【4295】1954年3月高校修学旅行 その6 熊延鉄道


ヂハ201 諸兄には廃止後転じた江若鉄道キハ51、52としてお馴染みであろう

熊延鉄道とは、熊本と延岡を結ぶ、遠大というより誇大もいいところな構想だったのだが、元来県境とは、およそ人里はなれた山ばかりが常識で、この2点を結ばねばならない必然性には極めて乏しい。しかし同様の発想は日本中にあり、大社宮島鉄道やら、金名鉄道(金沢-名古屋)、大阪宮津急行電鉄、横荘鉄道(横手-荘内)、果ては日露支通運電鉄なんて(詐欺同然の)大風呂敷会社も計画されたことがある。

1954年時点では敗戦後数少ない機械式の新製ディーゼルカーが4両投入済であった。記号はヂーゼルということでヂハ、汽車東京1950年12月製ヂハ101、102(機関DA54)、帝国車両1953年3月製ヂハ201、202(DMH17)である。鉄道用へのディーゼル燃料は長らく正式の配給が無く、米軍の虎の威を借りた江若鉄道のみ他社より2年程先駆けたが、その後各社は名目のみディーゼル機関を代燃ガスで駆動などとし、その実ヤミで入手したディーゼル燃料を使っていた。ヤミでもガソリンや木炭よりはるかに安く、効率的だったからである。


ヂハ102 101共熊延鉄道廃止後玉野市営キハ102、103となる

熊延ヂハ101、102もその伝で、片側に荷台があるのは、(名目上)代燃ガス発生炉を積む、として認可を得たからで、現実にはその代燃炉もなく、100%ディーゼルカーで竣功している。ヂハ201、202では既に燃料制限は撤廃されていた。


島原鉄道キハ104を購入したヂハ103 廃止後は玉野市営キハ104に 機関はDA54A

もう1両のディーゼルカーは島原鉄道キハニ104→キハ104を戦後購入し、扉1か所を埋めたヂハ103である。他に1928年ガソリンカーを導入した時の梅鉢製2軸車(木骨鋼板張り)ガハ11、12を付随車にしたハ11、12、1932年日車本店製片ボギー車キハ31を客車化したハ31がいる。もう1両雨宮1931年製2軸ガソリンカー、レカ21は戦災で焼失。


梅鉢鉄工場1928年製 標記はまだガハ11だが、当然機関は下ろしている 内燃動車には珍しい(我国に5両しかなく、全て梅鉢)単台車装着の木骨鉄皮車 屋根が凹んでいる

1915年4月6日開業(春竹-鯰)時は当然蒸機で、客車は他例の無い雨宮製小型ボギー車4両だったが、余りにも小型で1933、1940年廃車。その後鹿本鉄道から岡部鉄工所製ボギー客車を購入しハ43としたが、これはまだ姿をとどめている。他はことごとく2軸車で、土地柄九州、北九州、小倉鉄道買収車等がおり、珍しくも播丹鉄道買収車も2両。これは水前寺から分岐していた三菱航空機専用鉄道の運行を熊延鉄道が請負っており、従業員輸送に購入した梅鉢製車で、記号番号は播丹時代のハ12、38のまま。木製エンドビームの両端に播丹の前身「播州鉄道」の鋳込銘板がある。江若鉄道三井寺下機関区にも同じシリーズの車体2両が建物代わりになっていたのをご記憶であろう。なお戦時中~敗戦後には蒸気動車も2両(内1両は三菱航空機)いた。


ずらり並んだ客車群 右端は「丈夫そうな」ハ51

ハ47 北九州鉄道の買収車

ハフ46 旧九州鉄道の古強者 デッキの次の窓は埋めている

ハフ42 小倉鉄道買収(再買収)車 元来は鉄道作業局

ハ49 これもハ47同様北九州鉄道のオリジナル買収車

ハ43 鹿本鉄道(→山鹿温泉鉄道)が戦前旅客をバスに重点を移し放出したロハだった 下はその台車


播州鉄道の鋳込銘板がエンドビームに残るハ12

同じく旧播丹鉄道のハ38

鋼製2軸客車ハ51、52は「丈夫そう」なハコ=客車である。戦時中若松車両で製造したワム23000形式が2両、何らかの理由で宙に浮いていた。陸軍用語なら「員数外」=いわばヤミ車両であろう。熊延鉄道が入手し、無手続で客車として使っていたが、1946年客車代用として設計を申請。いろいろあって、認可当局は1948年、客車代用は認められないから貨車とせよ。「目下の輸送状況から見て運転保安上支障ない限り貨車で便宜上旅客の輸送を為すは差し支えない」と、よく分からん言葉を並べて認可。


