1953年高校生東京へ その8 投稿日時: 2009年7月17日 投稿者: 湯口 徹 ロクサン→ナナサン東武版 東京の最後は東武鉄道。荒川鉄橋での撮影である。皆様慰めては下さるが、こんな写真を撮るぐらいなら、杉戸か浅草橋に行き、当時山ほどいた蒸機を撮った方がどれだけよかったことか。 準急 5700系特急 俗称「ネコヒゲ」特急。湘南クハ86の2枚窓妻模倣は私鉄でも早い例だが、ひょっとすると西大寺鉄道キハ8、キハ10に若干遅れをとっているかもしれない やはりはこうした列車を撮るべきだった ED451 足元が切れているのは、6×6 15枚撮り手製改造で、次のコマが重なったためである この記事を共有:TwitterFacebook印刷 関連 関連記事: 1953年高校生東京へ その9(最終) 1953年高校生東京へ その7 1953年高校生東京へ その6 1953年高校生東京へ その5 1953年高校生東京へ その4
北千住を出て荒川の鉄橋を渡るあたり、小生の撮影した昭和40年前半でも昭和28年とそれ程変わっていないように思います。しかし、鉄橋付近の築堤、河川敷の畑などは戦後の名残りのようないいムード(?)が残っています。今は、東武線は複々線で日比谷線、半蔵門線、東急線からの相互乗り入れ車両が10連でひっきりなし往来しており、時折、ローカル線となった浅草行きの特急や普通列車等が6連で出入りしております。JR常磐線はこの間までは103系も見られましたが、最大15連。これに千代田線、つくばEXが加わった3複線。賑やかそのものです。 さて、東武5700系ですが、前回の小田急1700系同様に特急専用車として登場しましたが、あの丸みを帯びた阪神3011系や南海の11001系、21001系等と比べて今一垢抜けいないような感じがします。むしろ、一般型の正面窓に改造された姿の方が端正な感じがします。しかし、このような当初の湘南窓の走行写真は貴重なものです。この車両は吊り掛けモーターながらその後、特別料金徴収の急行などにも使用され、大学鉄研のイベント列車に使用されるなど関東の人気車両のひとつとなりました。 業平橋から来たのでしょうか、輸入蒸機(バイヤーピーコックかネルソンかこのあたりはよくわかりませんが)の牽く貨物列車は一度は見てみたかったと思います。特に汽笛は日本の国鉄型のボーではなく、欧州型のピーであったのかどうか聞いてみたかったです。 ロクサンの2連は今や夢物語。現在のようなステンレスの10連ばかりでは多少うんざりします。 ところで東武と国鉄の荒川鉄橋は100メートルくらいの距離差。とは言えさぞお忙しく往来されたのではないでょうか。あのような時代にどこにお泊りになったのしょうか。金沢文庫、経堂、永福町、北千住等の関東の拠点を押えられたとは驚きですが、所謂東京見物は皆無だったのでしょうか。 返信 ↓
コメント有難うございます。56年前の東京での宿舎は、母親の従姉妹が大学生向け賄い付き下宿を確か荻窪で営んでおり、春休みでヒマになったところに泊めてもらったと記憶します。その後学生時代東京での宿泊は、鉄道とは関係ない西部劇愛好者のクラブ例会に参加し、その会場になったお宅に泊めてもらった1回のみ。あとはすべて都市圏をはずれた駅(佐貫、国府津など。鴨宮で故羽村兄と一緒に寝た=誤解のないように=こともある)でステホしています。東京見物はお恥ずかしい事に一度もなく、東京タワーも後楽園も知りません。なお知り合いなどに泊めてもらうと、どうしても朝が遅くなり、朝のラッシュ運行等が見られないので、その後は原則ステホに切替。寒いからどうしても早起きになり、撮影には好適ですが、カロリー不足も手伝って、昼過ぎにはスタミナが切れるという、根本的なかっかんも付随します。 高校の修学旅行(九州)の際も、長崎、熊本、別府観光はすべて権利放棄し、その間長崎電軌、熊延鉄道、熊本電鉄、大分交通別大線を撮っていました。移動は島原湊-三角以外すべて国鉄で、各地で観光バスに乗り換えるツアーだからこそ、こんな事ができましたが、諸兄の頃ならすべてバス移動でしょうから、到底無理ですな。 で、長崎観光は新婚旅行が最初、熊本の水前寺公園も3年前初めて行き、こんな公園なら見なくて良かったと思いました。この悲しい習慣は一向に納まらず、北海道に限らず観光地とは無縁。海外でもその傾向が強く、やっぱり貧乏人根性が丸出しだったと、今では反省していますが、後悔先に立たず。 返信 ↓
