙訓の老人にあります。

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