ハ51 この時点では手荷物車だが、敗戦後の混乱期には大活躍した―少々のことでは潰れない


ハ52 ワム23000から軽くするためエアブレーキを取っ払っただけで乗客を乗せていた 窓は後から開けたようだ

側面の窓などは、少し世の中が落ち着いてから小倉工場で改修したもののようである。流石にディーゼルカーが就役してからは手荷物車として使っていたが、まだ10年にもならないはずなのに、すでに車体外板の長土台との溶接部分が雨水が溜まって腐っており、余程粗悪な車両だったのであろう。なお以前高松琴平電鉄の(標準軌間)同様クハをご高覧に供したのを思い出されたい。

2 thoughts on “1954年3月高校修学旅行 その6 熊延鉄道

  1.  「一体おまえはどこの人間や」とよく言われることがある。生まれは疎開地である岐阜県東濃の田舎。その後、名古屋経由で仁川へ。さらに、脱藩して横浜から東京へ。
     ところで、湯口さんや沖中さんの最近のデジ青投稿では熊本が取り上げられている。小生は父方が熊本の出身のため、今でも本籍地が熊本市黒髪町大字坪井にある。本家は済済黌高校の正門の所。このため、何回か熊本へ行き、熊本電鉄の藤崎宮前から次の黒髪町、北熊本付近は撮影したことがある。昭和37年11月の修学旅行で始めて九州の土を踏んだが、団体行動なので、別府の高崎山で猿を撮らずに日豊線のDF50、阿蘇から熊本への西肥バスからは9600の客車、そして長崎駅でC57195と収穫はそんなものであった。熊本では親戚の面会があり、外に出させてもらったが、C59であろう煙があがっている熊本機関区方向をうらめしくながめるだけであった。そこで翌38年3月個人で九州撮影旅行を行った。熊延鉄道は豊肥本線の南熊本駅の南側から左へ急カーブして砥用に向かっており、宿泊した春竹町の親戚宅がそのカーブの所にあった。朝などレールの継ぎ目の音で目を覚ましたが、放置されていた無火状態の5号機を撮ったのみで気動車には全く興味が無かったようで1枚も撮っていない。このあたりが凡人と人間国宝の違いで、今は「しもたー」と反省しているが、後の祭り。その代わり、1日雨の熊本駅で大型蒸機を撮影した。この時の拙写は別途掲載させていただく。

  2. 毎回息を呑むような画像を拝見し、感激しています。
    ヂハ201、202は正面の湘南窓と側面の2枚一組の狭窓のアンバランスが何とも言えない魅力でした。廃止後、江若が購入して身近な存在となり、通常営業の最終日に特派員さん手作りのヘッドマークを付けて最後を飾ったのも懐かしい思い出です。
    江若廃止後、車齢が比較的若かったのにも拘わらず、生涯を終えたのは残念でした。総括制御が可能であれば、関東鉄道が購入して鉾田線あたりで再起していたかも知れません。

    木製客車もさることながら、ハ51、ハ52は凄い客車です。荷物車としては使に勝手がよかったのではないかと思います。

    社名について触れられておりますが、砥用から先は建設する気はなかったのではないかと思っています。「改正鉄道敷設法」別表121項に「熊本県宇土ヨリ浜町ヲ経テ宮崎県三田井付近ニ至ル鉄道」(三田井は高千穂)が砥用を通ることになっており、砥用まで建設しておけば、119項「熊本県高森ヨリ三田井ヲ経テ延岡ニ至ル鉄道」に接続して延岡まで繋がることになります。鉄道廃止後はさすがに「熊延バス」とはせずに「熊本バス」に社名変更をしました。余談ですが、宮崎県でも高千穂地方は熊本の経済圏になっており、地元の人が大きな買い物をする時は熊本に行き、東京や大阪に出かける時は熊本空港を利用しています。

    「横荘鉄道」については横手と羽後本荘の双方から工事が行われ、横手からは老方まで、羽後本荘側は前郷まで建設されましたが、羽後本荘側が別表14項「秋田県本荘ヨリ矢島ヲ経テ院内ニ至ル鉄道」のルート上にあるため、昭和12年9月鉄道省に買収されてしまい結ばれることはなくなってしまいました。羽後本荘側が買収されていなければ工事が進められて全通していたかも知れませんが今も存在しているかどうかは疑問です。
    横手~羽後本荘間は羽後交通の路線バスで結ばれており10年位前に乗ったことがあります。所要時間が2時間弱で運賃が1600円位したと思いますが、普通の町中を走る路線バスタイプの車両(それも塗装が似ている小田急バスの中古車)でしたが、全線を通しで乗った客が5名程おりました。

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