湯口さん、細かい質問にお応えいただき有り難うございます。小生、趣味の研究は極めていい加減ですが、実は京都の4年間、阪急・京阪論争に巻き込まれ、はたまた、近鉄連に刺激を受け、阪急P6、710、 京阪1000、1700、近鉄2200新旧、南海2000等あの頃元気だった吊り掛け車を山陰線のC57よりも沢山撮りに出かけました。 このため、線路際に出没することに忙しく、清水の舞台はテレビ、写真でしか見たことがありません。大学1年入学時は宇治橋を渡った所に下宿しましたが、宇治の平等院はお金で見ただけで、3年くらい前に奈良線の103系を撮りに行った時始めて見ました。建物の下がピロティのように柱で支えられて隙間だらけなのは実際に見て始めて知りました。金閣寺も数年前に見たのが始めてで、祇園祭りに至っては夏休中なのでいつも実家に帰っており、これも見たことがありません。寺田屋は中書島の駅を降りて直ぐだと言うことも一昨年知りました。「お前京都で何やっとったんや」と京都の好きな関東人によく言われます。 地理は皆さんと同じ様に好きでしたが、歴史は興味なく、齢40を過ぎて大河ドラマの伊達政宗あたりから戦国と幕末を面白いと感じる様になりました。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い。どこかの電車の駅名にありましたね。壬生の屯所も大宮駅近く。信長の本能寺は当会でも大物卒業生の多い堀川高校。ほんまに今はわざわざ出かける場所となってしまいました。 ところで、東武の5700系は吊り掛けモーターは間違いないのですが、いろいろありまして交友社発行私鉄電車のアルバム1B慶応義塾大学鉄道研究会編集によりますと5700系は昭和26年登場した東武の戦後初の特急用車両で、当初は吊り掛け駆動で非貫通・流線形(俗称ネコヒゲ)の5700系と貫通・半流線形の5710系および直角カルダン駆動で貫通・半流線形の5720系の3系列に分かれていたとのことです。ところが、ネコヒゲ5700系は併合時に問題があるため昭和35年に5710系と同様の貫通・半流線形に改造され、一方、5720系は直角カルダン駆動が不調のため昭和36・40年に吊り掛け駆動に改造された。これによって、各系列とも同一スタイル・性能になったため、昭和40年に改番が行われ、全て5700系に統一されたと言うことです。従いまして湯口さんがお撮りになったネコヒゲは9年間しか見られずそれも遠い昔のことですので貴重です。汽車、日車、ナニワ製 返信 ↓
北千住を出て荒川の鉄橋を渡るあたり、小生の撮影した昭和40年前半でも昭和28年とそれ程変わっていないように思います。しかし、鉄橋付近の築堤、河川敷の畑などは戦後の名残りのようないいムード(?)が残っています。今は、東武線は複々線で日比谷線、半蔵門線、東急線からの相互乗り入れ車両が10連でひっきりなし往来しており、時折、ローカル線となった浅草行きの特急や普通列車等が6連で出入りしております。JR常磐線はこの間までは103系も見られましたが、最大15連。これに千代田線、つくばEXが加わった3複線。賑やかそのものです。
さて、東武5700系ですが、前回の小田急1700系同様に特急専用車として登場しましたが、あの丸みを帯びた阪神3011系や南海の11001系、21001系等と比べて今一垢抜けいないような感じがします。むしろ、一般型の正面窓に改造された姿の方が端正な感じがします。しかし、このような当初の湘南窓の走行写真は貴重なものです。この車両は吊り掛けモーターながらその後、特別料金徴収の急行などにも使用され、大学鉄研のイベント列車に使用されるなど関東の人気車両のひとつとなりました。
業平橋から来たのでしょうか、輸入蒸機(バイヤーピーコックかネルソンかこのあたりはよくわかりませんが)の牽く貨物列車は一度は見てみたかったと思います。特に汽笛は日本の国鉄型のボーではなく、欧州型のピーであったのかどうか聞いてみたかったです。
ロクサンの2連は今や夢物語。現在のようなステンレスの10連ばかりでは多少うんざりします。
