山陽電鉄、標準軌間のモハ63型

モハ63、筆者にとって何とも懐かしい電車です。省線立花駅から三宮までの往復で何度も乗車しました。それから0番のキットを買い、初めて作ったのも、全長50cm近くのモハ63型模型電車でした。

尼崎から神戸に移住した1951年以後は、山陽電鉄700型としょっちゅう出会うことになりました。小学校校舎に接して北側が山陽電鉄東須磨駅です。5,6年生の時、我々は南側の教室でして、電車の見える北側教室がうらやましくて仕方がありません。よく北側教室に忍び込み、窓から駅を見下ろし、通過する700型などを見に行ったものです。

終戦後、国鉄同様私鉄も多くの車両を失い、輸送がままならぬ状況は諸兄ご存じの通りでした。国鉄で設計製造した63型を国鉄が一括発注し、私鉄に振り向けられた総数116両の内の20両(モハ63800-819)が山陽電鉄向けでした。その内の奇数番号車はクハでなく、モハの無電装車だそうです。製造は全車川崎車両。車両様式はモハ63型に準じているが、座席、天井、配線工事などの細部は、電鉄の注文に応じて改善されていたそうです。

山陽に入線当時、番号の内モハを取り、800-819をそのまま使用していたようですが、1949年700型700-719に改番されたので、筆者はその番号車を見ていません。また、入線時の窓は三段でしたが、のち二段に改造され、下側の窓には他の形式車両同様、保護棒が取り付けられています。また、下の写真717号車は未電装車ですので、屋根の先頭部にはパンタの設置予定スペースがそのままです。パンタ台はさすがに取り払われていますが。

初めて写真に撮ったのは、1960年9月モノクロでした。カラーは下の画像1962年1月が最初です。
この兵庫駅は1963年4月7日、神戸高速鉄道の開通にともない消滅しました。ここから西代駅までの約2km近くが道路併用軌道です。国鉄様式の大型車両が、電圧も軌間も異なる山陽電鉄に入線。その翌年に昇圧や駅ホームの延長など、幾多の困難を解消したとはいえ、道路併用軌道を走り、その上に長田では神戸市電と平面交差するのですから、それはそれは大変な事柄だったのです。

こちらは、姫路市の女鹿-白浜の宮間。筆者が正月に山陽電車を撮影する時はカラースライドでした。直線の多いこの区間は静かな播州米の産地でもありました。この辺りではさすがの大型車両でも様になります。

翌年の正月、須磨浦公園を過ぎて塩谷に向かう途中です。昔、右手石段組の坂道を上ると、藤田ガーデンがありました。今は失くなりましたが跡地に大きなマンションが建ち、当会の有名なお方が住んでおられます。

山陽に来た20両の内、2両を西代車庫の火災で失いましたが、18両が健在で撮影時にも頻繁に出会いました。
戦後の混乱期の電鉄に、大いなる貢献を果たしたモハ63型700形式ではありましたが、他形式へ転換車などを除き、老朽化が進み、20数年の活躍の後に、1969年までに廃車されました。

山陽電鉄とは無関係ですが、モハ63の話題のついでに、ジュラルミン電車のことを少し。

1946年川崎車両においてジュラルミン電車6両が誕生しました。モハ63400-402(電装して蒲田電車区に配属時は、モハ63900-902と附番された)、サハ78200-202です。下の写真は川崎車両の完成時の公式写真です。
(『蒸気機関車から超高速車両まで-写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史-』、川崎重工車両事業本部、平成8年、交友社)より。 材料は終戦で不要となった航空機用ジュラルミン10万トン活用の一端として車両製造に向けられたものです。ただ、無塗装であったため、腐食が進み、のちに塗装されたり、全金属車に改造されています。(『国鉄電車の歩み』、交友社、『電車のアルバム』、交友社を参照)

アルミニウム金属を主体に、第二成分として銅を混ぜた金属アロイ(合金)がジュラルミンです。新幹線車両をはじめ、最近の車両に使用されるアルミ合金はアルミニウムに、第ニ成分にマンガンを、第三成分にシリカを(6N01)、もしくは亜鉛を(7N01)のアロイです。こうしたジュラルミンは立派なアルミニウム合金ですし、『ジュラ電』はアルミ合金製車両の先駆車でもあると筆者は考えます。勿論台枠は鉄、内装材に一部木材も使用され、オールアルミカーではありませんでした。オールアルミカーが誕生するのはジュラ電から16年後、山陽電車の2012+2505+2013です。やはり川崎車両製でした。これはオールアルミカーの第一世代車と呼ばれています。そして現代の新幹線車両などは第四世代のオールアルミカーと呼ばれています。調査事項も含め、この辺のことは、別の機会に稿を改めます。

山陽電鉄、標準軌間のモハ63型」への5件のフィードバック

  1. tsurukame先輩様、
    貴重な写真をありがとうございます。
    モハ63などという古典電車はもう誰も興味が無いのかな、と思っていましたがジュラ電まで見せて頂き感激至極であります。
    ところで私のかすかな記憶で申し訳ないのですが、運転台上部の通風口は国鉄車にもあったのですね?関画伯の画にははめ殺しになっています。初期の63には通風口はあったのでしょうか?お教え下さい。

    須磨の高台の高級マンションにお住まいの当会重鎮様におかれましては63への思い出はございませんでしょうか?

  2. 米手作市様
    早速のコメントをありがとうございました。
    初期の電車にありました。山陽の20両もすべて付いていました。

    『国鉄電車の歩み-30系から80系まで-』、昭和43年、交友社発行に、塚田幾太郎さんが担当で63系を纏められています、その中の『9-2前面通風器閉塞』文を紹介します。
     63系の特徴ある前面の通風器は、雨水の侵入のため電線の絶縁を悪くし事故の原因と
     なるので、これを塞ぐことになり、昭和23年下期より各電車区で小ネジで鉄板を取り付け
     工場では入場の際溶接し全部塞いでしまったのは残念である。
    と記されています。

    その文献に掲載されている初期の写真(1946-1948)には付いています。また、写真の中に2等と進駐軍専用車の合造車がありますが、後からつぶされていますね。ファンからすれば、ある方がバランスよく見えますね。

    それから、今頃気が付いたのですが、2枚目の写真の本文で「女鹿」とあるのは、写真のキャプションどおり、「妻鹿」が正しいのです。

  3. tsurukame様
    いつものことながら半世紀前のカラーが見事に再現されていて臨場感がありますね。特に電鉄兵庫の717など私の10年前のよりずっと綺麗です。ところで、私も白黒ですが、山陽、南海、小田急(秩父)などを撮影することができました。

  4. tsurukame様
    ジュラ電の記事懐かしく読ませて頂きました。1954年頃焦げ茶色に塗装された車両を京浜東北線で見たことがあります。遠目には気づかなかったのですが全身細かいリベットで覆われていて驚きました。
    当時京浜東北線は、横須賀線と東海道線(80型の湘南電車)を除くと唯一弱め界磁を常用していた線でしたから、短命とは言え他線向けより電装は上級だったのですね。

  5. 村樫四郎様
    お便りをありがとうございます。HP『轍楽之路』などにて、お名前をよく存じています。
    小生も96、D51,C11等で参加させていただいております。
    ジュラ電とか63型とか、半世紀前の話題で、繋がる方々がおられるのに心強く感じます。できましたら、その頃の他の話題などもご提供ください。

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