1953年高校生東京へ その6


さて今回以降は私鉄電車の写真をご高覧に供するが、後輩諸氏がヨイショしてはくださるものの、珍しい写真などあるはずもない。予備知識も、確たる信念もなく、ただ聞きかじった車庫へ出かけた、というだけである。翌年からはそれなりに、撮影対象には個性が出てくる(と自分では思っている)のだが。

この電車は是非見たかった。はるか後年高松琴平にも流れたが。京浜234=品川

このシリーズも「供出」で高松琴平で見た。車体は木骨鋼板張りのニセスチール 京浜156=金沢文庫

京浜314=金沢文庫

京浜316+307+311=金沢文庫

横浜市電1520=横浜駅前

京王帝都1204=永福町

京王帝都1713+1701+1201=永福町

京王帝都1712=永福町

この時のカメラは、親父が日中戦争(日華事変と称し、日本は戦争ではないと言い張っていた)に技術軍属で従軍した際、上海で購入してきたローライコードU型。テッサーではなく3枚玉のトリオター、シャッターはコンパーだが1/100の次は1/300しかない。フイルム装填はまず赤窓(が分かる人手を挙げて)で1を出し、あとは自動巻き止めになる。シャッターは単一レバー(勿論手動)で、これは中々便利だった。但し戦時中約半年名古屋は大曽根の防空壕で過したため、レンズにはカビが生え、ただでさえ軟らか気味のレンズが、軟焦点とまでは行かないが、シャキッとは参らなかった。しかし自宅にカメラがあるというだけで、どれだけのハンディであったかは想像もつくまい。

6×6の2眼レフだから、当然12枚撮りである。しかし1枚でも余計に撮りたいから、フィルムのリーダーペーパーで何度もテストし、フイルムカウンターに白点を書き込み、各コマ間に隙間のないように、かつ前後の余白もフルに使って計15枚撮れるように自分で改造した。

大体うまく行ったが、時折前後のコマが重なる。我々の場合ほとんどが横構図だから、若干重なっても支障はないのだが、偶に縦構図だと、ガックリという事態も起る。意地悪い事に、そんなケースは大事な写真の場合に起りやすいのである。今回でも、1コマわざと(水平直し以外)修正せず、ご覧に入れている。

京王帝都1257=永福町 天部に隣のコマとの部分ダブリが

玉村卓也氏はセミ版スプリングカメラの裏ブタにドリルで圧板もろとも穴を開け、赤いセルロイドを張った赤窓を増設。焦点面はセミ版を更に半分にした「セミ・セミ版」に改造し、「車輌判」と称していた。すなわち60×45mmがセミ判だが、60×22.5mmという細長判で、車輌を横勝ちに撮るのに好適とうそぶいていた。要するに高いフイルムから如何に多数の写真が撮れるか=1コマいくらになるか、が勝負?である。

ニコンには24×36mmのライカ判(パーフォレーション8個)だけでなく、ゴールデンカット判と称したパーフォレーション7個で1コマ、という代物すらあった。1コマでパーフォレーション1個分節約すれば、1本の正規フイルムで5~6コマ余計に撮れるのである。カラーフイルムの場合マウントしてくれず、長巻で返却されるとあって、大得意の米兵からクレームがつき、長続きはしなかったが、今時こんな希少カメラをコレクションしていたら相当な「お宝」ではあろう。

1 thought on “1953年高校生東京へ その6

  1.  この度はおめでとうございます。東京でも祝宴を予定しております。

     湯口さんの高校生時代の東京行。輸入電機や国電はよくわかりますが、まさか、私鉄にも足を運ばれていたとは驚きです。小生も齢60をとおに越えていますので、湯口さんの撮られた車両の末期の姿は目にしましたが、小生のは全て色、形が晩年のものであります。

    ※品川234→ 関東では名車と言われていましたが、昭和40年ごろは夏場の海水浴客を運ぶ臨時特急にも使われていました。また、川崎大師の初詣客を運ぶ急行としてだるまのヘッドマークをつけて走っている姿はキャッチしました。今年も初代1000が各停ですが、同様の趣旨のマークをつけて走っていました。230は窓が大きいのが特徴ですが、あの重量級のP6も窓が低く、230に乗車した時はP6を懐かしく感じました。特に戦前の神宝線の車両が窓が小さく高かったからそう感じたのかもしれません。

    ※文庫156→これも独特の京急スタイルですが、何かアメリカ風なものを感じます。これだけは現車にはお目にかかったことがありません。

    ※文庫314,316他→所謂関東型17メートル3扉車。19・20メートル級の2扉クロス200馬力モーターが元気であった関西から見て貧弱さを感じたものです。小生も文庫で撮影しておりますが、400に改番し、赤に白帯の現在の京急カラーになっておりました。よく急行運用でも見かけました。

    ※横浜駅前1520→同志社時代の4年間、自宅は横浜の外人墓地の上の官舎にあり、横浜市電は400,500,600の単車を含め、一応カメラに収めました。色は湯口さんのそれと異なり、晩年の黄色に水色の帯でした。

    ※永福町1204→吉川文夫さん等の説明によりますと帝都電鉄開業時の昭和8年モハ108として生まれ、この写真は戦災復旧等の経過を経て台車TR10をはいたクハ1204の姿ですね。その後、サハになったり、京王線に転属してクハになったりした後、伊予鉄モハ136となり、生涯を終えたようです。伊予鉄と言えば、この井の頭線の3000系の第一陣が6月30日に四国入りします。既に八王子市北野にある京王重機を出発しており、今夏には京王帝都時代にはあり得なかった3000、5000の並びが見られそうです。

    ※永福町1713→運転室扉が開き、行き先版がないので、永福町折り返しの場面なのかもしれません。この1710形は昭和21年製で1700形と共に京王線転属後の2ライトの姿しか知りません。鈍足であったと聞いております。

    ※永福町1712→西永福から出発して永福町に入る姿で、両サイドは武蔵野の木々。今からは想像もつかない貴重な沿線風景の記録です。

    ※永福町1257→昭和16年クハ257として日車で生まれ、クハ1557、クハ1573を経てクハ1257となる。その後サハとなり昭和58年廃車。

    京王帝都は京王電気軌道と帝都電鉄の合併名で大東急時代に小田急支社が1000、京王が2000、東急が3000、京急が5000番台として車両番号を区分けしていたように聞いております。当時、井の頭線である帝都線は小田急系の名残りで1000番台であったのでしょう。戦後分離独立するときあまりにも京王が貧弱なので井の頭線をつけたと言う話はよく聞きます。新京阪の所属が変わったのと逆ですね。

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