ところで東武と国鉄の荒川鉄橋は100メートルくらいの距離差。とは言えさぞお忙しく往来されたのではないでょうか。あのような時代にどこにお泊りになったのしょうか。金沢文庫、経堂、永福町、北千住等の関東の拠点を押えられたとは驚きですが、所謂東京見物は皆無だったのでしょうか。
コメント有難うございます。56年前の東京での宿舎は、母親の従姉妹が大学生向け賄い付き下宿を確か荻窪で営んでおり、春休みでヒマになったところに泊めてもらったと記憶します。その後学生時代東京での宿泊は、鉄道とは関係ない西部劇愛好者のクラブ例会に参加し、その会場になったお宅に泊めてもらった1回のみ。あとはすべて都市圏をはずれた駅(佐貫、国府津など。鴨宮で故羽村兄と一緒に寝た=誤解のないように=こともある)でステホしています。東京見物はお恥ずかしい事に一度もなく、東京タワーも後楽園も知りません。なお知り合いなどに泊めてもらうと、どうしても朝が遅くなり、朝のラッシュ運行等が見られないので、その後は原則ステホに切替。寒いからどうしても早起きになり、撮影には好適ですが、カロリー不足も手伝って、昼過ぎにはスタミナが切れるという、根本的なかっかんも付随します。
高校の修学旅行(九州)の際も、長崎、熊本、別府観光はすべて権利放棄し、その間長崎電軌、熊延鉄道、熊本電鉄、大分交通別大線を撮っていました。移動は島原湊-三角以外すべて国鉄で、各地で観光バスに乗り換えるツアーだからこそ、こんな事ができましたが、諸兄の頃ならすべてバス移動でしょうから、到底無理ですな。
で、長崎観光は新婚旅行が最初、熊本の水前寺公園も3年前初めて行き、こんな公園なら見なくて良かったと思いました。この悲しい習慣は一向に納まらず、北海道に限らず観光地とは無縁。海外でもその傾向が強く、やっぱり貧乏人根性が丸出しだったと、今では反省していますが、後悔先に立たず。
湯口さん、細かい質問にお応えいただき有り難うございます。小生、趣味の研究は極めていい加減ですが、実は京都の4年間、阪急・京阪論争に巻き込まれ、はたまた、近鉄連に刺激を受け、阪急P6、710、 京阪1000、1700、近鉄2200新旧、南海2000等あの頃元気だった吊り掛け車を山陰線のC57よりも沢山撮りに出かけました。 このため、線路際に出没することに忙しく、清水の舞台はテレビ、写真でしか見たことがありません。大学1年入学時は宇治橋を渡った所に下宿しましたが、宇治の平等院はお金で見ただけで、3年くらい前に奈良線の103系を撮りに行った時始めて見ました。建物の下がピロティのように柱で支えられて隙間だらけなのは実際に見て始めて知りました。金閣寺も数年前に見たのが始めてで、祇園祭りに至っては夏休中なのでいつも実家に帰っており、これも見たことがありません。寺田屋は中書島の駅を降りて直ぐだと言うことも一昨年知りました。「お前京都で何やっとったんや」と京都の好きな関東人によく言われます。 地理は皆さんと同じ様に好きでしたが、歴史は興味なく、齢40を過ぎて大河ドラマの伊達政宗あたりから戦国と幕末を面白いと感じる様になりました。戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い。どこかの電車の駅名にありましたね。壬生の屯所も大宮駅近く。信長の本能寺は当会でも大物卒業生の多い堀川高校。ほんまに今はわざわざ出かける場所となってしまいました。
ところで、東武の5700系は吊り掛けモーターは間違いないのですが、いろいろありまして交友社発行私鉄電車のアルバム1B慶応義塾大学鉄道研究会編集によりますと5700系は昭和26年登場した東武の戦後初の特急用車両で、当初は吊り掛け駆動で非貫通・流線形(俗称ネコヒゲ)の5700系と貫通・半流線形の5710系および直角カルダン駆動で貫通・半流線形の5720系の3系列に分かれていたとのことです。ところが、ネコヒゲ5700系は併合時に問題があるため昭和35年に5710系と同様の貫通・半流線形に改造され、一方、5720系は直角カルダン駆動が不調のため昭和36・40年に吊り掛け駆動に改造された。これによって、各系列とも同一スタイル・性能になったため、昭和40年に改番が行われ、全て5700系に統一されたと言うことです。従いまして湯口さんがお撮りになったネコヒゲは9年間しか見られずそれも遠い昔のことですので貴重です。汽車、日車、ナニワ製